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次話投稿しましたが、次の話ではありません。修正を加えた際、長くなったので章を追加しただけですのであしからず。
「ここに白い線が入っているのが分かるかな?」
と、外科医の先生は言った。
受付で三十分くらい待った後、診察室に通された。そこにいたのは、一年前にあたしの足を診てくれた人と同じ、三十過ぎくらいのやせた先生だった。
別室でレントゲン写真を撮って、今また診察室に戻ってきたところだ。看護婦さんが現像したレントゲン写真を持ってきて、ホワイトボードに貼り、先生はその足の部分を指している。
親指の下にある、白い線。前に一度見たことがある。
「はい。ありますね」
「これね、ひびが入ってるんだよ」
「それはつまり……」
「骨折だよ」
はっきりと言われてしまった。
骨折。
どうやら、夢ではないらしい。
「保坂さんは、部活とかやってるのかな?」
「はい。ソフトボール部です」
「いつから痛み出した? 最近かな?」
「はい。今日の昼くらいから、ずっと痛かったんです」
「なるほどね」
先生はカルテに目を落とし、ペンを走らせた。なめらかなドイツ語の文字が、ひどく無機質に見えた。
「これは疲労骨折っていう類のものだ。記録を見る限り、保坂さんは去年僕の治療を受けてるみたいだけど?」
という先生の言葉に、あたしは「あのときはどうも」とそっけなく返す。とても愛想なんて振りまく気にはなれない。
まいった。本当にまいった。
あーあ、どうすんのよこれ。
「これは疲労が少しずつ骨にたまっていくやつだから、いきなりなるものじゃない。今までそんな予兆はなかったかな?」
予兆――。ないことは……ないかな。
ガラにもなくエラーしたり。
ジャンプの距離が短くなっていたり。
あれが予兆だったとしたら。そのときにはもう、あたしの足は限界だったんだ。
バカみたい。
その後に、優勝するとか言っていたんだもの。
「あったと……思います」
「去年も同じ怪我をしたみたいだね」
「はい」
「そのときに、無理な運動はしないようにって言わなかったかな?」
「はい。そのように」
先生の口調は穏やかで優しいものだったけど、あたしはなんだか怒られているような気分だった。
実は去年怪我が治った後も、無茶な練習を続けてきた。
あたしは才能がないから、他人より努力しないといけな
かった。
「無茶はいけないよ保坂さん。疲労骨折は、一度なったら再発しやすいんだ。しばらくは運動はしないこと。後、これからも無茶な運動は控えること。いいね?」
うるさい。もう、黙っててよ。
練習しないと上手くならない。
練習しすぎると身体が壊れる。
そんなの――どうしろっての。
「ちょっと、君」
先生は看護婦さんに一言、何かを言いつけた。看護婦さんはうなずくと、横のドアからどこかに入っていった。
あたしは先生が何を言ったのかすぐわかった。去年と同じだったから、わかった。
だから、そんなこと、させるもんか。
「先生」
「ん?」
カルテに目を落としていた先生が、こっちを向く。
「痛み止めを下さい」
「ああ、痛み止めも出すよ。痛んだら食後に――」
「ギプスはいりません」
先生が不思議そうな顔であたしを見た。
いらない? と眉根を寄せる。
「いらないって保坂さん。君の足、折れてるんだよ?」
「折れていても、あたしには必要ありません」
骨折がなんだ。
そんなものは、気合でどうにかしてみせる。
「明日、ソフトボールの大会があるんです。今までそのために練習してきたんです。あたし、ピッチャーなんです。だから……お願いします」
「……」
座ったまま、先生に頭を下げた。
確かに、明日の試合で打たれないという自信はない。それでも、あたしより投げれる子はいない。あたしが投げないと、負ける可能性はグンと高くなる。だからどうしても、投げないといけない。
それに、明日の試合は最後なんだ。もう、これを逃したら、中学生時代の試合はこの先にはない。
しばらく先生は無言だったけど、
「ひびが入ってるのは、種子骨っていう場所なんだ」
「種子骨?」
その名前は、去年も聞いたような気がした。
先生は言い聞かせるように話す。あたしが頭を上げて先生の方を見ると、難しそうな顔をしていた。
「保坂さんくらいの年齢だと、まだ成長段階にある骨だ。衝撃を吸収したり、摩擦に抵抗したりするための骨さ。歩くときや走るときに大事になってくる部分だ」
難しくて首をかしげそうになりながら、黙って先生の話を聞いた。
「それが治りきってないうちに運動すると変に癒着して、大人になってもそのままになるよ。成長段階なことも考慮に入れると、やっぱりどうにも……」
やっぱりあたしには、よく理解できなかった。
えーっと。
ああもうっ、もっとわかりやすく言ってよ!
「それは、どういうことですか?」
「治らないうちに運動すれば、今までどおり運動できなくなるかもしれない。だから保坂さんは、明日の試合に出ることはできない」
「そ、そんな――!」
うそ……マジ……!?
先生の言葉は無慈悲だった。
運動できなくなるってことは、もうソフトボールできなくなるってこと?
ちょっと待ってよ、そんなの……。
「どうしても無理なんですか……? かもしれないって、絶対じゃないってことですよね……? あたし、あした出れるんですよね!?」
「駄目だ。もしもの事があるから、安静にしてなさい」
断定。きっぱり言う。
先生は医者だ。あたしより、あたしの身体に詳しいんだろう。この状態で試合に出るのが、危険なことは間違いない。
ふと横のドアが開いて、さっき姿を消した看護婦さんが診察室に戻ってきた。
その手に目を向ければ、見覚えのある包帯みたいな白い布と、水の入ったバケツを持っている。
「ギプスを巻くから、足を出して」
看護婦さんが持っているものは、ギプスだ。
水に浸けて巻くと、固まって取れなくなる。
何で……。
何で、こうなったの。
そりゃ、あたしが無茶しすぎたかもだけどさ。
こんなのって――あんまりじゃない。
マガイモノ。
真物のフリをするのが、いかに滑稽なことか。
自分を偽ることが、いかに滑稽なことか。
そんなこと、ずっと前からわかっていた。
背伸びした自分。紛い物の自分。
それが今、剥がれ落ちようとしている。
これで終わり?
あっけない。あまりにも、あっけない。
希望って、こんなにあっけなく壊れるものなの?
――ふざけんな。
もう後には退けないんだ。
必死の思い出ここまできた。
みんなで一緒にがんばってきた。
紛い物。上等じゃん。
それで勝ってやろうじゃん。
「――帰ります」
「え?」
あたしは立ち上がって、そのまま診察室の入口に直進した。足が痛むけど気にしていられない。
「ほ、保坂さんっ! 待ちなさい!」
「もう結構です!」
先生の声が背中に刺さる。
知ったことか。あたしは投げないといけないんだ。絶対勝つって、後輩と約束したんだ!
左足に鞭打って、診察室の入口に手を伸ばした。
ガタンッ!
大きな音。
扉が突然、勝手に開かれた。
「どこ行くんスか?」
足が止まった。
「な……何で、あんたが……!」
ドアの前には、後輩が立ちふさがっていた。
パァン!!
激しい平手打ちの音が診察室に響く。
「先輩のうそつきっ!」
鼓膜が破れんばかりの大声が飛んできた。痛む頬を手でさすると、じんじんと熱かった。
「無茶はしないって、約束したじゃないッスか!」
後輩の大きな声が、狭い診察室に響く。
「何で……」
何であんたが、ここにいんの。
両足が震えて動かなかった。でも、あたしは行かなくちゃならない。ほんとは弱いけど。ほんとは泣き虫だけど。ほんとはすっごく怖いけど。それでも、行かなくちゃ。
「どいて!!」
「断ります」
後輩の強い意思がこもった言葉。意地でも動く気はないらしい。
「話は外で全部聞いていたッス。先輩、足の骨折れてるんスよね? じゃあここは通せません。先輩がギプスを巻くまで、絶対どかないッス」
両拳をかたく握り締めた。
「バカ言わないで。そんなことしたら投げれなくなるって、明日の試合に出れなくなるじゃない」
「……本気で言ってんスか?」
真に迫る表情で後輩は言う。あたしは頷いた。
「あたしが投げないと、他に誰が投げるの?」
「先輩のばかっ! どうしてそんなに無茶ばっかするんスか!」
平然と言ったあたしに、後輩は大声を飛ばしてきた。一年前、お見舞いに来てくれたときの台詞と同じものだった。
「どうして?」
どうしてって、そりゃ。
才能ないからに決まってるでしょ。
ほんとのあたしを知らないあんたには、わかんないか。
わかんないよね。
あはっ……笑っちゃう。
「あんたなんかに――あんたなんかに何がわかる! あたしはエースなんだ! キャプテンなんだ! ヒーローなんだ! あたしが投げなくていいの!? あたしより投げれる子、他にいる!? いないよね誰も。あたしが投げなかったら負けちゃうよ!? 優勝、絶対できなくなるよ!? あんた本当にそれでいいの!?」
のどが痛くなるくらい叫んだ。後輩は微動だにせず、あたしの前に立っているだけだった。
はっ。ほら見ろ、何も言えない。
結局あんたも勝ちたいんじゃん。
あたしがいないとダメなんだよね。
わかったら――さっさとあたしの前からどいて!!
「――いいッスよ」
「え?」
「自分は負けても、全然構わないッス」
「――なっ!?」
後輩の正気を疑った。後輩もチームで一緒に、きつい練習にたえてきたはずだ。まだ来年あるといっても、後輩はレギュラーだ。
勝ちたいに決まってる。絶対優勝しようって、約束もした。なのに何でコイツは、そんなことを軽々しく言えるんだ。
嘘だ。嘘に決まってる――。
「あ、あんた本気で言ってんの!? そんなの嘘に決まって――」
「本気ッスけど、それが何か?」
しれっと言う後輩にイラっとした。
「早くそこ、通してくれるとうれしいんだけど?」
「先輩。正直に答えて下さい」
「……何よ、こんなときに」
「先輩、怖いでしょう?」
「――え……」
ドキリ、とした。
「どうなんスか、先輩」
後輩のおっきな目が、あたしを見つめる。なんだか、事情聴取されている容疑者のような、心地の悪い気分だった。
「怖くなんてないっ!」
「嘘ッスね」
きっぱり切り捨てられた。何を根拠にそんなことを言っているかはわからない。そもそも根拠なんてないのかもしれないけど、どこか確信めいた言い方だった。
「嘘じゃないんだから!」
「その左足――痛くて、泣いちゃいそうでしょう?」
後輩の言葉は、的確にあたしの胸を貫いた。
「え、いやっ……こ、こんな足、痛くもかゆくもないっ! 泣きそうとか、ありえないし!」
おかしい。呂律が上手く回らない。
「嘘ッス」
また、確信があるかのように言う。
「嘘なんかじゃ、ないって……!」
「先輩。今まで言ってなかったッスけど、この際だから教えますね」
「……何をよ」
「先輩は――先輩は嘘をつくとき、絶対に相手の目を見ないんスよ」
「っ――!」
はっとなって、自分の目元に手をあてた。
後輩の目をまっすぐ見ようと思っても、あたしの目は制御を失ったように泳ぐ。後輩の目を見ると、なぜか胸が苦しくなってくる。
「先輩。どうしたんですか」
と、後輩は言った。
何、あんた。
あたしが間違ってるとでも言いたいわけ?
何でそんなこと訊くの。
何でみんなみたいに、あたしを頼らないの。
何であんただけ、そんなに違うの。
――そんなまっすぐな目であたしを見るな!
「そんな目であたしを見るな!」
「そうやって無茶するのも、本当の先輩がばれてしまうのが怖いからッスよね? 小学生のときみたいに、弱い自分がばれてしまうのが怖いんスよね?」
心臓が破れるかと思った。
「え……?」
ちょっと待って。
まさか。
まさか、後輩は――。
「涼子――もしかしてあんた、知ってるの?」
声が震えた。後輩は変わらず、あたしを見つめ続けている。
もし知っているなら、最悪だ。後輩はあのあたしを、惨めでかっこ悪いあたしを、知っているかもしれない。そう思うと後輩の目を見てられなくって、逃げるようにうつ向いた。
やめて……。
こっち向かないで。
あたしを、見ないでよ!!
「先輩、ソフトボールで推薦決まってんスよね?」
「うん……」
「足壊したら先輩、高校行けなくなるッスよ?」
「……」
「ギプス、巻いてもらいましょう?」
「イヤだ……イヤだよ……!」
「先輩がソフトボールを続ける限り、チャンスなんていくらでもあるんス。ここで可能性を捨てないで下さい」
「でも……でも……っ!」
!」
「じゃあ――約束ッス」
「……?」
「自分も卒業したら絶対、先輩と同じ高校に入るッス。だから待ってて下さい、また会いに行くッスから。そしたらまた一緒にバッテリー組みましょう。そんで、そのとき一緒に優勝しましょう。だから、約束」
そう言って後輩は、いつも通りにっと笑った。その顔は昨日見たはずなのに、すごく懐かしい感じがした。
ああ、まずいな……もうムリだ。
「う……」
えぐっ、えぐっ、としゃくりあげて、自分でも信じられないくらいの涙があふれ出てきた。
紛い物のあたしが剥がれ落ちて――。
素の自分が出ちゃって――。
後輩の顔が滲んで見えなくなって――。
涙が止まらなくなって――。
いつかの昔みたいに、思いっきり泣いた。




