天河
墓参りを終え、瑪瑙を撒いた氷魚は、そこで金髪をした、不思議な青年と出会っていた。
しかし、彼の正体は誰も、予想だにしないものだった!?
その頃、宮殿内を抜け出し、山中を歩いていた天河は、見るも悲惨なあり様だった。
ぬかるみに足を取られて転び、絹の衣は泥まみれ。
威厳もなにも、あったものではない。
「…あた、あたた、参ったなこりゃ」
軽装とはいえ、明らかに目立つ格好の上、泥まみれときた。
この先には(自分の考えは別として)天敵妖魔の村があるが、よくて叩き出され、最悪の場合は殺されるのが、関の山だろう。
まったく、これはどうしたものか。
「とりあえず、沢に下りた方が、良さそうだな」
「だあっ!手ぇ洗うだけって言ったろうがっ、うわ!やめろ、水かけンなって」
「あはっ、固いこと言わないのー…気持ちいいわぁ」
氷魚の白い素足が、軽やかに水面を踊る。
「ってコラ!どこ行くんだよっ、氷魚っ」
見とれていて、気がつかなかった。
歯がみしながら、慌てて彼女の行く手を塞ぐ。
「だーい丈夫っ、すぐ戻るからっ」
しかし、彼女はするりと身を翻して、瑪瑙の脇を抜けた。
伸ばした手は、宙を掴む。
瑪瑙を撒いてから、息を整えて、氷魚は一人ごちる。
「ふぅ、ちょっと来すぎたね…奥って、こんなだっけ?」
緩やかな流れを渡ったところで、突如、彼女の足が止まった。
目が、合った。
ヒトがいたのだ。
「あっ…」
氷魚は、突然体が凍ったように動かなくなり、慌てて一歩を踏み出そうとするが、うまくいかず、転んでしまった。
「ひえ…ビショビショだぁ」
「大丈夫か!?すまない、驚かしてしまって、ヒトがいるとは思わなかったんだ。さ、手を」
「う、ううん…あたしこそ。あんた、見かけない顔だけど、旅人かなにか?泥だらけよね…なんだか」
差しだされた手を取って、氷魚は立ち直す。
「あ…いや、そんなトコかな?」
まさか、宮殿から逃げてきたとは言えない…
「ふぅん…すごい、きれいな金髪よね?これ…あたしも、昔は憧れてたっけな」
「昔?幼少の頃か?」
「え、ええ!?いや、そうじゃなくて…まぁいいわ、そうだっただけの話よ」
「そうか」
「うん、そう」
「そなた、名は?」
「あたし?あたしは氷魚、あンたの名前は?」
「俺は…天河、天河という」
「男!?女の人かと思ったよ…」
「女に、見えるのか?」
深々と、頷く氷魚に天河は、ぷっと吹き出した。
「面白いな、そなた」
「そお?」
この二人、気が合うのか、妙に意気投合している。
「氷魚は、異界から来たのか、そうか…」
「うん、色々と大変なんだよね、敵さんとも戦わなきゃないし」
「大変なのは、俺も一緒だな、今ごろなんて、多分宮殿内は大混乱だろうなぁ…」
「どして?天河、なにかしたの?」
「皇太子がいなくなったのさ、ほんと、窮屈だよ…あそこは。何もかもが決めつけられて、逃げ出したくもなる」
「よく分かるのね、友達か、なにか?」
「いいや、それは…俺がその皇太子だからだよ」
天河は、面白そうに、ニヤリと笑った。
「こっ、皇太子!?って言われても、こんなドロドロじゃね…もうちょっと、威厳を持って言わなきゃ、そうは見えないわよ」
「フフ、それもそうだな」
「それにしても瑪瑙、遅いわね」
氷魚は、キョロキョロと回りを見まわす。
「連れがいたのか…はぐれたの?」
「うーん、はぐれたというか、何というか」
氷魚は、曖昧に言葉を濁した。
「ふむ、では迎えがくるまで、ここにいればいいさ」
よっこらせ、と氷魚の隣に、天河は腰を降ろした。
「でも…彼を捜さなくちゃ」
「彼、従者か?」
「ううん、瑪瑙はあたしの夫よ」
「そなた、いくつだ!?夫がいるようには見えぬが…」
「女に年をきくなんて野暮ね――‐‐‐教えなーい」
ひどく驚く天河に、氷魚はそっぽを向けた。
「後宮の娘より、かなり若く見えるんだが」
「そういう天河こそ、いくつなの?」
「いくつに見える?」
面白そうに、含み笑う天河。
「そうねぇ…二十歳くらいかしら?」
「おしい、25だよ」
「ふーん…結構、若く見えるね」
その時、氷魚は背後から急に掬いあげられ、悲鳴を上げた。
「きゃっ!ちょっとやだっ、どこ触ってンのよ――!」
暴れる氷魚を、聞き慣れた、中音の声が制する。
「落ちつけっ、俺だ、氷魚!」
「瑪瑙!?もぅ〜…バカバカ、遅かったじゃない〜」
べったりと懐く氷魚に、多少顔がゆるむが、瑪瑙は、努めて緊張感を持って言った。
「結界が張ってあった。てめぇ、何者だっ、見たところ敵属のようだが…何をしにきた!」
「ちょっと、瑪瑙…待って、放してってば、どういうこと?天河が、なにかしたの?」
「氷魚、こいつは…俺たちにとって敵属だ!」
「敵、属って…村を襲ったのが、天河と同属の妖魔ってこと!?」
氷魚は、半歩後じさった。
「そうだ!さぁて、どうしてくれようかっ」
「ちょっ、ちょっと待ってくれよ!なにも、頭から決めつけなくてもいいだろうに、そりゃ、確かに俺は、お前たちから見たら敵になるかもしれんが、そのすべての者が、そうとは限らんだろう?」
天河は、腰の刀を地面に放り投げた。
「一体、何のつもりだっ」
威嚇して、唸る瑪瑙。
「つもりもなにも、俺だって、好きであんな場所にいたわけじゃない…」
「そ、そう、瑪瑙…天河はね、そこから逃げてきたのよ」
「俺さぁ、そういうのって、めんどくさいんだよねー…性に合わないっていうか」
暢気に欠伸して、縦に伸びをする天河。
いつの間にか、語調が変わっている。
「ったく氷魚、お前って奴ァ…なんでも懐くんじゃねぇ!なんてこった」
瑪瑙は、呆れながら、頭を抱えた。
「あ、ちなみに俺、皇太子ねー」
「げ!?」
一瞬にして、石化する瑪瑙。
「あたしも、最初は驚いたけどさぁ…天河、あなたやっぱり貫禄ないわよ、こんな泥だらけじゃ、でも、このまま放っとくわけにも行かないしねぇ」
氷魚は、ちらりと瑪瑙を見た。
「な!?氷魚っ、お前まさか、こいつを村に連れて行くつもりか!」
「だってぇ…」
「じゃぁさ、要は敵に見えなきゃいいんだろ?変化して、妖気を消せばいい。変化は得意だよ」
ニカッと、人なつっこく笑う天河。
「そういうこっじゃねぇ!」
「まーまー、そうカリカリしないでさ、気楽にいこうよ」
「いけるか!!」
天河の金髪は、みるみるうちに変色し、紺青色になっていく。
「これでよし、妖気は、ちゃんと消したよ」
「すごーい、化けるなんて…なんだかタヌキかキツネみたい!」
「おや、いい目だね…本性を見抜かれちゃった」
はしゃぐ氷魚に、相変わらず、天河は面白そうだ。
「え、そうなの!?ホントに狐なの?」
「そっ」
「氷魚!戻るんだろっ、さっさと行くぞっ、懐くな!」
瑪瑙は、二人の間に割ってはいる。
「うんっ、天河、案内するからついてきて」
「すまないな、これから『も』世話になる」
「も、って…居すわンのかよ!?」
吼える瑪瑙。
「そうカリカリするなって」
「うるせぇっ!いいか、妙な動きしてみろっ、叩きだしてやるからな!」
「ごめんね、天河。この人、口悪くて…気を悪くしないでね?あんな事言ってるけど、ホントは優しいのよ」
「だっ、誰がだっ、氷魚っ、いいから行くぞ、早くこい!」
「はーいはい」
玄関のドアが閉まる。
瑪瑙は、落ちつきなげに、そわそわしていた。
「ごめんね、狭いけど我慢してね?あ、そこ座って」
「いいや、匿ってもらって、そんな恩知らずなことは言わんよ」
「そう、よかった。とりあえず、この服をどうにかしなくちゃね…待ってて、服探してくるから」
ぱたぱた、と走っていった氷魚の背中を見送り、天河は、未だ警戒を解くことなく、壁により掛かっている瑪瑙に話しかけた。
「愛い娘だな…」
「やらねぇぞ」
「心配ない、やれやれ剣呑だなぁ」
「けっ…」
「なぁ、もう少し、警戒を解いたらどうだ?」
「できるかよっ!そんなの」
「俺は…いわば、謀反者だよ。敵属だから殺すとか…戦だの、俺には重すぎる。どうも、周りと考えが合わなくてなぁ…厭になって逃げてきたんだよ、周りに左右されるだけの暮らしからね」
「そう簡単には、受け入れられねぇよ」
戸惑いながら、瑪瑙は、唸るように小さく言った。
重苦しい静寂が流れるが、それを破って、氷魚が飛び込んできた。
「ごめんねっ、探すのに手間取っちゃって、瑪瑙の古着だけど、着られる?」
「ああ、すまないな…ありがとう」
「ううん、部屋は二階の端ね…狭くてごめんね、ホント」
「着替えてくるよ、これじゃ、ちょっとキツイし」
「うん…」
天河が行ってしまってから、瑪瑙は、そっと氷魚に話しかける。
「無理…してンだろ?氷魚」
「ううん、大丈夫よ…天河は敵属だけど、邪気がないわ。信じられそう」
「お前が、そういうなら…ホントに、大丈夫か?」
「相変わらず、心配性ね…うぅっ!」
氷魚は、突然襲った吐き気に、口を押さえて屈みこんだ。
「おいっ、大丈夫か!?氷魚っ」
瑪瑙は、慌てて氷魚を抱き上げると、榻に横たえた。
最近、氷魚はよく吐き気を感じるようになった。
特に、体調が悪いというわけではないのだけれど。
「うん、ごめんね、もう平気…最近、よく吐きそうになるの」
「風邪、ひいたのか?」
「う――‐‐‐ん、分かんない」
「今日は、早く休んだ方がいいな、悪化するといけない」
「休ませてくれないクセに…」
上目づかいに見て、頬を膨らます氷魚を、しれっと聞き流そうとしたが、ふくれっ面の彼女に、思わず顔がゆるんでしまった。
「もう、やっぱり!瑪瑙〜?」
「バレたか…」
「天河に聞こえちゃうでしょ、恥ずかしいじゃないっ」
「俺は別に?」
伸しかかり、耳元で瑪瑙は言う。
「ちょっと、ダメ、やだってば!」
氷魚は赤面しながら、じたばたする。
「いやいや、若いっていいねぇ」
突然、降ってきた天河の声に、瑪瑙は狼狽した。
「んなっ!てめえ、いつからそこにいたんだよ!?」
座っていた上階段の手すりから、フワリと着地する天河。
「いつだったかなぁ、忘れた」
ははは、と笑って頭を掻く。
「てめぇ――――‐‐」
「おっと、暴力はナシだよっ」
「うるせぇ、一発殴らせろ」
「わー、暴力反対!」
「ふぅ…」
どたばた、と駆けまわる二人を尻目に、内心、助かったと思った氷魚である。
しかし、頭の痛くなる種が、また一つ増えたのも事実だ。