03
リーリエールは窓辺の小さなテーブルの上にある、水差しからグラスに水を注ぐ。少しずつ飲んでいるつもりなのに、水差しの中の水は、もう半分もなかった。
「リーリエール様、やはり落ち着きませんか?」
側に控えていた侍女の言葉に、ほうっと大きく息を吐き出して頷く。
夕餉は王太后の誘いで早い時間に一緒に取った。湯浴みもして念入りに香油を肌に塗り込んだ。
後はグラウディオの訪れを待つばかりなのだ。
「……昼間、ディレインに言われた事を色々と考えてしまって」
散歩に付き添っていた侍女だが、二人の話が聞こえるほど近くに付いていた訳ではない。
「殿下は何を仰ったのですか?」
「うん。まるでグラウ兄様が、私のために心を砕いて下さっているかのような事を言っておられたわ」
「それは嬉しい事ではないのですか?」
「……ここに来るのも、閨のお勤めも、御子を産むのも、義務だと思っていたの。だから、そこに心はないと思っていたのよ」
時間を掛けて、穏やかに想い合えれば良いと思っていた。ないと思っていたものが、必要ではないと思っていたものがあるのかも知れないと言われれば、動揺するし、期待すらしてしまう。
「だってね、最近巷で人気の恋愛小説って読んだ事ある?」
「いいえ、ありません」
リーリエールは婚姻の日取りが決まってから、あまりやる事がなかったのだ。もうすぐ嫁ぐというのに、いつ終わるか分からない刺繍をやる気分ではなかったし、行儀作法の勉強なんてそれこそ今更だったから。持て余した時間で手軽に出来たのが小説を読む事だったのだ。
「人気のお話の殆どはね、王様と結婚する身分違いの少女のお話なの。身分違いによる苦難を乗り越えて結ばれるお話」
「それがどうかなさいましたか?」
「その手のお話に出てくる主人公のライバルって、大抵は私みたいな人間なのよ」
「……と、言いますと?」
「身分の低い主人公は、王様と釣り合った身分で許婚の令嬢や王女から嫉妬や嫌がらせを受けるの」
何が言いたいのか分からなくて、侍女は曖昧に頷いて先を促す。
「それが『王道』なのですって。お話の中ですらそうなのよ?だからね、私は結婚相手がディレインでもグラウ兄様でも、それこそ隣国の王子でも、その寵愛はいつか他の誰かに行くのだと思っていたし、今でもやっぱりそう思う。……なのに、グラウ兄様がそんな風に私に優しくして下さると、私は期待してしまうし、その期待が崩れてしまったら、……辛いわ」
それを聞いて侍女は、王妃となったばかりの目の前の主が、まだ十七歳になったばかりだった事を思い出した。
身分が高ければ高いほど、その結婚は個人のものではなく、家のため、国のためになる。余計な感情はそれを妨げると無意識に理解していたから、仲が良かったディレインにさえ恋心を抱かなかったのだ。
リーリエールが年頃の少女のように愛し愛されて結婚したいと思うのは当然の事なのに。
侍女は口を開こうとして、ふと寝室の横の扉が少しだけ開いていることに気が付いた。その扉の向こうは、国王の私室だ。だから侍女は余計な事は言わずに、一つだけ言う事にした。
「良いですか?リーリエール様。巷で流行の小説の王道だか何だか知りませんが、王妃と言うものは一朝一夕になれるものではありませんし、恋愛感情だけで動けるほど国と言うものは簡単なものではありません。ありえない設定のお話だからこそ、読み手は夢を見るんですよ。本当の王道と言うのは、リーリエール様と陛下のような関係を言うのです」
「……」
無言で何かを考えているリーリエールに、侍女はチラリと横の扉を伺うと頭を下げて退出して行った。
「……いいかい?リリ、三年だよ?」
「っ!!」
考え込んでいたところに声が聞こえて、リーリエールは手に持っていたグラスを落としてしまう。床に敷かれた毛足の長い絨毯がクッションになって、割れはしなかったが残っていた僅かの水が、絨毯に吸い込まれて行った。
「……グラウ……様」
いつもと同じように、兄様と呼ぼうとして飲み込む。ディレインと話してから、その方が良いのだろうと思ったから。
パチパチと瞬きを繰り返すのは、リーリエールの驚いたときの癖。
「リリ、三年だ」
もう一度繰り返したグラウディオに、リーリエールは首を傾げる。
「先代も先々代も王妃が王子を二人以上産んでいたし、側室を入れなかったからリリは知らないかもしれないけどね、このドーレイミでは王妃が結婚してから三年間子供が出来なかったら、側室を入れるんだ」
先ほどの侍女との会話を聞かれていたとは知らないリーリエールは、どうしてグラウディオが急にこんな話を始めたのか分からなくて口を挟めない。
「昔ね、王の寵愛を争った側室が、王妃を暗殺してしまった事があるんだ。だから、この国では王妃が三年経っても子供が産めない場合にのみ側室を入れるんだ。……言い換えれば、三年の間に子供が生まれれば、側室は入れなくても良いんだ」
「……」
「リリが私よりもディレインとの方が気安かったのも分かってはいるんだけど、ディレインとリリがもしも結婚していたら不愉快になるくらいには私はリリを好きだよ」
今までほんの少しもそんな素振りを見せた事のなかった人からの言葉で、リーリエールの顔は瞬時に紅潮した。
「だから、リーリエールの望む通りにしてあげる。……どうする?」
ゆっくりと囁くような言葉は、まだ時間があるのだから今日すぐに『夫婦』にならなくても良いと言外に告げている。
グラウディオの本心を見極めたくて、リーリエールは恥ずかしさを堪えてその瞳を覗く。
「……グラウ様は、もしも嫁いで来たのが私ではなくても、構わなかったのよね?」
聞くのがとても怖いけれども、これはきっと『今』聞かないといけない事なのだと思うから、掠れた声で問い掛けた。
グラウディオはその問いに、目を細めて微笑む。
「リリ、他の侯爵家や伯爵家にも私と同じくらいの歳の令嬢はいたと思わない?」
ディレインとリーリエールの歳が近いように、リーリエールとグラウディオの歳は離れている。寧ろ、他の貴族の令嬢の方が年齢的には釣り合いが取れていると言えるだろう。
「グラウ!……それって……」
グラウディオは猫のように目を細めたまま、リーリエールに再度問い掛ける。
「リリ、どうする?」
リーリエールは耳まで赤らめたまま、無言で差し出された手を取る。
「きっと後からでもグラウ様のこと、一番特別に想えるようになると、思うから。……ううん、分かる、から」
精一杯で微笑んで見せてそう言ったリーリエールに、グラウディオは嬉しそうに頷いた。
「言っただろう?後悔はさせないって」
――それが、二人の初めての、夜。