02
リーリエールはふかふかの布団の中ですっかり明るくなった窓の外に気が付いた。
瞬きを数回して、布団の中から腕を伸ばすが、少し辺りを探ったところで力尽きたようにパタリと動きを止めた。
――そうだ。ここはもう家じゃないんだ。
明らかに一人寝には大き過ぎるベッドでは、腕を伸ばしたところでベッドサイドの呼び鈴には届かない。
家では母親から「きちんと目が覚めるまで起きてくるな」と厳しく言い渡されていたほど、リーリエールの寝起きは酷い。
仕方なく弱々しい手つきで手を叩く。
力の入らない音しか出なかったにも拘らず、直ぐに「失礼します」と侍女が入ってくる。
「お后様、お呼びですか」
頭を下げたままこちらを見ないのは、昔は使用人が主を直接見る事が不敬だった事から来た名残だ。けれども今入ってきた侍女はファソン家から連れて来た、リーリエールと長年一緒に過ごしてきた人間だ。今更そんな殊勝な態度を取るはずがないし、事実、チラリと見た彼女の口元は笑っている。
「ん」
からかわれているのだろうと思うと悔しくて、何も言わずに掌を差し出した。それだけで侍女にはリーリエールが何をして貰いたいのか分かる。
「畏まりました。昨日は流石に宴が終わるのは遅かったですからね、お后様」
リーリエールは嫌そうに目を開くと、ベッドサイドに跪いて差し出された掌を揉み始めた侍女をねめつけた。寝起きが悪くて酷いリーリエールは、掌や足をマッサージして暖めないとしっかり目が覚めないのだ。疲れている時は、特に。
「それ、何の厭味なの?」
姉妹のように一緒にいた相手だからこそ出てくる気安い言葉に、侍女は笑う。
「一度は言っておかないと、と思いまして」
遠慮なくそう言ってくつくつと笑う姿を見れば、脱力して怒る気にもなれない。
「リーリエール様には今日は慣例通りにお休み頂きます」
他の国はどうだか知らないけれど、この国では結婚式を挙げた日は国内外の賓客をもてなして遅くまで宴が繰り広げられる。だから所謂『初夜』と言うものは、結婚式の翌日、つまり今日の夜と言う事にされているらしい。
「ゆっくりお休み戴いても構いませんが、何かなさりたい事があれば仰って下さい」
「つまり夜まで暇って事よね」
「まぁ、有り体に言うなら」
何も知らずに嫁いで来たのならば夜までに支度をしたり覚悟をしたりするのだろうけれど、リーリエールはしっかりそれも王家に嫁ぐ事の義務なのだと解っている。しかも相手は幼い頃から知っているのだから、おかしな気分ではあるけれど特に構えることもない。
それならば、リーリエールは部屋に籠もる事はしたくなかった。
「じゃあ、久しぶりに中庭が見たいわ。散歩しましょう」
幼い頃に父親に連れて来て貰った時に遊んだ中庭を思い出してそう言った。
「畏まりました。そのように手配いたします」
昨夜の宴で供された食事や夜食で、朝ご飯は食べられそうにない。そう思い至ると散歩はよい運動にもなるし、丁度良いだろう。
しっかりマッサージされた掌を二度三度と握ってみて、気分よく動けそうな感触にリーリエールは漸く顰め面を解いて笑顔を見せた。
* * * *
さあっと頬を風が撫でる。花の香りが少ないのは、花の盛りの季節を過ぎたせいだろう。
リーリエールは高い空を見上げながらゆっくりと庭を歩いていた。
「あれ?リーリエールじゃないか」
後ろから声が掛かって、驚きに肩を揺らす。淑女らしくなく、反射的に振り返ったのはよく知った声だったからだ。
「……レイ」
けれども親しげに声を掛けてきたはずのディレインは、対面したリーリエールに王子らしく綺麗な所作で優雅に一礼した。
「レイ?」
戸惑うリーリエールを半ば無視して『微笑む』と言う言葉がぴったりの顔を上げる。
「ご機嫌麗しゅう、王后陛下」
綺麗に微笑んでいた顔を、悪戯をした後のような表情に変えたディレインに、リーリエールはこれ以上ないくらいに嫌そうな顔をした。
「そんな顔をしないでよ。一度はやっておかないと」
お約束でしょう?と笑うディレインに、リーリエールは内心で「またか」と思う。けれども侍女とディレインは違う。ディレインとはもうこんな風に親しく会話する事も良い事ではないし、王となったグラウディオと結婚したリーリエールの方がディレインよりも身分が上になるのだ。
リーリエールの考えている事も、ディレインが敢えてやって見せた臣下の礼で言いたい事を違う事無く理解したのも分かったように、ディレインは直ぐ側に控える護衛たちを示して視線を送る。
「今日は偶然に会っただけだから大丈夫。僕はこれから昨日の式典に来て頂いたお客様のお帰りの手配でね、来賓棟に行くんだよ」
言われてみれば、ディレインが向かう先には王宮のお客様が泊まる来賓棟と呼ばれる建物がある。城の中からも行けるのだが、中庭を突っ切った方が早いのだ。
納得したように頷いたリーリエールに、ディレインは苦笑する。
「ねぇ、リーリエールは結婚相手が僕じゃないって分かってどう思った?」
国同士の思惑が絡んだ事情を理解出来たために、「そうか」程度の気持ちで切り替えられた、なんて流石にディレインに行っても良い事ではないと分かるから、返す言葉を直ぐに見付けられなくてリーリエールは俯いて、黙る。
「じゃあ質問を変えよう。実は君が知らなかっただけで、もう随分と前には君の結婚相手の最有力候補は兄に代わっていたんだ」
「そうなの?」
「ああ。だから僕はその頃から少しずつ君との距離を置くようにしていたんだ」
「……気が付かなかったわ」
ディレインは少しだけ切なそうに、苦笑する。つまり、距離を置いても気が付かない程度の相手なのだと言われたに等しいから。
「だって考えてもごらんよ。婚姻の儀の間近になっても手紙一つないなんて、僕と君とのこれまでを振り返ればおかしい事だってわかるだろ?」
「そう言えば、そうかも」
「ついでに、兄さんもあれで悩んでいたみたいなんだ」
「え?」
「だって君は僕か隣国の王子と結婚するだろうって思い込んでいるんだもの。どうに君に伝えてよいのか分からなかったらしいんだ」
結局、当日まで言えなかったみたいだけど。と笑ったディレインの言葉に、リーリエールは胸がざわつく。
「……ねぇ、リーリエール。兄さんを幸せにしてやって。君が王家に嫁ぐ事を言われ続けて努力してきたみたいに、兄さんは国を守るためだけに努力してきていたんだ。自分の事よりも政務や周りの状況ばかり見てきた人だから、君が結婚相手を僕だと決めて掛かっている事を気にしていたんだ。僕たちは想い合っている訳ではなかったけど、結果的に君と僕を引き離した訳だから」
「……」
「僕よりもずっとずっと君のために色々と考えていたんだから」
それだけ言ってディレインはリーリエールの元を去って行った。
リーリエールの胸に波紋を残して。
――それは、初めてリーリエールの心が揺れた日。