01
「グラウ兄様」
リーリエールは笑顔を絶やす事も崩す事もなく、寧ろ喋っている事さえ周囲に分からないように、隣に並ぶ夫となったばかりの男を呼んだ。
「リリ、結婚したんだ。もう兄様じゃないだろう?」
グラウ兄様と呼ばれた男は、リーリエールを自分だけが呼ぶ愛称で呼び返して嗜める。こちらも当然微笑みを浮かべたままだ。
「……陛下」
四頭立ての馬車に乗って街道を埋め尽くす国民たちに笑顔で手を振り答えながら、隣の男にしか聞こえないだろう声音は地を這うように低い。
「リリ。今更それはないんじゃないかなぁ。人前なら兎も角」
そう、この二人は先ほど大聖堂で結婚式と戴冠式を一緒にやったばかりの新王と新王妃だ。王の名をグラウディオ・シリオ・ドーレイミ。病がちだった先王に変わって、もう五年も政務を表立ってこなしてきたからか、今回の即位は『やっと』と言うのが国民の思いだ。
「……グラウ……様」
「うん、まぁ今日のところはそれで許してあげるよ。リリ」
リリ、と呼ばれた少女の名は今日からリーリエール・ミレド・ファソン・ドーレイミ。この国の王家とは建国以前から繋がりのある、由緒正しいファソン侯爵家の長女だ。王家との関わりが深いからこそ、リーリエールはグラウディオを兄と慕って育ってきた。
「呼び方なんてどうでも良いんです。それよりも何で私の隣にいるのがグラウ兄様なんですか?!」
「グラウだってば。……何でって今更言われても、ディレインには隣国の王女が嫁いで来る事になったから、かな?」
ディレインというのはグラウディオの弟であり、リーリエールの記憶が正しいのならば、彼こそがリーリエールの夫となるべき人だったはずだ。
「そもそも、ここ数年の政情不安や戦で君の相手についてはっきりとした名言は誰もしなかったんじゃなかった?」
「……そうですけどっ!でも、お父様に伺った限りではレイが、ディレインが最有力でしたし、そうじゃなかった場合は私が隣国の王子の下へと嫁ぐはずじゃなかったんですか?」
言葉とは裏腹に満面の笑顔でこんな話が出来るのは、どっちに転んでも王家に嫁ぐのだと幼い頃から言われて努力を重ねた結果だ。相手が違ってしまったけれども、隣のグラウディオだって立派な王族だ。何しろ王様だし。
「まぁ、いいじゃん。隣国との戦でウチが有利になったから、こうなったんだし」
ドーレイミが政局も戦局も有利な立場に立てば、こちらからではなくあちらから友好の証として人質代わりに結婚相手を送ってくるのは当然で、人質だと分かっている人間を王妃と言う立場に就けたくないのも当然。
本当なら『友好の証』を『丁重』に扱った結果として王妃にするべきなのだけれど、あまりにこちらの立場が強くなってしまった今回みたいな場合は、嫁ぎ先が王弟でも相手としては充分すぎるだろう。
「……でも、私はずっとレイと結婚するのだと思っていました」
小さい頃から政略結婚になる事は言われていて、大方ディレインで決まりだろうと父からも周りからも言われていた。だからリーリエールはディレインに対して温かな気持ちを持つようにしていたのだ。恋愛ではないけれど、時間と共に慈しみ合って行けるように。
幸い両家は王家と臣下と言ってもその繋がりは深く、仲が良い。リーリエールとディレインは歳が近い事もあって頻繁に会っていたし、手紙のやり取りも時々ではあるがしていた。きっと上手くやっていけるだろうと覚悟を決めていたのに――。
「……」
「グラウ兄様?」
むっつりと黙り込んだグラウディオに、リーリエールは訝しむ。まるで愛し合う二人が自然に見詰め合うように微笑みながらもリーリエールはグラウディオの様子を伺う。
「……そう言う所を見るとリリはやっぱり王族に嫁ぐために育てられたって感じがするよね」
突然話の方向性が変わったように感じながらも、それについてリーリエールは余計な事は言わずに頷いた。
「まぁ、王妃になるとは思ってもいなかったので、外交に関してはあまり勉強をしていませんが」
王として前面に立つわけではないディレインの元に嫁ぐならば、その公務として一番比重を占めるのは国内の孤児院や病院の設立や訪問、寄付など社会福祉だからだ。
「でもリリは今日、式典の前に相手がディレインではなく私だと分かったのに、取りやめるとは一言も言わなかったし、逃げる事も拒否の言葉も吐かなかったじゃないか」
どうしてだと目線で問われて、リーリエールは思わず首を傾げた。
素に戻ってしまった事に慌てて気付いて、街道に向かって笑顔を振りまく。
「……どうして、でしょう?」
式の前の軽い打ち合わせの席でディレインが相手ではない事を知り、驚いたのは本当だ。
先に考えたように、隣国とのアレコレやら大人の事情をグラウディオから聞かされて、「いいな?」と問われた事に反射的に頷いた。
尚且つ、神の前で誓いを述べたのは紛れもなく自分で、それは強制されたものではなかった。
「リリは『王家に嫁ぐ事』が目標だったから、相手はレイだろうが隣国の王子だろうが私だろうがどうでも良かったんだろう」
断定的なグラウディオの言い分に、そこまで自我がないわけじゃないとムッとする。
「……でも、レイが良かったのは本当ですのよ?」
だから少しだけやり返したい気持ちでリーリエールはグラウディオを見据えてそう言った。
「何故?」
「隣国に嫁いでも、兄様に嫁いでも王妃にならなくてはならないでしょう?……それは出来れば面倒臭いから避けたかったのです」
その言葉にグラウディオはクッと笑みを深めると、リーリエールだけに分かるように挑戦的に見返す。
よく見知った兄のような存在だったはずのグラウディオなのに、どうしてか今初めて見る男の人のように見えて、リーリエールの鼓動が騒ぎ出す。
「ま、こうして結婚しちゃった訳だし、先は長いからね。……後悔はさせないつもりだよ。奥さん?」
そう言って艶やかに笑んで見せたグラウディオは、何食わぬ顔で歓声を上げる国民へと顔を向けた。
リーリエールもまた同じように笑顔で手を振りながら、一気に跳ね上がった鼓動を必死で沈める。
政略結婚で、少なくともリーリエールにはまだ兄以上の想いはない筈なのに、これからゆっくり育んで行けたらいいと思っているのに、どうしてだろう、何か恐ろしいモノに捕まってしまった気がするのは。
――これが、そんな二人の始まりの日。