新居
結局、私の呼び名はお義姉さんに落ち着いた。実際問題、私の名前『更紗』はさん付けすると発音しにくいのだ。『更紗さん、お皿の中のサラダをさらってください』なんて早口言葉にもなっちゃいそうなくらい。だからと言って義弟の立場にあたる美久さんが更紗ちゃんと呼ぶ訳にもいかず、無難なお義姉さんに戻ったというわけだ。
そうして私たちは美久さんの車に乗り込んでマイケルさんの家を目指した。
しかし、10分くらい走ったところで、
「あれ、美久くん更紗ちゃんとこからだとウチわかんない? それとも、まだどこかに寄るの? 道こっちじゃないよ」
マイケルさんがあわててそんな声を上げた。実は美久さん、かなりの方向音痴らしいのだ。だけど、そう言われても、
「いえ、こっちで良いんですよ。ちゃんとナビを見て走ってますから」
と、美久さんはどこ吹く風でどんどんと家じゃない方に車を進める。いや、私は家を全く知らないから、マイケルさんの青ざめ具合で美久さんが全然違う方向に走っているのが分かるだけだ。
やがて、美久さんの車は私の家から3駅ほどのいかにもオシャレなマンションの前で停まった。
「はい、着きましたよ」
「ここ、どこ?」
マイケルさんが半ば泣きそうになりながら辺りをキョロキョロ見回しながら言う。
「○○です」
それに対して、美久さんは事務的に地名を答える。
「そんなの分かってるよ。僕は美久くんみたいに方向音痴じゃないもん」
だから、ここのどこが自分ちなんだと怒るマイケルさんに、
「そりゃそうですよ、タケちゃんの退院に間に合うように大急ぎで用意したんですから」
と、胸を張って言う美久さん。
「用意したって、なんで?」
「いくら別棟だと言ったって、いきなり隣に会長のいる櫟原の本宅はお義姉さんにはハードでしょうし、だからと言って、仕事用のマンションに二人で住むのは手狭でしょ?
それに、お義姉さんはまだお勤めがあるでしょ。本宅だと、沿線違うじゃないですか。
『ゆくゆくは本宅に戻るとしても、今新婚の間ぐらいはここでお二人ゆっくり過ごしてください』って、社長からの伝言です」
目を丸くしているマイケルさんに、美久さんはにっこり笑ってそう答えた。
「ちゃんとお風呂を沸かしておくからって、今朝美久くんちに連れていったのはその為なの?」
「ええ。家具はこちらに合わせて揃えましたけど、私物は運び出しましたからね。いくら短時間でも、自分のものがごっそり消えていたらさすがに異変に気づくでしょ」
「それはそうだけど……」
それから案内された新居は、たった10日で用意されたとは思えないくらいすべてが完備していて、幸太郎さんの気合いの入りように改めて驚く。そう言えば、正巳の仕打ちに彼、『絶対にまとめてやる』って言ってたっけ。絶対に敵にはしたくないタイプだわ。
そして、マイケルさんは美久さんが帰ったあともそのリビングの真ん中に立ったままずっと複雑な表情をしている。
「お茶でも……煎れましょうか」
とりあえずマホガニーの猫足ダイニングの椅子に座った私は、そう言ってマイケルさんの顔をのぞき込んだ。ケトルはコンロの上に乗せてくれてあるし、お茶のセットも食器棚の見える位置にちゃんと用意してくれてある。ただ、カップとかは結局マイケルさんに運んでもらわなきゃならないけど。
「ねぇ、更紗ちゃんはこれで良いの? このインテリアすごく僕好みだけど、更紗ちゃんの趣味もあるでしょう?」
すると、マイケルさんは私の質問には答えず、そう問い返した。ああそうか、マイケルさんは幸太郎さんの気持ちはうれしいけど、私の気持ちを蔑ろにしているようであんな表情になっていたのか。
「ええ、ちょっとびっくりしてるけど、この部屋の内装私も好みです」
「ホントに? 無理してない?」
「ええ。幸太郎さんならママに私の好みも聞いてるんじゃないですか?」
と言うより、ママが率先して口を出してそうな気がする。
「ホントに、コレで良いんだよね」
「はい」
再度念押ししたマイケルさんはふっとため息をつくと、
「幸太郎くんに電話する」
と、やにわにスマホを取り出し、まだ仕事中であろう幸太郎さんを呼び出した。
「ああ、幸太郎くん? 僕。酷いよ、勝手に全部決めちゃうなんて。僕ってそんなに頼りない?」
口を尖らせてそう抗議する相手の幸太郎さんの答えは全く聞こえないけど、照れくさそうなその表情の奥にはうっすらと涙が光っている。
「じゃぁ、君の悪巧みにそのまま乗らせてもらうから。ありがとう」
マイケルさんはそう言って着信を切った。