「配達人風情が、聖女の婚約者気取りとは笑わせる」と虹の郵便局を解雇されましたが、三十年分の未配達書簡はわたくしが預かっておりますので、どうぞそのままお続けくださいませ 〜虹を渡る郵便配達人の伝承〜
「配達人風情が、聖女の婚約者気取りとは笑わせる」
王城の虹橋落成式典。集まった貴族三百余名の前で、王太子ランベルト・フォン・レギンハルト殿下は、そう仰せになりました。
わたくし――イリヤ・アルディス、十七歳。虹の郵便局第七配達人。身分はエルドラント伯爵家の庶子。制帽は相変わらず少し大きく、指先にはインクと糊の染みがこびりついております。
(あの、殿下。わたくし一度も婚約者を名乗った覚えがないのですが)
三年前、隔離区視察の帰路で殿下が気まぐれに仰った「君のような者を妃に迎える王もいるだろうな」という一言を、周囲が勝手に噂にしただけの話です。殿下はそれをご存じのはず。ご存じの上で、噂ごとわたくしを切り捨てる方が体裁がよいとご判断なさった。
実に合理的でいらっしゃいます。
「本日をもって貴様を解雇する。虹の郵便局は廃止だ」
殿下の隣で、新任聖女ミレーヌ様が小首をかしげました。栗色の巻き毛、そばかす、まだ聖衣に着られている十六歳。悪意など一片もない顔で、彼女は笑いました。
「だって、虹はわたしの祈りで架かるのだから。郵便なんて古い仕事は要らないでしょう?」
――ああ。
頭の奥で、かちり、と音がしました。
前世で三百枚の年賀状を抱えたまま、仮眠室の折りたたみ椅子で息を引き取った、あの日と同じ音です。
(いやあの、虹って祈りで架かるものじゃないんですが。気圧と水滴と、あと台帳ですけど)
わたくしは膝を折り、胸の記章に手をかけました。七色の帯に、翼のついた封筒の紋。十二の歳から五年、毎朝磨いてきた真鍮です。
留め金を外す。
かちり。
「――お受けいたします。ただ、確認させていただきたく存じます」
「なんだ」
「それは口頭でのご解雇でしょうか。書面をいただけますと、処理が早うございます」
殿下の口角だけが上がりました。目は少しも動きません。
「書面だと? 貴様、今この場で泣いて縋るならまだしも、書類の話をするのか」
「はい。虹路の維持責任は職務規程第四条により配達人に帰属いたします。引き継ぎの相手方と発効日時を明記いただきませんと、責任の所在が宙に浮きますので」
「何を訳の分からぬことを。引き継ぎ先は聖女だ。祈れば架かる。以上だ」
「承知いたしました。では記章を、こちらへ」
わたくしは記章を白手袋の上に載せて差し出しました。
その瞬間――
式典の空にかかっていた七色の橋が、ふつりと、端から解けはじめたのです。
貴族たちがざわめきました。
「……なんだ、この音は。おい、空を見ろ。虹が――虹が、端から解けているぞ!」
「あら? あら、どうして? わたし、ちゃんと祈ってるのに」
わたくしだけが、時計塔を見ておりました。
「三分四十秒。……記録いたしました」
「記録だと? 貴様、何を数えている!」
「秒数でございます。虹は、祈りで架かるものではございません。届けるべき手紙を持った者が、歩いたときにだけ架かるのです」
「でたらめを申すな!」
「でたらめかどうかは、明日の空がお答えいたします。では、失礼いたします」
「ま、待って! 虹、消えちゃう! ねえ、消えちゃうってば!」
わたくしは深く礼をして、石段に足をかけました。胸ポケットの奥で、五日前から配達できずにいた一通の遅配書簡が、ただの紙に戻る気配がしました。
「ええ。消えますとも」
背中で、誰かが「虹が、消えて……」と呟く声を聞きながら。
「――だってわたくし、もう歩きませんもの」
◇
虹の郵便局の地下三階。廃棄郵便室の鍵は、真鍮の鍵束の七本目です。
「ヨナスさん。解雇されました」
「ふむ」
鍵番のヨナス・ブレムは、六十八歳。白髪を短く刈り、左足を引きずり、片耳が聞こえません。四十年勤めて役職は一度も上がらず、名前を覚えている上役もおりません。
彼は椅子から立ち上がりもせず、ランプの油を足しました。
「鍵は」
「返せと言われておりません」
「ふむ。……捨てろとは言われとらん。捨ててよいとも言われとらん。それだけじゃ」
「はい。五年前と、同じお言葉ですね」
扉を開けると、黴と古い糊の匂いが顔にかかりました。冷えた空気が、袖口から肘まで這い上がってきます。
棚には、三百十二通の未配達書簡。
十二歳の着任日、ヨナスさんはこの山を指さして同じことを言いました。それで充分でした。
前世のわたくしは、日本の郵便局の内務係です。誤区分、宛先不明、転送期限切れ。行き場をなくした紙束をどう扱うか、それだけを十年やってきた人間です。
誰にも命じられていないのに、わたくしはこの五年、一通ずつ台帳に写し続けてきました。開封はしておりません。する必要がないのです。
〈配達記録〉。
わたくしの転生特典。戦闘力ゼロ、記憶改竄不可、自分の手で触れた書簡にのみ発動する、地味も地味なギフト。
――一度この手で受け取った書簡の、差出人・日付・宛先・配達状態を、永久に記録し閲覧できる。
封を切らずとも、指が触れれば読めます。触れなければ、何も読めません。それが限界です。わたくしはこの限界を、五年間ただの一度も例外扱いしませんでした。
台帳を開きます。押し花の菫が、はらりと膝に落ちました。
三百十二通。差出人内訳。
王家発、二百七十四通。うち百九通が、先代国王から先代配達人セラフィナ・ロウ宛。
残りは――疫病隔離区の住民から、王家への嘆願書。未開封のまま、三十年。
指先が冷たくなりました。黴の匂いが鼻の奥にたまります。
最後の一通を手に取りました。封蝋がありません。代わりに押し花の菫。
差出人欄、セラフィナ・ロウ。日付、三十年前の冬。
宛先欄――空白。
表書きにはただ一行。
『未来の配達人へ』
「……それは、わしが棚に置いた」
ヨナスさんが、低く言いました。
裏には、几帳面な右上がりの字で、配達予定日と経路がびっしりと。途中から、インクの色が赤茶けています。
「……これ、血ですね」
「……ふむ」
「インクが尽きて、指を切って日付を足したんです。幽閉された地下で、届ける当てもないのに」
わたくしは、前世の最後の光景を思い出しました。仮眠室の床に落ちた年賀状の束。誰にも届かなかった三百枚。
「……届かなかった手紙って、まだ死んでないんですよ」
声に出してしまいました。
その時、背後で床板が軋みました。地鳴りのような軋み方でした。
振り返ると、階段に七尺の巨躯が詰まっておりました。黒鉄の軍装、頭頂から後方へ二本の角。隣国レーゲンハイト竜人国特使、ガイウス・ヴェル=ドラガン閣下。戦場では「灰燼の顎」と呼ばれた方です。
「……迷った」
「四度目ですね、閣下」
「三度目だ」
「三度目は北塔の厨房でした。台帳に記録が残っております。四度目です」
「…………」
わたくしは台帳をめくり、一通を読み上げました。隔離区の嘆願書です。
「『母が息をしております。まだ間に合います』――三十年前の日付。未開封」
「………………待て」
「閣下?」
七尺の巨体の肩が、震えはじめました。閣下は慌てて軍装の袖で顔を覆いました。
(泣いてる。この方、泣いてる)
「……失礼した。埃が、目に入った」
「はい。埃でございますね。地下は埃っぽうございますので」
「……竜人国では、書簡は誓約と同義だ。文字を交わすことは、血判に等しい。未開封で三十年など、我が国では国が傾く」
「この国では、傾いておりません。それが一番の問題かと」
閣下は黙り込みました。それから、天井を震わせる声で言いました。
「……君は。君は何ができる」
わたくしは台帳を閉じ、背筋を伸ばして答えました。
「手紙を、正しい宛先に届けられます。それだけです」
長い沈黙がありました。ランプの芯が、ぱちりと鳴りました。
「…………――ならやってみろ」
それだけでした。それだけで、充分でした。
「はい。では明朝、文書院に参ります」
◇
翌朝、わたくしは王城の文書院に並びました。
手にしているのは辞表ではありません。泣き落としでも、訴状でもありません。
〈配達義務返上届〉。虹の郵便局職務規程第四条に基づく、正式な制度文書です。
受付の書記官が、三度読み返しました。そして上役を呼び、上役が青い顔で殿下を呼びました。
「……辞表ではないのか」
「辞表ですと、解雇済みの身では無効でございます。こちらは虹路維持責任の返上届。国境三箇所、隔離区一箇所、王都中央。計五本。過去十二年、わたくしが単独で負っておりました」
「虹は聖女の祈りで架かる。そんな書類に意味はない」
「でしたら何の問題もございませんね」
わたくしは微笑みました。
「返上しても虹は架かります。どうぞ受理印を」
「…………」
「規程第四条の三、返上届は提出から二十四時間以内に受理または却下を要します。却下の場合は理由書を添えていただく決まりでございます。理由に『虹が架からなくなるため』とお書きになりますと、聖女様のお立場が――」
「押せ! ……押してしまえ」
がしゃん、という音が、妙に大きく響きました。
(はい。これで手続き完了です)
わたくしは控えを受け取り、丁寧に折り畳んで胸ポケットに入れました。
「確かに。本日十七時をもって、虹路の維持責任を放棄いたします。以後、虹は王家の祈りでお架けくださいませ」
背後で、巨大な影が壁を覆っておりました。書記官が真っ青になっております。
「……見届けに来た」
「閣下。また迷われましたね」
「迷っていない。……厨房は北ではなかったのか」
「迷ってらっしゃいますね。帰り道、書いて差し上げます」
廊下を出ると、空は晴れておりました。王都中央の虹は、まだ架かっております。昨日の分の遅配書簡が、まだわたくしの鞄にありますから。
十七時。わたくしはそれを、局の返却箱に入れました。
虹は、静かに消えました。
――一日目。国境北路の虹が落ちました。
――三日目。隔離区行きの虹路が落ち、医薬品の荷車が谷の手前で立ち往生しました。
――五日目。神殿で聖女様が倒れるまで祈られたと聞きました。虹は架かりませんでした。
――七日目の朝。
王都の空から、虹が完全に消えました。
地下の廃棄郵便室で、ヨナスさんが窓のない天井を見上げ、ぽつりと言いました。
「……七日目じゃ。空に、一本もない。三十年ぶりじゃ。あの人が止まった時と、同じ空じゃ」
そして王城から、召喚状が届きました。
差出人、王太子ランベルト。宛先、イリヤ・アルディス。
わたくしは指先で触れ、〈配達記録〉に刻みました。
(受領。日付、確認いたしました)
「行くのか」
「はい。三百十二通、持ってまいりましょう」
◇
王城大広間。
「虹を返せ!」
玉座の階段の上から、ランベルト殿下が叫ばれました。上品な語尾が崩れております。声量だけが上がって、論理は上がりません。
「貴様が何かをしたのだろう! 呪いか、魔具か、盗んだのか!」
「いいえ」
わたくしは、台帳を抱えたまま一礼しました。背後の壁際には、一言も喋らない七尺の影が立っております。それだけで、殿下の声が少し細くなりました。
「わたくしは何もしておりません。何もしないことを、正式な手続きで届け出ただけでございます」
「では虹はなぜ消えた!」
「では、日付でお答えいたします」
わたくしは台帳を開きました。
「第一。虹路発生記録でございます。過去十二年、王都および国境に虹が架かった日は四千二百十九日。そのすべてが、配達人が書簡を携えて出発した日と一致しております」
「偶然だ」
「では、聖女様の祈祷日誌との一致率をご覧くださいませ。三割でございます」
広間がざわめきました。
「祈祷のない日にも虹は架かっております。――逆は、ございません」
ミレーヌ様が一歩前に出ました。
「そ、そんなの、わたしの祈りが届くのが遅れただけかも! わたしの祈りだって効いてるはず!」
「聖女位ご着任は四年前でございますね」
「……うん」
「神殿保管の虹路記録は、千年分ございます」
羊皮紙をもう一枚、卓に置きます。
「千年、虹は架かっております。ミレーヌ様のお生まれになる前も。聖女制度が創設される前も。――ご着任前の九百九十六年分の虹は、どなたの祈りでございましょう」
ミレーヌ様の唇が、動かなくなりました。
「第二」
わたくしは声を上げません。ただ、次の紙をめくります。
「解雇当日の虹についてでございます。あの日、落成式典の空に架かっていた虹は、わたくしが胸ポケットに入れていた遅配書簡一通によって架かっておりました。差出人、南街区のパン屋。宛先、国境守備隊の息子。配達遅延五日」
「……証拠は」
「ございます」
わたくしは胸に手を当てました。
「わたくしのギフトは〈配達記録〉。この手で受け取った書簡の差出人・日付・宛先・配達状態を永久に記録いたします。戦闘には使えません。他人の手紙は読めません。記憶の改竄もできません。――ただ、秒が残ります」
息を吸いました。
「殿下がわたくしの記章をお外しになったのが、午前十時三分十二秒。虹の消失完了が、十時六分五十二秒。三分四十秒でございます」
「そんな細かい話が証拠になるものか」
「式典には記録画師が三名入っておりました。画布には時計塔が写り込んでおります。どうぞ照合なさいませ」
殿下が、初めて黙りました。「証拠」という言葉に対して、生まれて初めて沈黙なさったような顔でした。
ミレーヌ様が、震える声で言いました。
「じゃ、じゃあ伝承が嘘だっていうの! 『聖女の祈りが虹を架ける』って、ずっと言い伝えられて――」
「第三」
わたくしは、三冊目を卓に置きました。
「伝承『虹渡りの歌』の原文写本でございます。左が現行版、右が神殿東倉に眠っていた三十年以上前の版」
指で、同じ行をなぞります。
「現行版――『聖女の祈りて虹は架かり』」
「旧版――『文持つ者の歩みて虹は架かり』」
広間が、水を打ったように静まりました。
「書き換えは三十年前。筆跡は王室書記局の官用体。インクの組成も当時の王室調達品と一致いたします」
「……なぜ」殿下の声が掠れました。「なぜ、そんなことを」
「それが、第三の証拠でございます」
◇
わたくしは、大広間の中央に木箱を運ばせました。三つ。ずしりと重い音がしました。
「三百十二通。虹の郵便局地下、廃棄郵便室の未配達書簡でございます」
蓋を開けます。黴と古い糊の匂いが、豪奢な広間にゆっくりと広がりました。
「……この匂いは」
「黴と、古い糊でございます。三十年分の。内訳を申し上げます。王家発、二百七十四通。うち百九通が、先代国王陛下から先代配達人セラフィナ・ロウ宛」
殿下の頬が引きつりました。
「……内容は」
「すべて同一です。『虹路の原理を口外するな』」
わたくしは一通を掲げました。封は切っておりません。切る必要がないのです。
「やめろ」
「三十年前、隔離区で疫病が発生いたしました。虹路を架ければ薬が届く。ですが虹路を架けるには、配達人が隔離区行きの書簡を持って歩かねばなりません。――つまり、虹が架かるたび、王家は『虹は祈りではない』という事実を国中に晒すことになります」
「やめろと言っている!」
「当時、王家は聖女制度の創設直後でございました。神殿の権威も、王家の正統性も、すべて『祈りで虹が架かる』という物語の上に積み上げられていた。ですから――セラフィナ様は、止められました」
わたくしは残りの書簡を掲げました。
「残り、百六十五通。すべて隔離区の住民から王家への嘆願書。未開封のまま、三十年。読み上げます」
「『母が息をしております。まだ間に合います』」
「……やめて」
「『薬を。金は払います。畑を売ります』」
「やめて、お願い」
「『息子の名はテオと申します。この子だけでも』――以上、三通。あと百六十二通ございます」
「…………もういい」
誰も、動きませんでした。
「セラフィナ様は、これらを一通ずつ台帳に写し、配達予定日と経路を裏書きなさいました。インクが尽きた後は、ご自分の指を切って、血で日付を書き足して。幽閉された地下で、三年間」
木箱の縁に指をかけ、わたくしは顔を上げました。
「――先代配達人セラフィナ・ロウ様は、虹を私物化したのではございません」
「届けようとして、止められたのです」
そのとき、広間の扉のそばで、掠れた声がしました。
「……わしは」
白髪の老人が、左足を引きずって一歩前に出ました。掌で磨り減って銀色になった真鍮の鍵束を、両手で握りしめています。
「……老人。何者だ」
「わしは、鍵を、預かっておりました。三十年、預かっておりました」
「……鍵、だと」
「あの人に水とパンを運んだのも、最後の一通を棚に置いたのも、わしです。……言えば、焼かれると思うたから、言わんかった。それだけです。それだけ、です」
誰かが、すすり泣きました。壁際の七尺の影が、軍装の袖で顔を覆っておりました。
「閣下。お袖が」
「……埃だ」
「はい。存じております」
殿下は、玉座の階段に座り込んでおられました。
「……父上は。父上は、ご存じだったのか」
「殿下の執務机の引き出しに、封蝋の割れた先代国王陛下の書簡が三通ございますね」
殿下の目が、大きく見開かれました。
「……なぜそれを」
「わたくしはそれに触れておりませんので、中身は存じません。ですが受領記録は残っております。三通とも、未開封。受領日は三年前」
「…………」
「殿下は、ご存じなかったのではございません」
わたくしは、静かに申し上げました。
「知ろうと、なさらなかったのです」
「…………兄上なら、開けていただろうな」
「存じません。わたくしは、開けなかった方の記録しか持っておりませんので」
殿下は何も仰いませんでした。ただ、兄王子の肖像がかかる壁のほうを、一度だけ見上げられました。
◇
ミレーヌ様が、床にへたり込みました。
聖衣の裾がめくれて、繕い跡のある靴下が覗いています。粉挽き小屋の娘の靴下です。
「……じゃあ。じゃあ、わたしの祈りは何だったの」
大きな榛色の瞳から、ぼろぼろと涙が落ちました。
「わたし、十二で神殿に来てから、一日も休まなかった。雨の日も。熱が出た日も。床から這い出して、朝と昼と夜、ちゃんと祈った。それが、わたしにできる唯一のことだって言われたから」
「はい」
「わたしのせいで虹が消えたんじゃなくて……わたしなんか最初から、何も、してなかったの?」
(……ああ)
わたくしは、この子を責める気になれませんでした。嘘をついたのは彼女ではありません。彼女はただ、渡された台本を必死に読み上げていただけの、十六歳の粉挽きの娘です。
わたくしは木箱に手を入れ、一通を取り出しました。粗末な紙。折り目が歪んで、封蝋もありません。震える字で、必死に大きく書かれた宛名。
触れた瞬間、〈配達記録〉が答えを返しました。
「ミレーヌ様。一通、お渡しするものがございます」
「……え」
わたくしは彼女の前に膝をつきました。
「差出人、ミレーヌ様。宛先、隔離区第三区画のヨーナ様。日付、三年前。配達状態――王室検閲により停止、地下保管」
彼女の呼吸が止まりました。
「……弟に、書いた。神殿に行く前の日に。『元気でいてね、お姉ちゃんが必ず迎えに行くから』って」
「はい」
「届いて、なかったの」
「はい。検閲で止められ、地下の棚に眠っておりました。三年、そこにございました」
涙が、紙の上にぼたぼた落ちました。
「……うそ。うそだ。わたし、毎朝、弟が元気でいますようにって祈ってたのに。手紙は、ずっと地下にあったの」
わたくしは、彼女の指に封書を握らせました。
「祈りが無駄だったとは申しません。ですが――虹は、歩けば架かります」
「…………」
「お届けにあがりましょうか。それとも、ご自分で歩かれますか」
ミレーヌ様は、しゃくりあげながら、封書を胸に抱きました。
「……歩く。わたしが、歩く」
「ではご案内いたします。まず、台帳の書き方からでございますね」
「わたし、字、汚い」
「存じております。今、読みましたので」
「……ひどい。ひどいよ、そんなの」
「配達人は、宛名が読めなければ届けられません。練習いたしましょう。毎晩でございます」
彼女は泣きながら、少しだけ笑いました。
殿下が、掠れた声で仰いました。
「……イリヤ・アルディス。私はどうなる。処刑か。それとも追放か」
「いいえ。署名をしていただきます」
「署名?」
「虹路管理権の返上文書でございます。殿下のお手で、お名前と、日付を。……情緒は、制度に変換いたします。それがわたくしの流儀でございますので」
「……それだけか」
「それだけでございます。手続きは、泣くより重うございますよ」
三日後、ミレーヌ様は聖女位を返上なさいました。
王家は虹路管理権を返上し、殿下はご自身の手で返上文書に署名なさいました。処刑も追放もございません。署名という、ただの手続きだけです。
新設された〈虹路庁〉の初代長官の辞令を、わたくしは受け取りました。
指が触れた瞬間、記録されました。
(差出人、王国。宛先、イリヤ・アルディス。――本日付、受領)
◇
三百十二通を配り歩く旅は、二か月かかりました。
受取人の三割は、もうこの世におりませんでした。そういうときは、墓石の前で声に出して読み上げます。それが内務係の作法です。配達不能でも、記録は残す。
隔離区第三区画。十歳の少年が、母親の墓の前でわたくしの持ってきた封書を受け取りました。痩せて日焼けして、前歯が一本欠けています。
「テオ様でいらっしゃいますね。お届けものがございます」
「……オレ、宛じゃないよ。それ、母ちゃんが書いたやつだろ」
「同封者としてお名前が記載されております。『息子の名はテオと申します。この子だけでも』と」
「…………」
「三十年、遅れました。申し訳ございません」
「……でも、来たじゃん」
「……はい。参りました」
少年は手紙を胸に押し当て、それから空を見上げました。
「ねえ、空。虹が出てる。今日、雨降ってないのに」
「わたくしが歩いてまいりましたので。虹とは、そういうものでございます」
◇
――最後の一通。
わたくしは、虹の郵便局の地下三階に戻りました。ヨナスさんがランプの油を足し、黙って隅に立っておられます。ガイウス閣下は階段に詰まったまま、こちらを見ておられます。今回は迷っておられません。ちゃんと来られました。六度目にして初めてです。
卓の上に、封蝋のない一通。押し花の菫。
差出人、セラフィナ・ロウ。日付、三十年前の冬。宛先欄――空白。
表書き、『未来の配達人へ』。
「ヨナスさん。最後の一通でございます。宛先欄が空白のままでは、配達できません」
「……ふむ」
「規程では、どうなっている」
閣下が低く問われました。
「宛先の補記は、受取人本人の申告によってのみ許されます。……つまり、わたくしが自分で書いてよいのです」
わたくしはペンを取りました。
「……手が震えているぞ」
「はい。前世のわたくしは、誰にも届けられなかった年賀状の束を見ながら死にましたので。……届かなかった手紙は、まだ死んでいない。そう思いたかっただけかもしれません」
でも。
三十年、この人は待っていたのです。地下の暗闇で、血で日付を書き足しながら。次の配達人が、受け取りにくるのを。
「……書け」
「はい。――『イリヤ・アルディス』」
その瞬間。
地下室の壁を、光が抜けました。石も、土も、何もかも透かして、七色が、その上にもう七色が重なって。
「……おお。おお、壁が。壁が、透けとる」
「……二重だ。七色の上に、もう七色。地平線まで届いている」
王都から地平線まで。七色ではなく、十四色の。二重の虹が架かったのです。
封書を開きました。中には、一行だけ。
「……『受け取ってくださって、ありがとう。あとはお願いします』」
「…………あの人の字じゃ」
〈配達記録〉が、静かに更新されました。
差出人、セラフィナ・ロウ。宛先、イリヤ・アルディス。配達状態――完了。
わたくしは、深く頭を下げました。
「……確かに、お受け取りいたしました」
ヨナスさんが、磨り減って銀色になった鍵束を差し出しました。
「長官さま。これを。……これで、やっと返せた」
「ヨナスさん。今、笑われましたね」
「……ふむ」
四十年勤めたこの人が、初めて笑ったのを、わたくしは見ました。
「『虹を渡る郵便配達人は死なない。次の配達人が受け取るまで、途中で待っている』。……あの童歌、比喩ではございませんでした。配達業務の、正確な記述でございます」
◇
三年後。
隔離区の外れで、旅の商人が少年に道を尋ねました。十歳から十三歳になったテオは、空を指さしました。
「おじさん、道? 虹の下まっすぐ行けば街道だよ」
「よく虹が架かるなあ、この辺」
「配達人が通るからね」
少年は胸を張りました。
「うちに手紙を届けてくれたのは、長官さまだよ。三十年遅れたけど、ちゃんと来た」
「三十年?」
「母ちゃんはもう間に合わなかったけどさ。オレは生きてる」
少年は、擦り切れた封筒を懐から出して見せました。意味は、まだよくわかっていないようでした。
「オレ、配達人になるんだ」
「どうして」
「……だって、途中で待ってる人がいるんだって。だから、行かなきゃ」
同じ朝。
王城の露台で、王太子が空を見上げておりました。王都の中央に虹が架からない朝でした。虹路庁の配達経路が、その日は東回りだったのです。
殿下は何も仰いません。ただ、見上げておられます。執務机の引き出しの三通は、今はもう開封されております。
そして、虹路庁長官室。
扉が、地鳴りのような音とともに軋みました。
「……長官」
「閣下。本日はお迷いになりませんでしたね」
「道順の手紙を、六十二通、書かせた」
「七十一通でございます。台帳に残っておりますので」
「…………これを」
ガイウス・ヴェル=ドラガン閣下は、七尺の巨躯を縮めるようにして、一通の封書を差し出しました。
「……封蝋が、潰れておりますね」
「指が、太い」
「折り目も歪んでおります。角も揃っておりません。……ですが、差出人欄と日付欄だけ、定規を当てておられますね」
「……そこは、間違えてはならん」
「はい。そこだけは、間違えてはなりません」
竜人国では、書簡は誓約と同義。文字を交わすことは、血判に等しい。
わたくしは指先で触れました。〈配達記録〉が、静かに答えます。
「差出人――ガイウス・ヴェル=ドラガン。宛先――イリヤ・アルディス。差出日――本日。配達状態――直接手交。遅延、なし」
(……ああ。これは)
(届いたんだ。ちゃんと、今日のうちに)
前世で三百枚の年賀状を抱えたまま死んだわたくしが、今日、一通を遅れずに受け取っている。
窓の外に、虹が架かりはじめました。誰かが、手紙を持って歩き出したのです。
「…………返事は」
「閣下。耳の先が、赤うございます。角まで」
「……暖炉が近い」
「暖炉は、消えております」
「…………返事は」
「まさか。目の前にいらっしゃるのに、手紙でお返しするほど無粋ではございません」
わたくしは封書を胸に当て、深く、丁寧に頭を下げました。
配達人が、受取人にそうするように。
「――では、確かにお受け取りいたしました」




