第十二話 残響
サツキの部屋には、まだ彼女の匂いが残っていた。
机の上には、壊れたままのフィルムカメラと、フィルムの箱が置かれている。
母はそっとその箱に触れた。軽い。中身は空っぽだった。ふと、机の引き出しの奥に、一枚の写真が挟まっているのに気づいた。取り出してみると、それは理が撮ったサツキの写真だった。サツキだけが、驚くほど鮮明に写っている。背景は淡く滲んでいるのに、彼女の輪郭だけが、まるで光を宿したようにくっきりと浮かび上がっていた。
母は写真を胸に抱いた。
涙は出なかった。ただ、胸の奥が静かに痛んだ。
「どうして、こんなに・・・」
言葉は最後まで続かなかった。
放課後の写真部の部室。
東雲先生は、誰もいない暗室の前に立っていた。
扉を開けると、かすかに薬品の匂いが残っている。
赤いランプの下、二人が使っていた現像器具がそのまま置かれていた。
机の上には、理が最後に現像したと思われる数枚の写真が並んでいた。
風景、校舎、廊下、空。
どれも以前より少しだけ鮮明で、少しだけ優しい。
その中に、一枚だけサツキの写真があった。
やはり彼女だけが鮮明だった。
東雲先生は写真を手に取り、静かに目を閉じた。
『この子たちは、世界をどう見ていたのだろう』
答えはどこにもない。
ただ、写真だけが真実を知っているように思えた。
理の家の暗室。
父は、息子が大切にしていたライカをそっと手に取った。
重さは変わらないのに、どこか別のものになってしまったように感じた。
机の上には、理のノートが開かれたままになっていた。
そこには、震える字でこう書かれていた。
・・・世界は、思っていたよりも鮮明だ。
・・・サツキといると、霞が晴れる。
・・・写真は嘘をつかない。僕だけが、見えていなかった。
父はゆっくりとノートを閉じた。
ページの間に、一枚の写真が挟まっていた。
サツキが笑っている写真だった。
その笑顔は、どこまでも静かで、どこまでも遠かった。
季節は、何事もなかったかのように巡っていく。
校庭の桜は、今年も変わらず咲いた。
新しい一年生が、写真部の前を通り過ぎていく。
誰も知らない。
この部室で、二人の時間が確かに存在したことを。
世界のどこかに、短い永遠が確かにあったことを。
写真だけが、その証を静かに抱えている。
そして、誰も触れないまま、
暗室の赤いランプは今日もそっと灯り続けていた。




