第1話:退職願とラストリゾート
【主要人物紹介】
• 相馬 耕平
元ブラック企業勤務のシステムエンジニア。過労で倒れた際に「植物を育てたい」という強烈な本能に目覚め、退職。
土地代がタダという理由で、人類未踏の「ダンジョン深層」を勝手に耕し始めたクレイジーな一般人。
S級モンスターを「畑を荒らす害獣」と認識し、農業用スコップ(聖剣級)で駆除する。
• エレナ
ダンジョン深層に封印されていた古代エルフの姫。
耕平の作った「魔力野菜」のあまりの美味しさに陥落し、最初の視聴者兼カメラマンとなる。
耕平の常識外れな行動にツッコミを入れつつ、彼を崇拝・溺愛している。
• ポチ(フェンリル)
本来なら国を滅ぼす災厄級の魔獣「フェンリル」。
畑を荒らして耕平にスコップで叩きのめされ、美味しい野菜クズをもらうために番犬となった。
視聴者からは「CG」「着ぐるみ」だと思われている。
• 神宮寺
政府のダンジョン対策課長。
配信を見て胃を痛めている常識人。「税金を払ってください!」と耕平を追うが、彼の野菜が国益すぎるため逮捕できない苦労人。
午前三時、東京、港区。
無機質なオフィスビルの二十四階で、俺、相馬耕平は死にかけていた。
比喩ではない。物理的な意味で、生命活動の限界を迎えていた。
「……エラーログ、確認完了。デバッグ、終了。納品ファイル、圧縮……」
乾いた唇から漏れる声は、既に人間のそれではない。
視界の端がチカチカと点滅している。三日前から家に帰っていない。最後に食べたものがウィダー的なゼリーだったか、栄養ドリンクだったかすら思い出せない。
俺はシステムエンジニアだ。いや、正確には「デスマーチ専門の火消し屋」として、このブラック企業に使い潰されている社畜である。
エンターキーを叩く指が震える。
画面に『BUILD SUCCESS』の文字が表示された瞬間、張り詰めていた糸がプツンと切れた。
ガクン、と視界が傾く。
床のカーペットに頬が触れる感触。遠くで「おい相馬! まだ次の案件が残ってるぞ!」という上司の怒鳴り声が聞こえた気がしたが、それは泡のように消えた。
薄れゆく意識の中で、走馬灯のように脳裏をよぎったのは、家族の顔でも、恋人の笑顔でもなかった。
――土だ。
黒くて、ふかふかで、湿った土の匂い。
アスファルトとコンクリートとサーバー排熱に囲まれたこの世界には存在しない、生命の源。
(あぁ……大根、植えたいなぁ……)
なぜ大根なのかは自分でも分からない。
ただ無性に、土を耕し、種を撒き、水を与え、緑色の芽が出る瞬間が見たかった。エラーもバグも炎上もない、ただ手をかけた分だけ素直に育ってくれる命に触れたかった。
俺の意識はそこで一度、闇に落ちた。
◇
次に目を覚ました時、俺は病院のベッドの上にいた。
過労による自律神経失調症と、栄養失調。医者には「あと数時間遅れていたら過労死ラインを超えていた」と真顔で説教された。
点滴の滴る音を聞きながら、俺はスマートフォンを取り出し、辞表フォーマットをダウンロードした。
迷いはなかった。
死ぬ前にやりたいことリストの最上位が「野菜作り」だと判明してしまった以上、もうシステムエンジニアとして生きる意味はない。
だが、ここで現実的な問題に直面する。
「……土地が、高い」
退職金と貯金を合わせても、都内で畑付きの物件など夢のまた夢だ。地方に移住する手もあるが、今の俺は人間関係というものに絶望的に疲弊している。
田舎特有の濃密な近所付き合いや、消防団への強制加入、そういった「しがらみ」を想像するだけで胃に穴が開きそうだった。
誰もいない場所で、誰にも邪魔されず、ただひたすらに土と向き合いたい。
そんな都合の良い場所が、この日本にあるだろうか。
検索画面をスクロールしていた俺の指が、あるニュース記事で止まった。
『新宿ダンジョン、未踏の深層エリア拡大。政府、探索者を募集中』
ダンジョン。
十年前、世界各地に突如出現した亜空間。内部は魔物が跋扈する危険地帯だが、同時に未知の資源が眠る宝庫でもある。
俺の目が釘付けになったのは、資源のことではない。記事の隅に書かれた、補足事項の方だ。
『※ダンジョン法に基づき、ダンジョン内部の土地所有権は発生せず、固定資産税の対象外となります』
電流が走った。
――ここだ。
固定資産税ゼロ。土地代ゼロ。
そして何より、人間がいない。
特に「深層」と呼ばれる未踏破エリアなら、煩わしい人間関係など皆無だろう。モンスター? そんなものは、納期とクレーマーに比べれば可愛いものだ。
「決まりだ」
俺は点滴を引き抜き(真似をしてはいけない)、その足でアウトドアショップと種苗店をハシゴした。
買うのは武器ではない。
最高級の鍬、シャベル、そして大量の野菜の種。
俺の第二の人生は、地下深くの暗闇から始まるのだ。
◇
新宿ダンジョン、地下一階。
ここは観光客や初心者向けの「浅層」だが、俺は迷わず立入禁止区域のロープをくぐった。
目指すは正規ルートではない。
目の前にあるのは、禍々しい紫色の渦を巻く「転移トラップ」。
通常なら、踏み込めばどこに飛ばされるか分からない致死性の罠だ。多くの探索者がこれで命を落とし、あるいは二度と戻れない深淵へと消えていった。
「頼むぞ、一番深いところへ連れて行ってくれ」
俺は祈るように呟き、重たいリュック(肥料入り)を抱えてトラップへ飛び込んだ。
視界が反転し、強烈な浮遊感が内臓を揺さぶる。
数秒後。
ドサッ、という音と共に、俺は固い地面に投げ出された。
「……っ、つぅ」
身体を起こし、周囲を見渡す。
そこは、地獄だった。
空(天井)には分厚い暗雲が垂れ込め、光源はないのに薄気味悪い赤色が漂っている。
地面は腐った肉のような色をした沼地で、鼻を突くのは硫黄と腐敗臭が混ざったような強烈な瘴気。
遠くからは、地響きのような唸り声が聞こえる。生物としての本能が「ここは人間が住める場所ではない」と警鐘を鳴らしていた。
間違いなく、最深部。
人類未踏の、死の世界。
だが、俺は震える手で地面の泥を掬い上げ、満面の笑みを浮かべた。
「広い……!」
見渡す限りの荒野。地平線の彼方まで、誰の所有物でもない土地が広がっている。
上司もいない。満員電車もない。家賃の請求書も届かない。
あるのは、手付かずの自然(魔境)だけ。
「最高だ」
俺はリュックから愛用のスコップを取り出した。
ホームセンターで3980円で買った、ステンレス製の園芸用スコップだ。
さあ、まずは土壌改良からだ。この毒沼のままでは、大根が根腐れしてしまう。
俺は目の前に半透明のウィンドウを呼び出した。
転生特典だか何だか知らないが、ダンジョンに入った瞬間に覚醒したユニークスキル。
【領域改変】
本来なら、ダンジョンの構造そのものを書き換えて有利な地形を作るための戦闘用スキルらしい。
だが、俺に言わせれば使い方は一つしかない。
「――耕す」
俺はスコップを毒沼に突き立てた。
同時に、体内の魔力を根こそぎ注ぎ込むイメージを持つ。
ズゥゥゥゥゥゥン……!!
大地が震えた。
スコップを中心として、波紋のように光が広がっていく。
ドロドロに溶けていた紫色の沼が乾燥し、浄化され、粒子が細かくなり、空気を含んでいく。
瘴気は分解されて窒素やリン酸へ変わり、死の大地が、見る見るうちに「黒く輝く肥沃な土」へと置換されていった。
半径約五十メートル。
テニスコート二面分ほどの空間が、一瞬にして極上の農地へと変わったのだ。
「はは……すごい。関東ローム層よりいい土だ」
俺は思わずその場に膝をつき、土の感触を確かめた。温かい。これなら、どんな野菜も元気に育つだろう。
疲労感はあるが、会社にいた時のそれとは違う。心地よい達成感だ。
俺は震える手で、ポケットから「大根の種」のパッケージを取り出した。
指先で土に小さな穴を開け、種を一粒、丁寧に落とす。
「大きくなれよ」
優しく土を被せる。
その瞬間、俺の中で何かが満たされた。
ここが俺の城だ。俺の畑だ。
これからここで、誰にも邪魔されず、静かなスローライフを送るのだ。
安堵のため息をつき、俺はリュックのサイドポケットに入れていた小型ドローンを取り出した。
これは以前、趣味で買ったものの忙しくて一度も使っていなかった空撮用ドローンだ。
野菜の成長記録を撮るために持ってきた。
「えっと、スイッチはこれか」
説明書も読まずに適当にボタンを押す。
プロペラが静かに回転し、ドローンがふわりと浮き上がった。
赤いランプが点滅している。
「よし、録画開始だな」
俺は満足して、次の畝を作る作業に取り掛かった。
鼻歌交じりにクワを振るう俺の背後で、ドローンが俺の姿を捉え続ける。
――俺は気づいていなかった。
そのドローンの設定が『ローカル録画モード』ではなく、『全世界配信モード(オープンチャンネル接続)』になっていたことに。
そして、ダンジョン深層の電波遮断領域をも貫通する俺の異常な魔力が、その映像を遅延ゼロで地上へ届けてしまっていることに。
画面の向こう、ネットの海では、既に最初の視聴者がざわつき始めていた。
『……ん? 何だこの配信』
『タイトル【初心者】大根を植えます……?』
『背景、これ合成か? CGにしてはリアルすぎるんだが』
『ちょ、待て。あの後ろ飛んでる虫、即死毒のキラービーじゃね?』
世界最強の農家による、無自覚な飯テロ&無双配信伝説。
その幕は、本人が大根の種を撫でている間に、静かに、そして盛大に切って落とされたのである。
(第1話 完)




