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99.君は一人じゃない。


 それは、静かな朝だった。




「ああ…………」


 血が滴り落ちていく。赤く熱く、面白いほどに血が、流れ落ちていく。


 マーキュリーは、もうその場にいなかった。

 過ぎ去ってゆく彼女の後姿を見て、フランクウッドは再度思った。


 ――君は一人じゃない。


 ぽっかりと穴が開いた胴体。魔術を刻むこともなかった肉体。


「…………」


 自身の怠慢が招いた結果だと、フランクウッドは自身に言い聞かし、それを認めた。

 ヒュースへの、アンリーへの、シェリーへの、シュバリエへの、そして自身に関わってくれた様々な人への罪悪感だけが、薄れゆく意識を繋ぎ止める最後の原動力だった。


 彼はやり遂げられなかった。


 だが、だからと言って、何も残さず消えゆくのは違う。


 存外、動こうとすれば痛いらしい。

 意識が薄れようと、頭が興奮しようと、フランクウッドは体を突き動かした。


 手で机を抑え込み、それを支えに、椅子を回して元の位置へと戻る。


 息は既に荒かった。


 もう時間がない。


 だが、ちょうどよかった。手が血で濡れている。

 まるでペンキを机に塗るかの様に、引き出しに向けて手を滑らせていく。


「ヒュース…………すまない…………すま、ない…………私は、君を…………」


 指が……。

 指が…………力なく、落ちていく。

 机の上から落ちていく。


 それと共に、フランクウッドの体も、机へと叩きつけられた。


 それはまるで、寝不足の体がついに限界を迎えたかのように机の上へと横たわったのだ。


 フランクウッド。彼が最後に見たのは、妻の横顔ではなかった。

 自身の涙でぐちゃぐちゃに濡れた、教え子たちとマーキュリーの三人が、楽しそうに話している姿だった。


「フランクウッド様、先ほどの大きな音がしていましたが、どうかされましたか?」


 フランクウッドが力尽きた後に、シュバリエがやって来た。

 しかし彼は――


「……フランクウッド様?」


 彼は――


「…………おや、どうやら眠ってしまわれたのですね」


 シュバリエが、手に持っていたのは、コーヒーが乗ったお盆だった。

 彼はそれをキッチンへと片づけ、毛布を用意し始めたのだ。


 そう、彼は――目が見えないでいた。


「……たまには、こういった日があってもいいのではないでしょうか? ゆっくりお休みください。フランクウッド様」


 シュバリエは、フランクウッドへと毛布を優しくかけたのだ。

 風邪をひかないように……彼は――死体に毛布をかけた。



 ◇



 王城の廊下を歩くヘケロンは感じ取る。

 フランクウッドが死んだ。


「…………逝ったのだな……存外、君のことは気に入っていたのだがな」


 ヘケロンは手を握りしめ、それを振りほどくとまた、廊下の先へとこの国の王、カレディアの元へと歩いていくのであった。


 そして、また別の場所では、ドルクが新聞を片手に、紅茶と自身が焼き上げたパンを食べながら客が来るのを待っていた。


「…………なんだぁ? 今の気色の悪い感覚は?」


 ドルクは紅茶を口に含んだ時に感じた、渋く震えるような感覚を受けて悪態をついた。


「チッ……保管が甘かったか?」


 立ち込める湯気を見て、ドルクの中でこの悪寒の正体を探ろうとする。

 それがだんだんと嫌なものへと変わっていく。


「……チッ……まさかな…………」


 部下が大勢亡くなった日も、似たような悪寒を感じたことがあった。


「チッ……」


 ドルクは再び舌打ちをした後、手に持った紅茶をカウンターの端へと押しやり、乱雑に新聞へと視線を戻すのであった。


 下水道から抜け出し、無事合流したガラックとメリーも何か嫌なものを感じとる。


 アズレアが、荒み切った表情でただ無気力に、オディステラのいなくなった協会内の廊下を歩く。


 空を雲が駆けていく。

 まだ空は、晴れることを知らない。


 曇天が、明るかった日常を過去のものへと変えていく。

 皆の心が荒んでゆく。


 マーキュリーは、失意に呑まれながら、歩く。自身がフランクウッドを殺めたのだ。

 それなのに、どうしてこんなにも心が錆びついたように感じるのだろうか。


 自分の存在が嫌になる。

 自分が選んだ道だ。

 自分が選んだ選択だ。

 自分が負けたせいで、選ばざるを得なくなった結末だ。


 自分には苦しむ資格も、悲しむ資格もない。そんなことは分かっていた。

 だというのに、自分が手放してしまった物を温もりを……終わりの見えない選択の途中で出会った、あの宝物をこの心が求めてしまって仕方なかったのだ。


「なんで……なんでよ……私は貴方たちの味方じゃないの!! いつでも裏切る……ってそう言ったのに……そう、そうよ……そう言ってたじゃない……」


 それは、自身に対してとも、フランクウッドに対してとも聞こえるような叫びだった。


 彼女の中で、一つの言葉が重たくのしかかる。


 ――君は一人じゃない。




 ――次章:モース硬度の行く末に――

偶然ではありますが、フランクウッドは100話目という大台に乗ることが出来ず、今日はひな祭りだったのですね。

残念です。

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