僕と彼女と眼鏡拭きⅠ
「…ふう。実際の音声を流せているか確認できないのが痛いところですが、何も仮想空間からのコンタクトがない以上仕方ないですね」
久坂は文字で打ち込んだ文章が仮想空間へ流れるように操作し実施した後、一息ついた。なかなか目が覚める気配が無いのはさすがに不安視する必要も出てきた。
仮想空間で流した電流を流すというのは脅し、ではない。微弱な電流を流すことで神経の変化など数値で確認できるものもあるため、細かな資料とするために今後のデータ取りは必要なのだ。
壁際に積まれたモニターと熱く稼働しているパソコンのせいで室内がだいぶ暑くなってきている。冬場には暖房が控えめで助かるが、夏場では快適に過ごせるように冷房が強めに設定されている。この部屋だけではないが、一括で操作する操作盤が部屋の入り口に集まっている。カチリと空調を調整しながら室内を見回すと、ある額縁が気になった。気のせいかと左右に頭を振ると、改めて希世や東島、隆大に視線を向ける。
「中の様子が少しでもわかる物があればバックアップできるんですが…数値を見る限りでは今のところ不思議なくらいに心拍も落ち着いているんですよね」
ヘルメット型の装置は各臨床試験者に合わせた氏名や生年月日などのデータを当てはめているため、誰がどの反応をしたのか分かるようになっている。繋がれたコードの先にはモニターがデータを映し出せるようになっていて、反対側にはまとめて切り替えできるようにキーボードとメモリ付きの調整器具が付いている。
「んー、そういえば室長、顔見せるって言った割になかなか来ないですね」
「悪かった、他の研究室の教授に話を聞かれていたんだ」
いつの間にか研究室の部屋が開いていて、十四郎が厚いファイルを片手に抱えながら入ってきた。
「げ!…失礼しました。まさかこんなタイミング、いや近くにいらっしゃってたとは、はは」
「正直すぎる貴様の軽口も少し可愛げがあればいいんだがな」
「軽口だなんてそんな滅相も、」
「冗談だ、それで進捗は?」
全く笑っていないのに言葉だけで冗談を言う十四郎に対して慣れている久坂は、切り替えて報告モードに入った。しっかり仕事をやる上で冗談に聞こえなくても切り返しくらい出来なければしんどい思いをするのは自分だ。その辺に抜かりはない。謎にテンションの高い皆口葉介と友人をやれるほどのスルースキルを年中持ち合わせているためだ。
「こほん、全く異変がなく順調、と言いたいところですが仮想空間からのコンタクトが取れないので幾分か焦っています。文章を代読するソフトを組み込んで直接こちらの要望を簡易的に伝え、反応を見たんですがまだリアクションや変わったデータは取れていません」
「精神状態や脳には影響がないんだろうな?直接潜り込むにはそれ相応のリスクは付き物だが今回は以前に行なったものを再検証するだけのものになるはずだが、やはり上手くはいかないものだな」
講義で疲れたのか普段より疲弊している十四郎を少し気にかけながら、久坂は引き続きモニターの電子音とヘルメットから送られてくる脳波の変化を見ながら手元の資料とデータを照らし合わせていく。
今までに行った臨床試験では得られなかったデータが今蓄積されようとしているのに、どこか不安は拭えない。何か気になる点があるような気もするのだが…と、先ほど気になった壁に飾られている絵の額縁に再び目が行った。
「室長…あの絵っていつから飾られていたかご存じですか?」
「ん?あれは…確か希世が美術館巡りをしていた時に気に入ったと買ってきたやつだな」
「ここ最近のものでしょうか」
「一年は経っていないはずだ。研究室に閉じこもり作業をするから少し私物を置いていいか聞かれたのが…確か梅雨に入る前の時期だった」
大きすぎないサイズの絵で、水彩のような薄い絵の具で描かれたそれは山から陽が射してくる朝焼けの風景だった。
そこでふと思い出した久坂は自身のポッケに入っていたスマホでどこかへ連絡を取った。
「もしもし葉介、少し聞きたいことがある」
思いついたような顔で友人に連絡を取る久坂に少し驚きながら十四郎は自身の席に腰を下ろした。