僕と彼女と面影Ⅱ
しばらく光の向こうへ意識を向けると、話しかける声がどこかから聞こえた。
『ね、こっちに来てくれないかな』
先ほどよりもハンモックに揺られているようなゆったりとした柔らかさで、その声は奥の方へと導く。
希世の母から聞いたことを元に”片割れ”(ぼく)に伝えよう。上手く言葉にできるかは分からないけれど、やってみるしかないのだと、東島は頭を左右に振り、少し長めに息を吐きながら一度頷いた。
「今行くね。こっちで合ってる、かな」
誰も見えない中で会話できるか不安で口にしてみたものの、声は果たして届くのだろうか。
「やっぱりテレパシー?みたいなもの使えないと」
まるで耳に水が入ってしまった時のように、辺りの音が遮断される。
しかし変わらず辺りにはラジオで電波を調節するような、ジジ…とノイズが一瞬響いた。
『そこの突き当り。腕輪を翳してみて』
監視カメラでも辺りにあるのだろうかと思うほど、的確なタイミングでまた声がした。言われるままに腕輪を突き当りに翳してみると、ゆわんとタッチパネルが現れる。突き当りに触れてみると入ってきたときのような鏡にも似た扉が水面に広がる輪のように現れた。ひやりとした扉に指先を触れると扉が勝手にギギ…と開き始めた。
「し、失礼します…」
大学入試の面接を思い出す。こんなにドコドコと心臓が拍を打つのはその時以来かもしれない。東島は再び息をゆっくり吸うと、それ以上にゆっくりと長く吐いた。
『来てくれてありがとう。それで、僕を外に連れていく気になった?』
昔未確認生物特集をテレビでやっていた時に、この世界には自分と似た人物が最低3人は存在しているというドッペルゲンガーについて妙に興味を惹かれ、釘付けになったことがあった。目の前のそれが、まさに自身と向かい合って鏡を見ているかのような感覚で不思議だ。
「僕の中に戻れるの?」
『今のところはイエスと言いたいんだけど、その前に…ここに初めてやってきたときに希世のお母さんからの答えを教えてもらいたくてさ』
「答え?」
『どうしたら”ここ”の世界の人を救い出せるかだよ』
ぞくりとした。
どうしてだろうか。仮想空間はあくまで希世とその研究室の人たちが作り上げた世界だ。救い出すというには救い出すべき人の姿かたちが見当たらないのだ。
「…そうか、囚われていたのは僕だったのか」
―――三年前、東島は自然災害で母を亡くした。幼稚園の先生をしていた東島の母は、当時勤めていた幼稚園の園児たちを全員外へ逃がした後、避難所から何故か自身が運転していた車へと戻り、大雨で地盤が緩んだ所で崖崩れに遭ってしまった。園庭から離れた所で停めていた車ごと土砂で流され、三日後に発見された。
当時中学生だった東島は別の避難所で母の連絡を待っていた。父親が地区の消防団に所属していて避難所運営をしていたのを手伝いながら、持ち始めたばかりのガラケーに連絡が来るのをひたすらに待った。落ち込んだ顔で父から母が発見されたと知らされた時には、どうしようもなく目の前が真っ暗になった。頭で考えても暗くなるばかりで現実を受け入れられずに東島はとにかく体を動かそうと、躍起になっていた。病院で怪我をした人たちや配布される物資を運ぶボランティアに参加して、その病院で会ったのが藍澤の弟・優太だった。
「おにいちゃん、だれ、まっているの」
ボランティアの合間、配布された水のペットボトルを片手に避難所で解放された病院近くの体育館から少し出たコンクリートの階段に座っていた。一人だと気持ち的に暗くなってしまうが、その時は一人になりたかった。
「誰も待っていないよ。君はどうしたの?」
「ぼく、おにいちゃんときたんだけどね、いないの」
幼稚園くらいの小さい男の子が階段の前を通りかかった。東島は持っていたペットボトルを脇に置くと、その男の子の元へしゃがんで声を掛けた。
避難してきた人と、その身内の人で避難所は常にごった返している。プライベートなんて存在しない。お互いに気遣い合い、協力して過ごしている。そんな時どうしたらいいか分からないのは小さい子どもたちだ。東島はその子を避難所の迷子預かり所へ連れて行こうとした。
「お兄ちゃん、どこかへ行っちゃったの?」
「ううん、のみものをね、とりにいったの」
飲み物を取りに行っている間に弟が居なくなっていたりしたら気が気じゃないだろう。早くこの子を兄の元へ連れて行かなければ、と東島は階段に置きっぱなしだった水を手に取ると、優太へ手渡した。
「喉が渇いているとお兄ちゃん心配するだろうから、飲んでいいよ」
「えーそうしたらおにいちゃんのぶんは?」
「君のお兄ちゃんが持ってきたのはそのお兄ちゃんが飲めばいいよ、階段上がって入る所でお兄ちゃんを待ってようか」
正直母を亡くしてからふとしたフラッシュバックで飲み物すら飲み込めない時がある。ふらついていても、動いてさえいれば、どうにか誤魔化せていた。気持ちが紛れるならこの子とその兄を待っていようと階段を上りかけた時、遠くから声が聞こえた。
「そういえば、名前、教えてくれる?」
「ゆうた、あいざわゆうた!」
「優太!!」
真っ赤な髪をかき上げた青年が必死の形相でこちらへ向かって駆けてきた。
「おにいちゃん!!」
「おっまえどこに行ったかと思ったぞォ!心配かけんなってあれほど…!」
駆けてきた速さそのままに真っ赤な髪の青年は優太に抱き着いた。抱き着かれた勢いで後ろへ倒れそうになるのを東島は瞬時に支える。何とか転ばずに済み、無邪気に振り返りながら優太は答えた。
「へへ、このおにいちゃんとおはなししてたの」
「お前その水は?どうしたんだ」
「このおにいちゃんがくれた!!」
「まじか!ちょ、お前…悪いな弟が迷惑かけてねえか?」
駆けてきた速さに驚きながら、東島は兄弟を見比べてここまで雰囲気の異なる兄弟がいるのかと失礼ながらに思ってしまって反省していた。
隆大からの問いかけに一瞬出遅れながら東島は首を横に振りながら答えた。
「水はあげたんですが、不安でしたら捨ててもらっても構いませんので、…お兄ちゃんと会えてよかったね」
「うんありがとう、おにいちゃん!」
「配布された水だろ?お前の貰っちまってよかったのか?」
見た目に反して案外優しい人なのかもとまた失礼なことを思いながら東島は再び首を横に振った。
「平気です、じゃあまた」
「ま、待てよ!優太は持病があって水分がねえとすぐ脱水症になっちまうんだ、本当に助かった…!!さっき俺が貰いに行ったスポドリだ。受け取ってくれ!」
まくしたてるように感謝の意を早口で示すと、隆大は優太を抱き上げて身体を押さえながら背中のポシェットに入っていた飲み物を渡した。これがのちの藍澤兄弟との出会いだった。