氷室沙耶は、誰にも合わせない
放課後の教室は、ざわめきが残る音とともに、だんだんと静けさへ向かっていた。
荷物をまとめて立ち上がろうとしたとき、俺の右袖を、誰かが軽く引いた。
振り返らなくても、誰かはわかっていた。
「碧斗。ちょっとだけ、いい?」
氷室沙耶。
完璧な優等生にして、俺の幼馴染。
小さい頃から何でもできて、今じゃ“高嶺の花”扱い。
でも今、その沙耶が、まるで隠す気もなく俺に触れている。
俺は頷くしかなかった。
教室を出て、人気のない廊下の端へ。
誰もいない、でもまだ放課後の光が少しだけ残る場所。
沙耶は俺を見つめた。まっすぐに。
「碧斗、私が誰を好きでも……他人がどう思うかなんて、ほんとはどうでもいいの」
その言葉に、一瞬だけ息を飲む。
「でも、やっぱり……碧斗が、気にしちゃうなら、それは、嫌」
彼女の目には、怒りでも悲しみでもない、ただの“本気”が映っていた。
「さっき、神崎くんとか他の子が言ってたの、聞こえたよ。
“どうして氷室さんがあいつなんか”って。……別に初めてじゃないし、慣れてるけど」
言いながらも、沙耶の口元が、かすかに震える。
「でもね、私にとって“ふさわしい”って言葉は、ただの他人の価値観なの。
私が、私の気持ちで選んだ人に対して、それを否定されるのが――悔しいんだよ」
俺は、返す言葉を探して、探して、見つけられなかった。
そんな俺を見て、沙耶はふっと笑う。
「……ごめんね。ちょっとだけ、言いたくなっちゃった」
沙耶の笑顔は、相変わらず綺麗で、優しくて、でもどこか危うくて。
そんな彼女に、俺は思わず訊いた。
「……怖くないの?みんなに何か言われるの、嫌じゃないのか?」
「怖くないよ」
即答だった。
「碧斗が好きって気持ちの方が、ずっと強いから」
こんな言葉を、さらりと真顔で言える彼女は、やっぱりすごいと思う。
でも、きっとそれだけじゃない。
彼女は――戦ってる。
自分の“好き”を守るために。
「帰ろ?」
沙耶が差し出した手を、俺は少し迷ってから、取った。
自然に指が絡まって、それだけで、少し心が温かくなる。
帰り道、駅までのルートから外れた川沿いの道に入る。
「……あのさ」
ぽつりと、沙耶が言った。
「もし、碧斗が……私のこと、“ふさわしくない”って思う時がきたら。
そのときは、ちゃんと嫌いになってね」
その言葉には、さっきまでの強さがなかった。
強くて、美しくて、自分を持ってる女の子が、
少しだけ怯えるように、でも覚悟を決めた目で言うから――
俺はまた、言葉を返せなかった。
沈黙の中、沙耶の手だけが、俺の手を少しだけ強く握る。
風が吹いて、桜の花びらが一枚、彼女の髪に舞い落ちた。
その瞬間、俺はまた思った。
こんなにも、綺麗な人が――
どうして俺なんかを、こんなに真っ直ぐ見てくれるんだろう。
でもたぶん、そんなふうに思ってる限り、
俺はまだ、彼女の“隣”に立ててないんだ。
──きっと、怖いのは“周り”じゃない。
俺が、自分自身を信じられてないだけなんだ。




