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イカロスの翼

作者: キラ子

ぐにゃり、と世界が歪んで、俺は コンクリートに伏していた。


高速の脈を刻み続ける心臓。熱を発散する肉体が、1月2日の風と、道の両脇を陣取る熱心な歓声や心配する声を、まるで画面越しのような解像度で受け止めていた。

救護班が慣れた手つきで俺の左足首に氷嚢を宛て、素早く固定用のテーピングを施した。

待て、待ってくれ、

「これじゃ走れない!」

「大丈夫ですよ」「大丈夫ですよ」「大丈夫ですよ」

四人がかりで俺は仰向きで担架に乗せられ、その後はずっと車の天井を見ていた。ベージュの天井だった。


ぐにゃり、としたのは、世界ではなく、俺の足首だったと気づいた。

俺は、もう、駆けることはできない。

駅伝は終わった。


こうして俺は、「人」になった。


*********


「どうか。どうか、俺と付き合ってくれませんか。」

「はい…喜んで!」


翔人さんは私の憧れだった。

ランナーとしても、……男性としても。

彼の全てが、私には鮮烈だった。

まるでお姫様にでもなったみたいな、さりげないエスコート。上半身が隠れちゃうほど大きな、誕生日の真っ赤な薔薇の花束。何より彼のはにかむような恥じらうような、そういう笑顔が、八重歯の輝きが、私には鮮烈に残っていた。


「キース!キース!」と囃し立てる 部員たち の間を縫って、翔人さんはいたずらみたいに私の手を取って走った。ドラマみたいだった。名前もわからない、薄桃色の大きな花が咲き乱れる大木の前で、彼は一言だけ「いい?」と聞いた。私は胸がいっぱいで、近づいてくる彼の唇に応えた。生まれて初めてのキスだった。


「君との子供が欲しい。君と、生活がしたい。だから、君を守れる俺になりたい。」


翔人さんは間もなく、有数の商社に内定を決め、私の卒業と同時に結婚式をした。

私の両親は今まで見たことないような嬉しそうな顔をしていた。

私の、私だけの、最愛の人。


「ただいまー!」

「パパァ、おかえり〜!」

「ダァーー!」


次男の駆がつまずきながらパパの元へ行くのを、私と、翔人さん、長女の翼が見守るのが、いつもの流れだ。


激務をどう終わらせているのか、夫は必ず7時には帰宅する。

「俺の帰ってくる音で、駆の目が覚めたら困っちゃうでしょ?」


きっと、翔人さんの精一杯の愛情 なのだろう。

彼のコートを受け取り、コート掛けに掛けてあげる。


「ふふ、もう、翔人さんがそんなんじゃ 職場の人だって気を使っちゃうでしょ?」

「そんなことは君が考えるようなことじゃないよ。」


彼は困ったように、私のおでこにキスをした。

私はきっとこの世で最上の人と出会い、結婚したのだ。


「はい、これ」

「ん、なに?翔人さん」


彼は行儀よく向きの揃った栄一 を何人か私に差し出した。


「明日、誕生日だろ?

こんな時ばっかでごめんけど、羽伸ばしてきなよ。美容院でも、ショッピングでもさ。

駆と翼の面倒は1日俺が見とくから。で、帰ってきたら俺のお祝いにも付き合ってよ!」


なんだかもう、その気持ちだけで胸がいっぱいだった。多分彼が求めてる3倍ぐらいのキスをして、私は布団に入った。


******


独身時代 一番気に入っていたワンピースと、翔人さんが褒めてくれた上品な革のローヒールで、私は一人で街を歩いた。こんな小さいバッグで出かけるのも、いつぶりだろう。

現役の頃より遥かに柔らかくなった身体にフェミニンな装いが馴染んで、むしろ独身の頃より似合っているかもしれない。

本当に久しぶりの都心は目新しくて目まぐるしくて、花も風も木も街も私を祝福してくれてるみたいで、自然と足取りが軽くなる。


しかし……子供たちと、何より翔人さんがいない。

一人ってこんなに落ち着かないものだっけ。

いかにも華やかなパティスリーで子供たちの好きそうなケーキをいくつか。それに甘いものが食べられない翔人には、いつも愛飲してる ウイスキーよりワンランク上のものを購入して、帰りの電車に乗った。



「ごめん、帰ってきちゃった〜

なんか、落ち着かなくって!」



……返事がない。

どうやら三人とも子供部屋にいるようだ。

駆のキャッキャとした声と、翼が観ているだろう動画の音声が漏れ聞こえてくる。


これは、「ばあー!!」をやってもいいだろう。いそいそとケーキをしまい、子供部屋に向かう。


と、

かすかに翔人さんの声が聞こえた。


「……、……、…れ。


走れ。」


子供たちの寝室で、翔人は、仰向けでキャッキャとはしゃぐ駆の両足を掴み、走れ、走れとつぶやきながら、規則的に、刷り込むように、これ以上ないほど理想的なフォームで、駆の両足を動かしていた。


「……!?」


私は気づかれないように 、一切の音を立てずに夫婦の寝室に逃げた。


翔人さんは、最高の夫だと思う。

私を大切にしてくれる。

子供たちの面倒だって、申し訳ないくらい見てくれる。


現役の選手を引退した彼にはきっと物足りないであろう高タンパク 低カロリーの食事も、彼は「うまい!」「うまい!」と、そればっかり、文句一つ言わずに食べてくれる。


寝室には、私の女子駅伝での賞状はもちろん、数々の大会の賞状やメダルやトロフィー、歯をむき出して笑っている仲間との記念写真が飾ってある。


「君の素敵なところは1つだって 多く ここに残しておきたいんだ。」と、あの時翔人さんは笑って言っていた。箱根で光っていたのと同じ 八重歯が、白く 眩しく輝いていた。


なぜだろう。


なぜ、私は今震えているのだろう。


ここにはなぜか彼の写真が1枚もない。

なぜ、私は今まで気が付かなかったのだろう。


*********


ぐにゃり。


世界が歪む。空気が 歪む。ギャラリーがザワついている。


「駆!!」


大好きな父さんの顔が、ぐにゃりと歪んでいく。

絶望の色だ。


小学校高学年と中学生の合同大会だった。小学校5年生の俺は、それでもこの地域の誰よりも早く、高く跳んだ。


俺は勝つ。


「勝つのは、駆だ!父さんが保証してやる!」

深く響く、父さんの力強い言葉と、真っ白に光る八重歯。これだけが俺にとっての本当だった。



ぐにゃり


全てが歪んで、雲ひとつない青空が見えて、父さんが 絶叫 するみたいに俺を呼んで、気がついたら俺は 狭い 狭い病院の、治療室の椅子に腰掛けていた。練習のたびに俺を抜かすと豪語していた同級生が、今にも暴れ出しそうなのを抑え込みながら 金メダルを首にかけられているのを、テレビ越しに見た。

メダル取ったなら せめてもうちょっと嬉しそうな顔しろよ。


母さんが迎えに来て、家に帰って、母さんに促され父さんの書斎に入って、

俺は怪我をしてから初めて父さんを見た。


初めて見た父さんの「書斎」には、俺にはよくわからない 体のことやテーピングのこと、陸上の理論に関する本が、所狭しと 置いてあった。

沈黙が重かった。


「……父さん、俺」

「分かっている」


父さんは俺に背中を向けたままだった。

窓から差し込む陽射しが、父さんの表情を一層わからなくさせていた。


「お前は、失敗した。」


父さんは、死んだ。

俺の大好きだった父さんは死んだ。


お前に何がわかる?

入院中 一度だって 俺に会いに来なかったお前が、俺の何を。


それから俺は、親父の顔を見ていない。



*********



「…親父、俺」


「分かっている。」


…そりゃそうだろ。全部新聞とかテレビでやってたもんな。


「「駆ける者」には これという時がある。この時のために 俺たちは、歩くことを覚えた瞬間から「この時」まで、鍛錬を積むのだ。


朝晩の走り込み、心身の鍛錬、筋トレ、体調管理、フォームのチェック、トレーニングに必要なカロリーは勿論、身体の成長修復の為必須栄養素を欠かさず栄養バランスに気を使った食事。


しかし、「その時」だ。

その時、駆けることができなかったものに価値はない。これまでの鍛錬 も苦労も流した血も汗も涙も全ては無に帰す。

そこにあるのは無だ。

お前はもはや駆けるものではない。

お前はその時 ただの 人 になるのだ。

「こんなものどうでもいいね」とばかりに無造作に先を駆ける黒い肌の留学生、何かの拍子にぐにゃりと曲がる足首、そんなものはクソの言い訳にもならん。


駆けろ。


お前はこの時の為に、生まれてきた。もし駆けられなかった その時、 お前はただの 人 になるのだ。」


「俺は父さんじゃない。父さんの道具じゃない。 父さんの思うようにはならない。


俺は、父さんじゃない。」



「いいや。いいや、お前は、俺だ。

その時が来たらお前は必ず 駆ける。

お前は駆けずにはいられない。

そういう風に 俺は、お前を育てたのだから。」


結局、やっぱり、

まるで話にならない。俺は寝床に向かった。愛用している100万円のシモンズ社のベッドは、やはり 父が俺に買ったものだった。

すっかり習慣と化してしまったシュルツの自律訓練法のせいで、予定時刻の 10分前には俺は眠ってしまい、


そして俺は「その時」を迎えた。


俺は、駆ける。

駆けずにはいられなかった。


しかし俺は、親父とは違う。

俺にはゴールテープが見えていた。

あのテープを俺の胴体が引き裂くその瞬間さえ、まるで過去に経験したことのように、俺には感じられた。

まだ、走り始めてもいない、この瞬間から。


タスキを受け取り、俺は駆け出した。

全てが後ろに流れていく。

俺が、全てを置いていくのだ。

1月の風が火照った身体を撫でていく。

気持ちいい。





ぐにゃり。


俺はこれを知っている。



「大丈夫ですか」「大丈夫ですか」「 大丈夫ですか」

俺は、親父とは違う。

俺は全てをシカトし、監督に預けていたテープと冷却スプレーで粛々と手当てをした。

走り出す。 左足の感覚はない。

足の感覚がなくてもベストコンディションで走る方法など中学の頃から熟知している。

大学に飼われた()()()、インターハイを競った友人、俺を抜かすと豪語した他校の後輩、その全てが 俺の後ろにいた。


俺は親父 なんかとは違う。



俺は駆けた。


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