コックと王女
助手たちが運んで来た食材が、磨き上げられた銀色の調理台に積み上げられていく。大型バットには人参、玉葱、ベーコンやトマトにカブ、魚介類。
ブルーノはクリップボードに挟んだメニュー表と見比べ、ペンでチェックを入れていく。
「ジャガイモは剥いたか?」
「今運んできています」
「トマトが思ったより小ぶりだな。これだと少ない」
「ん~、私の大大大好きなミネストローネと?」
「ではトマトを、あと三分の一ほど持ってきますか?」
「あ! 貝のパスタね。あれはニンニクが効いてて最高!」
「……ああ、頼む…アン王女」
伸ばした黒い髪を後ろに結い、どんな重たい寸胴鍋も軽々と持ち上げる男が腰に片手を当て振り返る。愛想の無い切れ長の目。捲ったコックコートの袖から伸びる筋張った腕は、いつも惚れ惚れするほど男っぽくってカッコいい。
「なぁに、ブルーノ」
「やる気を削がれるんで、そのメニュー当てゲームは止めませんか」
「でも凄いでしょ?今の所、九割当たってる。当てられないのは新作メニューくらい」
「それですよ。なんか『大体いつも同じの作ってる』みたいに遠回しに言われてるみたいで」
「どうしたの?被害妄想? いつも言ってるじゃない、私、世界で一番ブルーノの作るお料理が大好きなのに」
「ソレハアリガトウゴザイマス」
王城北棟にある厨房は、フロアから少し階段を上がる。厨房から見渡せる大食堂は、まだ夕方前なのもあって食事をする者はいない。亜麻色の髪を揺らした第二王女のアンネリーゼは背伸びをして、給仕が皿を受け取るカウンターから厨房の様子を覗き込む。ここはアンが一日で一番楽しみにしている散歩コースだ。
「ランチのデザートのプディング、食べたことないくらい美味しかった!」
「昨日はその前にお出ししたアイスクリームがこの世で一番美味しかったと」
「だって毎朝お腹が空いて、前に食べたことなんてすぐ忘れちゃう」
アンの言葉に厨房の者達がくすくす笑う。
例えばこれがほっそりした美しい王女が言うのであれば「なんてお茶目な女の子」で済むのだろうが、あいにくアンは真っ白な肌にふわふわの肉を持つぽっちゃり系王女である。きめ細やかな肌は自慢だが、しっとりと汗をかいた柔らかい二の腕は自分でも「焼いたらどんな味かしら」と思わなくもない。きっと世界いちジューシー。食べないけど。
だからアンにとって皆が自分を笑うのは致し方が無いことなのである。殆ど笑わない、この男以外は。
「では、ワタクシメの出した料理だって全部お忘れなのでは?」
「ま~意地悪ねぇ!」
クスクスからアハハと笑い出したシェフ達に背中越しで指示を出しながら、ブルーノは無表情に小さな銀皿に置かれた小さな包みを三つ取る。
アンはワクワクしながら爪の短い素敵な指を眺めて、ひとつの菓子が油紙から取り出されるのを見守る。長い指は四角いキャラメルを摘まんで、厨房を覗き込むライラック色をした瞳の側へと近づける。
「キャラメルね」
「正解」
ふふふ、と笑って口を開けると放り込まれる甘い菓子。
「おいし~」
残りの二つを広げたアンの手に落として、ブルーノはほんの少しだけ笑う。
「しっかり歯を磨いて下さい」
「もちろんです!」
後ろに控えた護衛のアルバートと共に厨房を離れ、アンは行く先々で庭師、馬番、洗濯物を取り込む侍女達など誰とでも昨日の続きをお喋りし、部屋に戻った。
「今日のおやつはキャラメルだったの」
「殿下の大好きなおやつですね」
大好きが一万個くらいあるのだが、専属侍女リリアンの言葉に大きく頷く。
「そう!ブルーノの作るキャラメルはきっと国で一番美味しいわよ」
「料理長のゴーンが作るキャラメルも一番だと昔仰ったような気が。第一、ブルーノ副料理長はまだ『副』ですからねぇ」
「なるほどぉ…鋭い!」
冗談半分にやり取りを続けて、ディナーへ向かう支度を整える。
「あの、頼んでいたもの、あったかしら?」
「ええ、取りに行って参りました。そちらの棚にありますよ」
リリアンの目線の先にある美しいコバルトブルーの小箱を見つめ、アンは口角を上げる。
「あれがそうなのね!綺麗な色。ありがとう。忙しいのに取りに行ってもらって、ごめんなさいね」
「とんでもございません。喜んでくださると良いですね、シャルロッテ様」
「…チョコレート好きだから、きっと喜んでくれるわ。並んでもなかなか買えない人気店だもの」
王都で不動の人気を誇るチョコレート菓子店がこの冬に売り出した『とろけるショコラ』シリーズは三か月先まで予約で買えない。だけど、今回ばかりは王族という強権を振りかざしてコレに横入りをした。この願いを叶えてもらうには、どうしても必要だった。アンネリーゼだって、やるときはやる。
仕上げに背中の紐を結んでもらい、王族専用ラウンジに向かう。
「こんばんは、お母様」
「こんばんは、アン。ほら見て、明日には満月です。月がとても大きくてよ」
どれどれ、と窓辺にたたずむ母の横に立つと、格子状の空には大きく丸く輝く月が見える。
「わぁ、本当ですね」
知っているのだが、母の横で驚いたふりをして月を見上げた。
『 満月の夜に、王都で一番流行りのラグジュアリーショコラボックスをベランダに置いてくれたら、恋するあなたの願いを叶えます。
ただし、相手に好きになってもらうことはできません。 見習い魔女のミュシャより 』
不思議な夢だった。
全然違う夢の中なのに、アンは同じ手紙を貰う。決まって便箋にはそう書かれていた。夢の脈絡など全くない。五回とも一文字違わず同じ内容なのだ。これはちょっともう、信じるしかない。
アンにはあんまり時間がなかった。輿入れは年始だ。満月はもう、この一度きりだった。
父である国王オークリーと王妃アシュリーヌ、弟のルイス、妹のパトリシアが食卓につき、祈りを終えると給仕が始まる。
魚の前菜、ミネストローネスープ、良い香りの貝が入った小さなパスタ、メインディッシュの羊のソテー。
「はぁ♡ 最高に美味しいですね。貝もプリプリ!」
「アンは毎日毎日よくそのように美味しそうに食べられますね」
「本当、お姉さま絶対に全部食べちゃうし」
「だってブルーノのお料理は絶対どれだって美味しいんですもの。お父様だってお気に入りでしょう?でもそうなの、全部残したくなくて食べちゃうから、また太っちゃった気がする」
「また!? 輿入れの衣装、大丈夫かしら!?」
王妃が驚いて思わず出してしまった言葉にハッとした後、ちょっと家族が静かになる。
「ふふふ。大丈夫です、お母様。実はこの間お直しして貰った時、仕立て屋のガラムが『どうせならわかりにくくして、まだもう少し余裕がある作りにしておきましょうか』って言ってくれたのです」
「そうか、ガラムがそんな工夫を…じゃあ、アンネリーゼ、好きなだけ食べて準備をしなさい」
父が優しい顔でそう言ってくれる。
「そんな、まさか! 好きなだけ食べてしまったら、馬車に乗れなくなってしまいます」
あははは、と家族は冗談に笑い、食事に戻る。
アンネリーゼはカリヨン王国の第二王女だ。上の姉は母に似て器量が良く、大国の王子に気に入られて輿入れをした。下の妹は十三で、いずれ次期公爵当主に嫁ぐ。
アンネリーゼは十九歳。姉や妹と違い、いたって普通の器量である。二十歳になる年の始めに、北方民族が治める土地へ輿入れすることが決まっている。
小国であるカリヨンは、かつてこの地を治める際に北方の民ウルギ族と約束を交わした。ウルギは寒い土地で巨大な馬を乗り回し、屈強な肉体を持ち、死をも恐れぬ獰猛な戦士を生むという民族で、実のところ彼らが攻め込めばカリヨンは立ちどころに消えてしまう。
だけどウルギには、労を押してまでつまらない安寧の地を蹂躙する意思はなかった。彼らはいつも山岳地帯での血沸き肉躍る戦闘に熱中しており、優雅で優美な贅沢には全く興味が無かった。
『攻め込まないでやる。その代わりに王女を必ず輿入れさせろ。多くの供物と共に派手な行列で娘を差し出せば、民は自ずと誰が一番偉いのかを知る。輿入れが途切れればどうなるのかは賢い頭で考えろ』
平穏と引き換えに、カリヨン王達は娘を差し出した。先代は王女が生まれず、前回輿入れしたマーガレット王女以来、実に半世紀ぶりに差し出される王女がアンネリーゼである。殆ど交流の無い北の土地。ウルギの首長が一体どんな人物なのか、カリヨンの人間は誰も知らない。国王はかつて仮面を被った首長と話をしたことがあったが、僅かな時間の会談は収穫が乏しく、偏見もあって冷たい印象しか残さなかった。それ故、アンには殆ど伝えられた情報が無い。
ただ、王には一つ気づいてしまったことがある。
浅黒い肌に赤茶けた髪。大きな身体…ウルギの身体的な特徴には大きな偏りがあり、カリヨンの特徴は欠片も見当たらなかった。何人も輿入れしてきたカリヨンの血は、彼らに何も残してはいない。その事実は重たく肩にのしかかる。
ウルギだけではないが、北の部族は外部との交流を嫌った。嫁いでしまえば音信不通だ。オークリーは時々妻が隠れて泣いているのを知っている。
食後のデザートはマカロンで、ねっとりした感触をにんまりと平らげたアンはおやすみなさいとラウンジを出る。アルバートと共に部屋へ向かい、リリアンの待つ中へと入る。後ろで外からの施錠の音が聞こえた。
「おかえりなさいませ、殿下。お風呂の前に読書は如何ですか?陛下が取り寄せて下さっていた小説が届いておりますよ」
「本当?楽しみ…あ、違った。今日から刺繍をするの」
「刺繍ですか。良いですね」
「この間、ハンカチを誂えて貰ったでしょ?それに刺繍をします!」
「そのためのハンカチだったのですか。道理で無地ばかり。ではお持ちしますね」
「ありがとう、リリアン」
侍女は主人ににっこりと頷いてハンカチを取りに行く。
その晩からアンネリーゼはチクチクと針を持った。
ウルギへ嫁入りするにあたり、条件は三つ。一つ目は王女、二つ目は処女、三つ目は北の言語を理解しておくことだった。どれも全てクリアしている。嫁入り予定の王女には常に護衛が付いて回り、夜には施錠された部屋で過ごすことが義務付けられていた。間違ってもキズモノにされたりしないよう、国の威信をかけて第二王女は守られている。
だからもちろん、翌晩の満月を見上げるアンも施錠された部屋でひとりだった。
リリアンが下がったしばらく後、自室の窓を開けて静かにバルコニーへと出る。胸に抱えるコバルトブルーの包みは、もちろん友への贈り物ではなく、魔女への供物だ。
愚かしい行為かもしれない。
頭の片隅で思いながら、既に魔法にかけられたように暗闇で名を呼んだ。
「願いがあります…ミュシャ」
「待ってましたーーーーーっ!!」
もくもく、ドーン!!
白煙と共に登場したのは帽子も服も真っ黒でまん丸で巨大な女の子。瞳をキラキラさせてアンを見つめている。
「本当に本当に待ってたの、アンネリーゼ!!」
「え?…ええ」
本当に出て来た。出てきてしまった…!アンはバクバク鳴る心臓を必死で宥める。
「今その店、マージーで人気店!お口の中でとろけるスイーツヤバいよね!?でもぜんっぜん誰も私にくれないんだもん。そりゃそうだよね、何か月も待ったチョコを誰が人にあげるっての」
あたしならぜぇったいあげない、と言い切った魔女の手にはもうコバルトブルーの箱があった。アンは驚いて空っぽの腕を見る。
「あれ!?ショコラが」
「むふ。ありがとぉ。ところで今日のマカロンも超絶美味しそうだったね!?」
「そうなの!ブルーノの作るお菓子はどれも最高…って、何で知ってるの?」
「毎日毎日あの料理男子に超旨そうなご飯にスイーツって、どんだけ幸せなわけ!?分けてほひぃよ」
丸いショコラがまとめて三つ大きな口に吸い込まれて行った。アンはポカーンと魔女を見る。数か月待ちのショコラを初手で三つまとめていくとは…。ビリビリに破かれたコバルトブルーの紙切れが風と共に飛んでいく。
「んっっっっっっっっっっっっっっま!!!!!」
吠えるミュシャにアンは慌てた。施錠された部屋に誰かいるなんてバレたら!
「大丈夫よ、聞こえない。さ~、じゃあ願いを叶えてあげる!願い事はもうわかってるけどね!」
「えっ」
驚いたアンが大きな目を更に丸くすると、ミュシャは杖をクルクルと回しながら飛んで行った紙切れを呼び寄せる。
「アレでしょ? アンタの可哀想なやつ」
「かわいそう」
「輿入れ、代わって欲しいんでしょ?」
「輿入れ!? 誰に?」
「そりゃ第三王女の妹しかいないでしょ。書類を二から三にするだけだもん。苗字変える訳じゃないし、お安い御用。流石に昔々のウルギと交わした約定までなかったことには出来ないけどね。過去の生死に関わっちゃ、お師匠様に怒られちゃう」
「なるほど。でもそうではないのよ、私の願い」
「ほぇ?」
猫と身体を交換したいの!
キラキラした瞳でそう言った王女を、ミュシャは信じられない目で見る。
「何考えてんの?おバカなの?」
「その…料理男子のブルーノが、猫を飼っているの。その猫と私の身体、彼の仕事が終わってから交換してほしいのよ、一晩」
「本気で言ってるの?」
「そりゃあ、本気よ」
「妹と入れ替われるんだよ?」
「そんなことしないわ。私、誰かと代わって欲しいなんて思わない」
物心ついた頃には既に決まっていた。
素敵な王子様から求愛された姉様は自慢だし、まだまだ幼くて可愛いパトリシアには幸せになって欲しい。
「私はこんなだし。とにかく美味しいから沢山食べちゃって!このまま過ごしていても、嫁ぎ先なんて無いのよ。生れてから今まで、ゴーンとブルーノにいっぱい美味しいを貰ったし、もう私は十分なの」
「確かに美味しいもの食べるって幸せだもんね。それはわかる!」
「でしょう?ウルギの土地にだって、きっと美味しい物はあるわ」
「寒い土地って美味しい物が多いもんね」
「そうそう!楽しみ!」
「………」
ミュシャはアンをじっと見た。
「わかった。うん。あの副料理長が好きなのね」
尋ねられて、アンはいたずらが見つかったみたいな顔で歯を見せる。
「誰にも内緒よ」
「皆知ってると思うよ」
「まさかぁ」
「二体同時だから結構難しい魔法だし、アンタってとっても親近感わくから、一晩付いててあげる。王女になった猫ちゃんの方に。とんでもなくパニックになるだろうから」
「はっ!! そんなことまで考えていなかった! 付いててくれるの? ありがとう!」
「普通こんなサービスしないけどね。早速、明日でいい?」
「えっと、うん、大丈夫!」
明日の計画を段取りした後、アンは何度も礼を言って消えゆく魔女を見送った。
「信じられない!!本当の本当に、魔女が」
ぷるぷると震えて思い切りベッドにダイブする。
「ん~~~~~~!」
すごい!!
ずっとずっと羨ましかったあの猫になれる!!
足をバタバタさせてアンは心の中で喝采を叫ぶ。
白くてふわふわの可愛い猫。シャルロットに食事を招待された帰り、歩いていたブルーノとすれ違った。帰って来ない猫を見つけて、宿舎に帰る所だった。
急いで馬車を止めて降りた。彼は驚いていたけれど、飼っている猫だと説明してくれた。友達の飼い猫が産んだ子があまりに可愛くてもらったのだ、と珍しく優しい顔で言っていた。確かにすごく可愛かった。世話をして、毎日一緒に寝ているという。それを聞いてから、あの猫が羨ましくて羨ましくてたまらなかった。
「はぁ…眠れないかも…!」
五分後、アンネリーゼはいつもの通りすやすやと寝息を立てていた。
****
ぼわわわわわ~~~~ん!
白い煙に包まれた後、アンは布切れの中にいた。にゃーと鳴き声をあげるとヒョイと脱げた夜着が摘まみ上げられる。
「出来上がり!」
顔をあげると、大きな大きなミュシャと二回りほどこぶりな自分が見えた。魔女が杖を振ると、さっきまで着ていた夜着が自分の形をした猫に着せられている。
アンネリーゼの形をした猫は終始キョトンとして、状況を理解していなさそうだった。部屋をキョロキョロと見渡して、ウロウロと四つん這いで歩き出した。
「こっちは任して。いちにのさん、で料理男子の部屋の前に飛ばすわよ」
「にゃあ」
「いち、にの、さん!」
次に瞬くと、全く知らない部屋の扉の前にいた。廊下の端っこ、角部屋。扉が廊下に沿って等間隔にいくつも両側に並んでいるのが見える。
ここがブルーノの宿舎の部屋なのね。扉から漏れ出る光を見つめ、僅かに逡巡した後でアンはカリカリと扉を掻く。
「にゃー」
すると、割と直ぐに扉が開いた。見上げると、愛しい男が世界一優しい顔で自分を見ていた。
「おかえり、アン」
息が止まる。
あれっ、今、猫じゃない!?
しかし、驚きのあまり出た次の一声も「にゃっ」である。
両手が伸びて来たと思ったら、あっという間にコロンと男の腕の中に抱かれた。
「よしよし。今日は何処に行ってた?」
「ンナァァン」
大きな手で、身体中を撫でられた。優しすぎる笑顔から目が離せない。
あまりの幸福に動けなくなる。
な・・・なんだこれわわわわわわわわ!!!!
「はは。大丈夫か?どうした、アン」
ツンツンと鼻先を撫でられて、顔に顔を押し付けられた。
ぐわー、死にそう。
幸せのあまり淑女教育が飛んでいく。
でも心臓が止まってもいい…
少し身を起こした姿勢で持ち直されて、まじまじと部屋を見渡す。
ブルーノは中等部を出た後から見習いで城の厨房に入った。シェフの作る食事は王族の口に入る。厨房へ入るのは余程身元が保証されていないと受け入れられない。恐らく下位貴族の次男以下、もしくは近しい傍系だろうと察せられる。
だけど部屋に華美な様子もなく、所々に風景が描かれた葉書がピンで差されていたり、猫が遊べるためのタワーが置いてあったり。壁際にある割と大きな本棚には『栄養学』『子供の食育』『南国レシピ』『世界の料理』や『スイーツ応用編』『薬膳の歴史』など、ひと目見て料理人の部屋だと思わせる光景が広がっていた。
すごいな。
少年だった頃からゴーンに弟子入りをして、ブルーノはひたすらお料理の勉強を続けて来たのだわ。だからこそあんなに美味しくて、美しい料理が生み出される。弟子入りしてもうそろそろ二十年近くになるのではなかったか。今となってはゴーンは時折指示をするだけで、大方の舵取りはブルーノがしていると聞く。
「今、書き物をしていたんだ。もうちょっと遊ぶのは後でな」
ベッドの上にアンを置いて、二人がけのテーブルに座る。机のノートに向かってカリカリと書いたり、時折色のついた鉛筆を持って塗り込んだりしていた。アンは気になってウズウズする。何を書いているのかしら。読みたい!知りたい!
猫の身体は身軽だった。気が付いたらトントーンと男の膝の上に移動していた。
「気になる?」
ノートを覗き込む猫の背を、ブルーノが撫でた。
「いつも書いてるレシピノートだ」
「ナァ~」
他のページも見たい。前足でノートをつつくと、慌てたように抱きかかえられる。
「おいおい。ダメだ、これは大事なノート!…王女に持って行ってもらうレシピなんだ。年始までにあと5つ書いたら」
完成なんだ。ノートを見つめて呟くと、大きな手が優しく猫の背を撫でた。
「あちらで淋しくなった時に、向こうの厨房で誰かが作ってくれればな」
振り向いた猫のガラス玉のような瞳が、男を見つめる。
ああ、今、御礼を言えたらなぁ…
湯上りのブルーノは良い匂いがして、抱っこしてもらうと温かかった。アンは膝の上で撫でてもらいながらじゃれ付いたり、思い切って舐めてみる。ブルーノは書き物の手を休めて何度も『アン』とネコの名を呼び、抱きしめて腹に顔を埋めてきた。
アン、と名を呼ばれる度に心臓が痛くなる。それは猫の名であったが、アンネリーゼの愛称でもあった。ねぇ、それは誰がつけた名前なの?
「よし、書けた。今回は貝のパスタにしたんだ、ほら」
言いながら、猫へと真面目に広げて見せる。
「山岳地帯じゃ貝は取れないから、良いレシピはあちらに無いかもしれない」
にゃあにゃあと鳴いて貝のパスタは大好きだと伝える。ありがとうブルーノ。
男は肩まで落ちた髪を掻き上げて、ノートをパラパラと捲ってぶつぶつと呟いた後、立ち上がって片付けだした。
「おいで、アン。遊ぼう」
ふわふわした猫の大好きな玩具を持ってきて、床の上で二人はじゃれ合う。
「可愛いなぁ、アン」
玩具も良いけど、ブルーノに飛びついて沢山抱っこしてもらうと天にも昇る心地になれた。
猫になって良かった!
二人は思いのまま頬ずりをしあって、楽しいひと時を過ごした。
「はぁ。じゃあ、寝るか」
灯りを落とし、ブルーノは掛布を持ち上げて猫を呼び寄せる。
「にゃあん」
アンはかつてないほどに安らぎ、温もりの中で丸くなる。
ぴったりと寄り添って、二人はすやすやと眠りについた。
****
「ね~、まだ寝ないの?もう私、くったくたなんだけど」
「にゃおうを?」
「そうよ。普通夜に寝るでしょう?アンタだってご主人様が寝てれば寝るでしょうに」
「んなぁぁぁんなぁんをう」
「ご主人様は今忙しいの、って。この会話何回目!?あ~も~…ねっむ…」
延々と四つん這いで歩く王女の形をした猫を説き伏せて何とかベッドに座らせたものの、次は手や足を舐めだした。汚いからダメだと怒り、気になるなら手を洗えと洗面に連れて行ったら暴れ出した。仕方がないので魔法の蔦で簀巻きにしてベッドに転がしたが、縛られたままでも延々とお喋りが止まらない。
気付けば粗相もしているし、全て杖を振ればなんとかなるが、疲れる事この上ない。魔法使いで良かったとミュシャは久しぶりに思った。赤ん坊や動物を相手にすると精神的な疲れは大きいものだ。加えてここは最高級のベッドの上で、師匠の家と違って寝心地もよすぎた。ついつい魔女は船を漕ぐ。
「寝たらだめ…寝たら…」
「んごっ」
はっ
自分のいびきに驚いて目を開けると、相変わらずの最高級ベッド。目の前には大きな白い毛玉があった。
ミュシャは乾いて重たい瞼をパチパチと瞬いて、毛玉を凝視する。
「・・・・・・・・・・ぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああっ!!!!」
「にゃあ」
もちろん毛玉は猫である。
「つつつつつつつえっ!杖!!」
慌てて杖を取り出して夜と同様に魔法をかけた。猫は王女の姿で丸くなる。
「う~わ。やってしまった…」
ミュシャはサーっと青褪めた。まだまだ見習いなのだ。複雑な術中、あまりに深く寝入ってしまうと術が解けてしまう。
つまり、猫になった方も人間になっていた、ということだ。
ミュシャは白々と明け始めた窓の外を見ながら、やばたにえん、と呟いた。
****
真っ暗な部屋の中で当たったしっとりとした感触に、ブルーノはウトウトしながら『あれ』と思う。ふわふわじゃあない…
薄目を開けると、腕の中にはすうすうと寝息を立てる亜麻色の毛が見える。
ああ、こっちのアンか。
それは彼にとっては頻繁に見る夢そのもの。可愛いアンと幾度も抱き合う妄想の果てである。
「アン…アンネリーゼ」
アンをぐいっと抱き寄せて身体の中に閉じ込める。もぞもぞと恥ずかしそうに身じろぐ様子が可愛らしい。そう、アンは厳重に施錠された部屋で夜を過ごすくらいに綺麗な身の上なので、何度夢の中でブルーノが汚しても、また次の日には真っ新な顔で厨房にやって来る。
「ブルーノ」
小さな頼りない声が聞こえてきて、滑らかな肌を撫でて安心させてやる。
ブルーノは片方の手で髪を撫で、前髪を梳いて顎を支える。顔を近づけて口づけた。
「ブルーノ…」
「嫌だった?」
囁いて尋ねると、首が振れる。
十五で叔父から勧められ、ゴーンに弟子入りをした。どうしてそう思ったのかは思い出せないが、その頃には既に美しい料理を作れる人になりたかった。叔父は爵位を持っていて、よくフルコースを食べさせてくれたから突飛な願いではなかった。
師と出会い、彼の類まれなる才能を側で見続けるうち、一番のファンだと自負する少女が目に入り始める。ぽっちゃりした白い肌の少女は『ゴーンの料理は世界で一番』だと言い、また師も『自分はアン王女の為に包丁を持っている』と公言していた。
国王でも王妃でも王太子の為でもなく。
その理由は、たった一つだ。
第二王女は二十歳になれば北の地へ輿入れをする。
国の平和と引き換えに、たった一人で馬車に揺られて。
ブルーノだって知っていた。だって学校で習うのだ。
うるぎとのじょうやくがあるので、わたしたちはあんしんしてくらすことができます。
だけど実際に王女を目の前にして、とんでもない事実を突きつけられていることに気が付いた。ウルギってどんな民族なんだ。なぜこの小さな女の子が。嫁ぐのをやめたらどうなる。
放棄していた思考を動かし始めると湧き出た様々な疑問。
だけど、城の誰しもが抱く疑問を圧倒する勢いで、アンネリーゼは食べた。どんな皿でも喜んで、いつでも余すことなく食べつくした。
「最高においしい!」
「世界で一番!」
「また太っちゃった」
「ごちそうさまでした、ゴーン!」
アンネリーゼはいつでも美味しそうで、笑顔だった。
可愛い、可愛いアン。
自分の料理も食べて欲しい。美味しいと言って。あなたを満たしたい。あなたの食欲全てが、俺に向かえば…願望は一つ叶うごとに欲深さを増した。
アンの顔を覗き込もうとするが、隠れてしまってなかなか見せてはくれない。
「顔を見せて」
「毎日見てるでしょう…こんな近くじゃ恥ずかしい…」
妄想と一味違う夢の破壊力に理性が音を立てて崩れていく。
「可愛い」
「え?」
「めちゃくちゃ可愛い」
「ほんとに?」
「世界で一番可愛い。アンネリーゼ」
「ありがとう、ブルーノ…私、ずぅっとブルーノが大好きだった」
「知ってる」
年頃になるにつれて、師に会いに来ていた娘の視線の先には自分がいるようになった。ゴーンの料理は世界一、からこの世で一番美味しいのはブルーノの作る料理!に変わった。
ランチのサラダから始まったアンへ捧げる調理は、月日を重ねてフルコースへ。朝も昼も夜も、ブルーノは何度も失敗して研究と勉強を繰り替えし、ゴーンから王女を奪い取った。
そんなこと、厨房の皆が知っている。
さすがに猫にまで王女の名を付けたと師匠にコッソリ打ち明けた時は殴られた。最後には頭を乱暴に撫でてきながら『呼ぶのは部屋の中だけにしろ』と笑っていたが。
「毎日厨房に来てくれてありがとう」
「だって毎日会いたくなる」
「うん」
ブルーノにとっては夢では既知の行為の後で、二人は見つめ合った。
「レシピノート…ありがとう」
「えっ。レシピノートの話をしたっけな」
ブルーノは焦ったが、すぐに反省する。夢の中なので礼を言われたい甘っちょろい願望だ。アンは焦る様子を見て、ふふふ、と微笑んだ。
「ごめん…それくらいしか…代わってやれたらどれだけ良いか…」
「それじゃあブルーノが王女になるの?そんなの嫌よ。ブルーノは世界一かっこいい料理男子なんだから」
「アン」
ふたりは顔を寄せ合う。
「ノートは五冊ある。二冊はスイーツで、三冊が料理。具合が悪くなった時によく食べた粥も書いてある。あちらで食欲がなくなったら作ってもらって」
「うん」
「夏場に食欲が減った時の紫蘇のドリンクも書いてある」
「わぁ。あれはゴーンの」
「そう。だけど、それよりちょっと工夫してある、師匠のじゃなくて、俺のレシピだ」
「…ふふっ、ありがとう」
何度も礼を言って、アンは大きな肩にしがみついた。
「なるべく元気に過ごして、作って貰えそうだったら、お願いしてみます!」
「うん」
「私、幸せ者ね」
月明りだけが頼りの薄暗い部屋の中で綺麗な笑顔を見せるアンに、ブルーノは泣きたくなる。なんだかいつもより現実的な夢だった。いつも夢の中では素直に悲しそうだ。こんな、現実と同じように強くは笑わない。
「ブルーノ…泣かないで」
「………」
結局、二人は夜が明け始める前まで睦みあって、色んな話をした。
夢だと思っている男は、問いかけにどこまでも正直に喋った。
どこまでが魔女の魔法で、どこからが現実なのか女には幸福過ぎて判断がつかなかったが、やがて抱きしめ合って眠りに落ちた頃、再び猫に戻った。
朝になり、弟子入り以来初めて寝坊をしたブルーノを心配したゴーンに扉を叩かれ、慌てて男は飛び起きる。
もちろん腕の中には白くてフワフワの猫しかいなかった。
****
「それでは行って参ります」
あっという間に日が過ぎ、年始に仮面を被った三人の迎えが来た。
ひとりを除いた王城全ての人間が、列を成して見送りにたった。オークリーは優しい声で、向こうに着いたら役目は終わりだと娘に言い聞かせた。嫁いでしまえばもう、約定にはそれ以上の役割は何も求められていない。
「出来うる限り、好きに過ごしなさい」
アンは困った顔で頷く。
「そうよ、好きに美味しいものでも食べて、誰に何を言われてものびのびと過ごせばいいの」
「心配し過ぎですよ?私はいつでも好きに過ごして好きなだけ食べてきたのですから。逆にそれ以外ができません」
茶目っけたっぷりに言う娘を、無言で二人が抱きしめる。
王女はリリアンから一つずつハンカチを貰って渡した。父には王冠、母には国花である白百合を刺繍してある。
「一生持ち歩きます……」
「一生ですか!?刺した甲斐がありました…早速涙をおふきになって、お母様」
母は激しく首を振り、止めどなく溢れる涙はそのままにハンカチを胸元に押し当てる。
並んだ弟妹もハンカチを手にしている。リリアンとアルバートも今朝方渡したハンカチを握ってくれていた。
最後の二枚を手に、アンネリーゼは白髪を刈り込んだコックコートの男の前に立つ。ゴーンは躊躇なく跪いた。
「ゴーン」
「王女様」
「今まで、沢山のお料理を本当にありがとう。ゴーンにこんなに大きくしてもらったこと、決して忘れません。ちょっと大きくなりすぎちゃったけど」
うふふ、と笑いながら、糸で鍋とお玉をあしらったハンカチを手渡す。
「棺桶に一緒に入れます」
「ゴーンがそこに入るまでにはまだ五十年かかるわよ」
二人はじっと互いを見た後、脳裏に浮かんでいる黒髪の男に思いを馳せる。今頃きっと、黙々と厨房を掃除しているのだろう。
「もう一枚を、渡してくれる?」
「もちろんです。見送りに来いとは言ったんですが」
「良いのよ。来てくれない方が」
きっと、顔を見ると我慢できなくなる。だからこれで良かった。
「上手に刺せなかったから、可愛さは表現しきれなかったんだけど。アンと元気で、と伝えてください」
「…必ず」
濃いグレーの最後のハンカチを渡した。
アンは皆を見渡し、礼をする。
ありがとう、さようなら。
どうぞお元気で!
王女は馬車に乗り、北の地へと旅立った。
****
国民の祝福を受けて、アンは何度も窓から手を振った。
カリヨンの護衛に囲まれて大行列は進み、二週間をかけて最北の山裾へと辿り着く。ウルギの使者の内、一人はサジと名乗り、用があれば全て彼を通した。鼻から上を覆う木彫りの仮面は瞳が小さく刳り抜かれていたが、奥まって小さく、殆ど表情がわからない。
「ここから馬車は通れない。積み荷と王女を残して去るように」
後ろ髪引かれる騎士たちを帰し、アンはサジの馬に乗せられ、そこから山を駆け上がる。峰を越えると北方民族が暮らすエリアだ。峰の向こうは吹雪いていた。
毛皮と帽子を着せられても寒さで震えが止まらない。目を瞑って縮まりやり過ごした後、ウルギの領地へ到着した。仮面を付けた人々が出迎える中、アンは馬を降ろされる。
「着きましたよ」
もうサジの言葉は北の言語だった。
「長旅、どうもありがとうございました」
周囲の迎えにも大きな声で『ありがとうございます』と礼を言う。
「王女、ウルギの長、ガルバラ様です」
サジが大きな館から現れた一際体格のいい男を示して教えた。その男もまた仮面を被り、毛皮で覆われている。サジが主の許へ行き、二人は何か会話をしていた。
王女を囲んでいた人垣には、仮面を持たぬ者もいた。アンは不安に押しつぶされそうになりながらも見渡して彼らの顔を観察した。肌は一様に浅黒く、身体はひどく強そうに見えた。表情は真面目で、おどけた様子も歓迎する様子もない。
ひとつ頷いたガルバラが館の中へ去る。
「あの、御挨拶は」
サジに案内されてアンは小さな家へと案内される。
「あなたの世話はガルバラ様の奥様であるドローリア様に委ねられました」
「お…奥様!?」
「ええ、既にガルバラ様には後継もいらっしゃいます。奥様方は三人。ドローリア様は次期首長のご母堂、第一夫人です」
「…わ、わかりました」
「明日面会をします。さぁ、お疲れでしょう。湯の用意をさせていますので、お使いください。後でドローリア様の所から小間使いが来ます。何か必要があればその者に。では」
それだけ言って、家の中には誰も居なくなった。
小間使いは来なかった。
暖炉の前でうずくまり、耳と手指の間隔が戻るまで焚火を見つめた。持て余す程の熱い湯を使い、着替えも無いので脱いだ服をまた着た。いつでもどこでも眠れる。アンネリーゼはベッドの端で丸くなって目を閉じた。
翌日、ドローリアの許へ連れて行かれ、王女は下女になることを伝えられた。
「アンタを夫や子の目には触れさせたくない。館から離れた場所で働いてもらう。ちょうど働き手が足りていないグループがあるから、そこに行きな」
ドローリアは体力も知恵も無さそうな、夫からも既に見放されたと思しき憐れな女を見下ろした。
「下女? 下女は…初めてです。私は何をすれば」
「新入りは皆掃除と洗濯から始めるんだよ」
馬に乗って運ばれた先で、早速、雑巾と箒を渡されて、村の公共施設を掃除して回る下女のグループに入れられた。そんなヒラヒラした服で掃除なんかできるかい!と言われて年嵩の女から軽い、だけど綿入りでとても暖かい作業着をもらった。『太ってるから息子のお古』だと言われ、皆に笑われたけれど、ドレスより遥かに温かかった。
「とても温かいです!ありがとうございます!!」
喜ぶアンに面食らっていた女だったが、その後も丁寧に掃除の仕方を教えてくれた。
アンはあまり要領が良い方ではなかったが、他にすることも無かったので丁寧に仕事をした。仕上がりは遅かったけれど、最後は綺麗に出来た。グループの人間は納得して、妙なのがやってきたが、使えないわけじゃないと喜んでくれた。
その夜から、金目のものを差し引いたアンの僅かな荷物が長屋の小さな一室に放り込まれた。元王女は小さくなって、鉢の中に熾るほのかな火を見つめながら眠りについた。
****
今夜も小箱を開き、グレーのハンカチを眺める。
白く可愛らしい猫が刺繍された横には、『アン』の銀糸文字。
「ご本人に猫の名を教えたのか!この馬鹿が」
グーで殴られた思い出と共にハンカチの文字を見つめ、その日も首を傾げる動作を繰り返す。
言ってない。何度考えても絶対に本人には言っていなかった。不敬すぎて言える訳がない。
謎はもう一つあった。貝のパスタをレシピノートに書き終わった夜に見た、生々しい夢。
寝坊をしたので朝には気が付かなかったが、その夜帰宅したベッドをふと見て目が点になった。長い亜麻色の髪の毛と、シーツに付いた微かな赤色。
汗が出た。
いや、だけどまさか現実の筈は無い。夢の後も王女は変わりなく厨房に遊びに来ていた。
あの夢のせいでいつも通り罪悪感が半端なく、愛想のひとつも出来なかったけれど。
ハンカチの猫をそっと撫でる。自分は疲れているのかもしれない。
アンネリーゼが出立し、三か月が過ぎた。
日々は同じように流れ、精彩を欠いた一日が始まって終わる。今日の自分は誰の為に調理をして、誰が喜んで食べてくれているのか。無理矢理国王や王妃の顔を思い描いたり、実際にラウンジに赴いて会話をしたりもするのだが、如何せん、王族達も喪失感が深く、娘が愛していたシェフの味を食べることも見ることも苦痛かのような有様だった。末娘のパトリシアに至ってはブルーノを見れば泣き出す始末である。
城にはぽっかりと大きな穴が開いていた。
新メニューも空っぽで、近頃は助手たちが案を練ってきてくれる。皆が自分を気遣ってくれていた。
王城での自分は潮時なのかもしれない。
ブルーノは一枚の雪に埋もれた街の絵葉書を眺める。
北へ行ってみようか。
ほんの少しでも、彼女を身近に感じることが出来るかもしれない。
ブルーノは立ち上がり、向かいの師匠の部屋の扉を叩いた。
****
「はい、アンの昼だよ」
「ありがとうございます、タタギ」
グループの皆で円になり、年長のタタギという女性から葉に包まれた粽を二つ手渡される。丁寧に開けるとむわっと漂う匂いがした。少しだけ顔を顰める。
「やっぱりダメ?」
横から同じ下女仲間のクーニャンが尋ねてくる。
「ん~…とりあえず、ひとつは頑張る。クーニャンもう一つ食べない?」
「えっ、良いの?」
「うん。二つは無理そう」
ウルギの食事は、そのほとんどに気になる匂いがあった。いつも気持ち悪さと戦いながら飲み込む。さながら修行のようである。
保存が命に繋がる土地柄なので、食材にひと手間もふた手間もかけるのだ。独特の匂いがあるのかもしれない。だが食べなければ、日々身体を使っているので目が回ってしまう。実際に最初の頃は倒れてしまった。
ちびちびと飲み込み、お茶で一息を繰り返し、輪になった七人でいつも通りお喋りを楽しむ。
「食事は置いといて、アンもすっかり慣れたね。今日はもう掃き掃除終わってくれたんだろ?」
「はい、終わりました。もうそろそろ三か月ですね。楽しいグループに入れて頂けたからよかったです!」
ニコニコとそう言う元王女に、仲間達は困ったように笑った。
どうやらこの毛色の違う元お姫様は、首長の嫁として来たのだ。だがどういう訳か翌日には下女になり、一緒に働いている。特に文句を言う訳でも無く、掃除は丁寧だったし、洗濯も寒い中でもニコニコしながら踏んで洗った。見かけを裏切って食い扶持もかからず、お買い得だったね、と年長者などは得した気分になっている。
「良かったんなら良いけどさぁ…あんた、本当にそれで悔しくないの?」
クーニャンが眉を寄せて言う。
「またその話?クーニャン好きねぇ」
「だって王女様だったんだろ?それをあんな女に下女にされるなんてさ」
「こらこら、およしよ、クーニャン」
「皆だって思ってるだろ?あんな気性の荒い夫人より、アンが妻の方がよっぽど癒される」
むちゃむちゃと粽を食べながら、周囲に誰も居ないのを確認しながら若いクーニャンは言う。
「そんなことないわよ、クーニャン。あなたの大好きなこの粽だって、ドローリア様が備蓄の管理をされているから食べられるのよ」
「そうなの?」
「いっつも蔵に出入りされているじゃないの。帳簿を持った男の人とか、他の部族の人。男の人達はご機嫌を取ってる感じがするし、ドローリア様はとても上手に買う側に回っていらっしゃる。私じゃそんな風にはきっとできないもの」
「確かにアンじゃあ、高く買わされ続けてお金が無くなりそうだね」
「さすがタタギさん、それです」
「目に浮かぶよ」
ウルギの民は、一度懐に入ってしまえばとことん温かかった。最初は敬遠されていたアンも、グループで直ぐに馴染むと知らない人たちからもよく話しかけられるようになった。
「そう言えば、この間うちの子がアンに難しい計算方法を教えて貰ったって。あんた、すごいんだね」
「別にすごくないわ。ちょっと知ったら誰でも出来るのよ。ウルギは学校が無いから知る機会がないだけで」
「面白かったから、また教えて欲しいんだって。いい?」
「本当に? じゃあ、夕食後に食堂でどうかロサに聞いてみて?」
「え~!じゃあじゃあ、ウチの娘も良い?計算ができるとさ、下女より良い役割もらえたりするんだよ」
「そうなの?それは知っておけば得だわ。マライアちゃんも来れたら一緒にしましょうよ」
雪解けを迎えたウルギの村で、少しずつ居場所が広がった。
村内でエリアごとにある食堂は、共同作業を終えた人々が食事をする為だけにある。
だけど下女仲間の子どもロサの希望で始まったアンの勉強会はやがて人を呼び、子供達だけじゃなく大人も参加するようになった。下女は先生とも呼ばれるようになった。
時折サジが食堂に顔を出し、子ども達と楽しそうにしているアンを眺めた。ドローリアは気に入らない顔をしていたが、ウルギにとって利になると判断し、下の町から黒板を買ってきてくれた。昼間は下女、夜は先生の生活は忙しい。淋しさを忘れさせるにはちょうど良かった。
とってもぽっちゃりしていた体型は、数か月で二回りほど小さくなった。だんだんと匂いも慣れて来たようで、気にせずに食べることが出来るようになったが、小さくなった胃は相変わらず少量しか受け付けない。
ある晩、食事をしているとサジが夕食を持って隣に座った。アンのトレイに置かれた量を見て開口一番に言う。
「食事はそれだけですか?あなたは来た頃より随分小さくなられましたね」
「サジ様、お久しぶりですね」
「食欲がありませんか。まだ匂いが?」
「いいえ、もうそれは…よくご存じですね。必要な分は食べていますよ。ほら、見てください。筋肉が付いて以前より身体が軽くなりました。猫みたいに」
「猫ですか」
「ええ、猫です」
「ガルバラ様が、随分痩せられたと気にされています。何か不調は?」
会話ひとつしたことの無い首長が自分を気にしているのは滑稽に思える。
「ふふふ、前が病気だったようなものですから…もう、あの頃のように食べる必要がないのです」
目の前には肌の色、髪の色、瞳の色が違う仲間達が楽しそうに食事をしている。今日あったことをおしえたり、笑ったり、子どもに食べさせたり。城にいた毎日とは全然違う光景だ。なんだかもう、違い過ぎて随分前のことみたいだった。
食べていれば、不安も怖さも悲しみも、色んなことを忘れられた。
だけどもう、忘れたいこともない。
「あなた方は、不思議な人だ」
「がた?」
首を傾げたアンに、サジはほほ笑む。
「アン先生は評判ですね。聞けば異国の歴史や言葉まで教えて下さると」
「一通りの教育を受けただけで、評判になる程のものではありません」
「…はぁ…本当に惜しいな」
「なにがですか」
「いえ。来週、買い付けの団が帰ってきます。クリームを回しましょう。手荒れが酷い。何か欲しいものはありますか?」
「ありがとうございます…あの」
「はい?」
「私がこちらに来た時の荷物の中に、同じノートが五冊あったと思うのです。中を見て頂ければわかりますが、絵とあちらの言葉で書かれているレシピノートです。それを手元に置くことを許していただけますか?」
「ノートですか…わかりました。探してみましょう」
春を越え、山には緑が溢れるようになる。
真っ白だった景色は寒さと淋しさだけを印象に残したが、今、小さな部屋から見える窓からの景色は力強くて暖かい。
ブルーノはどうしているかしら。
近頃、やっと落ち着いた気持ちで愛しい男を思い出すようになった。出立の前後は全然ダメだった。あの夜は強烈で、いつまでも鮮やかで。知ってしまった肌が恋しくて堪らず、一人になっては泣いた。輿入れの馬車の中でも夜のことばかりを繰り返し、まさか下女にされるなど思いもしないアンは名も知らぬ夫を恨んだ。
恨みがバレて、罰が当たった。
それか、処女じゃないってバレたのかも。
そう思えば今の生活も逆に気が晴れた。ガルバラがどう思って妻にしなかったのかはわからないが、そもそも領主の妻になどなりたくもなかったのだ。
知らない男に身体を上書きされることなく、このままブルーノだけで死にたい。最近はそう思う。
食事をする理由がないのは、酷く楽だった。他人事の様に力強い緑を瞳に映しながら、アンはウトウトと船を漕ぐ。
いつでもどこでも眠れるのだが、最近特に眠気が酷い…
****
初めに気が付いたのはタタギだった。
六月になり、アンネリーゼはまた痩せて小さくなっていたが、腹だけがポッコリと膨れている。
昼の休憩時、下女のグループはワイワイとアンを囲んで森を抜け川べりに集まった。
「アン」
「はぁい」
「あんた、月のものは最近いつ来た?」
「まぁタタギ、急に何の話?」
「良いから」
皆がじーっとアンを取り囲んで、真剣に尋ねる。
「ええ…え~っと…あ~。あれ、そういえば、こちらに来てからまだ来ていないかも? えっ、大変、私、病気!?」
うっかりしていた。
毎日目まぐるしすぎて月経そのものの存在を忘れていた。
「いや、違うだろ」
「ガルバラ様のお子なの?」
「え?」
「だけどアンはガルバラ様とお話もしたことないんだろ?」
「じゃあ誰の子なの?」
丸くなったライラックの瞳を下女たちが覗き込む。
逆にアンは、いつまでもひっこまない自分の腹を見た。
「え」
「その腹はそうじゃなかったらおかしい」
「そうだよ。腹に水が溜まる病気もあるけど、アレが来てないなら」
「え」
フラッと身体の力が抜けるアンをクーニャンが慌てて支える。
「だめだよ!転んだり打ったりしたら危ないんだよ!」
かさついた白い指が口元を覆い、見開かれたライラックが宙を見るが、ゆっくりと瞳が潤みだす。
皆びっくりしてアンを見た。顔を覆って泣き始めたのだ。
アンが、泣いている!!
「えっ、いや!!ちょっと、ごめん!!ごめんよ、アン!不躾だったね!こんなこと皆がいる場所で聞くことじゃなかった!」
タタギが焦る。
「そうだよ、タタギ!アンはまだ若い女の子なんだよ」
「でもあんただってさっき聞いたじゃないか!クーニャンだって心配したし」
「ごめんね、ごめんね、アン!」
なぜかクーニャンまで半泣きでアンに身体を寄せてくる。
「…ちがうの」
「え?」
小さなアンの声にみんなしゃがみ込んで輪になって囲った。
覆った手を離して、涙でぐちゃぐちゃの顔を上げたアンは首を振って、泣きながら笑った。
「ブルーノの子よ」
そのまま嬉しそうに声を上げ肩を揺らす。
「信じられない!頼んだのは猫なのに!」
大きな魔女と四つん這いで歩いていた王女、撫でられた背中の毛、突然夜中に強く抱きしめてきた、あの惚れ惚れするほどかっこいい腕。
「だ…大丈夫かい?アン」
「気が狂っちゃったんじゃないの?」
「ビックリし過ぎたのよ」
「ははは。ふふふ…うれしいの」
「え?」
「うれしい…うれしい!」
アンは泣いた。
後から後から涙が溢れた。うれしいと繰り返しながら、もらい泣きしたり困り顔の仲間に見守られながら、ウルギに来て初めてアンネリーゼは心のまま泣いた。
「だけど」
「ガルバラ様の子じゃないんだろ」
「やばいね」
下女達は顔を寄せ合って囁く。
「村の男じゃないんだよね?」
「ブルーノなんて粋な名の男はいないよ。チャブルはいるけど」
「村の男だったとしてもだよ」
「孕み女が嫁に来るなんて普通有り得ないだろさ。このままじゃアンは」
殺されるんじゃないのか?
「……………」
女達は睨みあうように、策を考え始めた。
二週間が経ち、初夏をむかえた朝、公共施設を掃除するグループは近くを流れる川の掃除当番にあたっていた。掃除と言っても綺麗なもので、溜まった落ち葉や木の枝を回収する当番である。
グループは全部で三つ、皆同じエリアのグループで構成された人々二十名が川沿いに集う。
皆が掃除を始めようとしないので、アンは不思議そうに見渡した。クーニャンとタタギが近づいて来る。
「身体の調子はどう?」
「今日も元気…すっごく!」
アンネリーゼは元王女だ。妊娠期の注意事項など世話人が知るだけの身分にあったので、誰も彼女に詳細事項を教えていない。それ故これからについての想像力は完全に欠如していた。
「あのね、アン」
「なぁに」
「皆で考えたんだ。どう考えても、このままウルギにいたら無事じゃ済まない。ここに来る前に作った子でしょ?馬鹿にされたって、ドローリア様もガルバラ様だってきっと怒る」
「その…こっそり産むっていうのは、できない?少し迷惑をかけるかもしれないけど」
「無理だよ。臨月になればもっと腹が大きくなって、サジ様も気が付く。すぐに産み月が来て、産後は休まなきゃ…それに赤ちゃんのだって世話がある」
アンは俯いた。子どもは嬉しかったが、想像していなかった世界だった。
だから、とクーニャンが小さな鞄をアンに押し付ける。
「アンとは、ここでお別れ」
「え?」
「子ども達が領内の端まで案内する。そっから下って行けば、カリヨンの北の街に降りる」
アンは目を見開いた。
「ここを出ろって?」
「アン、殺されてもいいの?約定がなくなっても?王女から下女になってまで我慢したのに!」
ハッとした。自分の行いのせいで約定が反故にされたら。
「我慢なんかしていないわ…だけど私の輿入れが無かったことになったら、次は妹が」
「逃げなさい、アン」
「タタギ」
「皆で口裏を合わせる。アンは掃除に夢中になって足を滑らせて流された。そういう事にするから。だから、心配しなくていい。誰も追わない。帰りなさい」
いつの間にか、アンを全員が取り囲んでいた。
それは毎晩食事や勉強会を共にしてきた仲間だった。皆が頷いて、真摯な目でタタギの言葉に同意をしている。もう彼らのことはすっかりわかっていた。こんな時にひとりだけポツリと裏切るような人間は、ウルギにはいない。義理堅く、温かい人ばかりだったのだから。
「さぁ、行こう!先生」
「私、荷物を持つよ」
「僕が持つよ!」
「さぁさぁ、大人たちは掃除だよ!」
皆がアンに手を振り、散り散りになっていく。
クーニャンとタタギがアンを押し出した。ロサが先生、と手を引き始める。
「ありがとう、本当に沢山…私、一生皆との時間を忘れません!」
全員が無言で見送ってくれた。大きな声は出せない。アンは泣きながら何度も手を振って、子供達と川沿いを下って行った。
小さくなっていく亜麻色の頭を目で追いかけながら、サジはこれみよがしに溜息を吐いた。
「本当に良いのですか?」
「お前もしつこい奴だな」
「賢く朗らかで、真面目で可愛らしい…あんな女性は他にいませんよ」
「皆まで言うな、殺されるぞ。ほら、朗らかじゃないドローリアが下の繁みから嬉しそうに見てる。聞こえたらどうする」
「聞こえる訳が無いでしょう。こちらに気が付いてもいませんよ。全くもう」
「お祖母様との約束なんだ。王女はこれで良い」
「またマーガレット様ですか」
ガルバラはライラックの瞳を細めて笑う。
「だが、まさか身籠ってたとはな。約定の廃止を待たずして逃げられた」
「あんなに可愛らしいんですから、孕ませる男がいても無理もありません」
「随分と買うじゃないか。狙ってたな?」
「長老会を説得できなければ、廃止も伸びます。それでもガルバラ様が放置し続けるなら、とは考えていましたよ」
「ははは。本当か」
サジは敬愛するライラックに見惚れてほほ笑む。
二人は馬を回して館へと帰って行った。
****
ブルーノがカリヨンの最北領に来てから三年が過ぎた。
北には北方民族の住む山があり、冬には山脈とぶつかる南側の海風が雪を降らせた。よくドカ雪に見舞われるこの土地は広大だが、貧しい人も多い。
約二十年身を置いた王城を離れ、どこかの高位貴族に雇われるのは簡単だったが、人の集まる所を転々として食事の指導をし続けた。遣い道のなかった蓄えがあったので、無償だ。孤児院での乳幼児期の食事や成長期の工夫に始まり、療養施設の介護食、貧困層が集まる学校、炊き出し、病院…
その内、評判を聞きつけた役所から仕事が振られるようになった。食事を作ることは少なかったが、長年たった一人の為に続けた様々な調理の勉強が役に立った。
その晩も暖炉の側で猫のアンを膝に乗せ、ノートに新たな文章を書き始める。
どうしてか、誰かの為に料理をしなくなってからレシピが思い浮かぶようになった。ノートに書き溜めているだけで、一度も作ったことのないレシピは百を超える。王女に食べさせたらどんな顔でどんな感想を言うのか。たまにノートを捲りながら妄想にふけるのが、ここ最近の彼の娯楽である。
昨日から降り始めた雪は一向に止む様子はない。
また大雪になるらしい。役所から出されている大雪待機令が解除されるまでは市民は皆自宅で待機せざるを得ない。立ち上がり窓の向こう、暗闇と雪以外には何も見えないが、山脈が広がる方向を見つめる。ウルギでの生活はどんなものなのだろう。雪には慣れたのだろうか。温かい食事は摂れているのだろうか。
「よく冷えるな」
にゃあん、と都合よくアンの声が聞こえて、ふふ、と振り返ったブルーノは息を止めた。
暖炉の前には、アンを腕に抱いた美しい女が立っていた。痩せたスタイルに真っ黒で胸元が際どく開いた服を着て、尋常ではない妖艶さで佇んでいる。
「突然すまないね、ブルーノ」
「え」
「私は魔女で、エレノアと言う。先日の会合で数年前に弟子がしでかした失敗が発覚してな。その後始末を付けにきた」
ぱちんと魔女が指を鳴らすと、次は縛られ吊られた巨大で丸い女が現れた。
「ぴえん!!」
「ミュシャ、まずは謝罪しな」
「え~っとぉ…私は、お願いされて、アンネリーゼとその猫ちゃんを一晩交換しまして」
「王女と、猫を交換…」
突飛な話が始まったが、予想外の王女の名に男は殴られたような衝撃で耳を貸す。
「早くしな!大事なのはそこじゃないだろうっ!!」
鞭がしなり、ぎゃ~!と丸い方が悲鳴をあげる。
「お師匠様、鞭はいやっ!!えっと、えっとそれで、一晩って言って私が王女の姿をした猫ちゃんの相手をしていた訳なんだけど、ついついふっかふかでぬくぬくの高級ベッドで寝ちゃったの。だって仕方ないじゃない?お師匠様のベッド、かちんこちんなんだもん…あっ、ちょ、ぎゃ~!」
「ブルーノ」
振り上げた鞭を降ろしたエレノアがブルーノを見る。
「え」
「いつまで経っても出来の悪い見習いでな。寝入ると魔法が解ける癖がある」
魔法が解ける…ブルーノは段々と話の筋を理解し始めた。
「察してくれたか?お前があの晩抱いた女は妄想ではなく、生身のアンネリーゼ王女だったというわけだ」
「!!!!!」
何かが背中を駆け抜けていった。ブルーノは声も出ない。
「あ…え…」
「見習いレベルが司る恋の魔女には掟があってな。人の生死にはかかわってはならない。だのに、今回失敗して、偶発的とは言え関わってしまった。しかも火種だ、始末が悪い」
「まさか!!王女は殺されたのか!?」
男があげた悲鳴めいた声に、エレノアは優しく笑った。
「逆だ。さぁ、私は愛の魔女。欲も恨みも生死も司る本物の魔女だ。今回は特別に、お前の願いを叶えよう。魔女が呼べるのは人生で一度きり。王女に代わってお前が願うといい」
「俺が?」
「お前が」
「何を?」
「何でも」
「お師匠様にお願いしたら何でも叶うよ。星だって滅びる」
「星!?…いや、でも待ってくれ。状況がわからない。何を願えばいい。王女は既に嫁いだ。俺が願えることなんて」
「王女はあの晩、お前の子を身籠った」
「…………」
ブルーノは膝の力が抜けて座り込んだ。
「…本当に?」
「わざわざ嘘を言いに此処へ来たと?さぁ、考えろ。全てを無に帰することもできるし、王女が北の地で幸せに暮らすようにも導いてやれる。魔法の原動力は願いだ。お前が持つ王女への愛で真実願うことを言ってみろ」
真実願うこと
ブルーノは黙った。
もうずっと、ずっと願っていること。
そんなことはたった一つしかない。
「…アンネリーゼに、もう一度俺の料理を食べて欲しい」
「バッカじゃないの~!?」
ミュシャの言葉に再び鞭が飛び、悲鳴が上がる。エレノアは妖艶な笑顔で頷いた。
「承った」
必ず、と言い残して二人の女が掻き消えていく。
ブルーノは何度も目を瞬かせて、猫のアンと見つめ合った。
****
四日に渡る豪雪は、街を外から閉じ込めた。
「ママァ」
「寒いねぇ、おいでルカ」
古びたアパートは底冷えがして、火鉢ではなかなか上手く温まらない。アンは小さな息子のルカと毛布に包まる。
「おなか、すいたー!」
「う~ん。もう何にもないなぁ」
「ないねぇ」
狂ったように降り続いた雪で託児所も閉室、勤め先の市場も休みだった。雪がおさまって来たようなので、恐らく「大雪待機令」解除の鐘が鳴り始める頃だろう。
「きっともうそろそろ外に出られるわ。お店も開くし、何か買いに行けるね」
「ぱん、ある?」
「パンが食べたいの?」
「ぱん!あま~い」
「んふふ、甘いパンね」
真っ黒の髪はさらさらで、瞳はライラック。二人が綺麗に混じり合った子どもは、くっついた母親に甘える。
ウルギを出て、半日かけて下山した。心配した子供達がかなりの距離を一緒に降りてくれ、迷わず済んだ。ふらふらとカリヨン最北の街に辿り着き、地べたに座り込んで休憩していた所、妊婦が倒れていると通報されて、慌ててやってきた役所の人間に病院まで運ばれた。
そこから根掘り葉掘り尋ねられたが、アンネリーゼには何一つ話せることが無かった。無一文で僅かな荷物。鞄の中には水と食料、手拭いと手書きのレシピノート。その様子を見て、記憶喪失の人間だと勘違いされた。これがかつてのふくよかなアン王女であれば気が付く役人もいただろうが、肉はすっかり剥がれ落ち、全く別人と言っても過言ではない。身なりに反して高位貴族に多いライラックの瞳を忖度した人々は深追いをしなかった。
人口の少ない街で、とにかく妊婦は歓迎された。出産を終えるまで病院と役所がサポートをしてくれて、そういう施政をした父に感謝した。城を出る前も出た後も、色んな人に助けられた。何度見知らぬ人に礼を言っただろう。
好きな名前を決めてもいいと言われたので、『アン』にした。アンネリーゼ王女は下女になり、最後はただのアンになった。施しを受けながら内職をして働き、食べて、お腹の子を育てた。産後、ルカはすくすくと育ち、アンは役所から紹介してもらった市場で魚を選り分けたり箱に詰めたりしながら生きていく為の金を稼いだ。
カーン…カーン…カーン…
「あ、かねなった!」
「じゃあ、もう少ししたら、パン屋さんに行きましょうか」
カーン…カーン…カーン…
鐘の音を聞きながら、ブルーノは大きなベーコンの塊を横目に、トマトの缶詰を箱から出す。
「これ、どこに置く?」
「ああ、葉物はあっちにかためて置いてる。玉葱はまだあったかな?」
運ばれてくる野菜を次々に切り刻み、煮込んでいる鍋の前から呼ばれては味見をして調整し、久しぶりの顔を見つけて挨拶をしたり、寄ってくる子供達に料理の説明をしたりと忙しい。
役所の前には鐘の音を聞いて、家から出て来た人が増えて来た。
四日に渡る雪で、一歩も外に出られなかった。豪雪は年に数回あるので珍しくもないが、食べるものがなくなった家も多いだろう。だが店も直ぐには開けられない。鐘に先んじて役所から頼まれ、ブルーノが指揮を執って、有志と炊き出しを振舞う準備だ。三度目の冬は慣れたものである。あっという間に役所前の広場でセッティングされる調理器具と食材で腕を揮い始めながら、レシピを組み立てていく。
「もう少し水を足そう。火力は最大で」
「持ってきます!」
「こっちも剝いといてくれるか、箱の中を全部」
「了解!持って行こうぜ」
白い息を吐き、みんな楽しそうな顔で調理を買って出る。ブルーノと同じアパートメントに住む家族や、見知った老人達が手を取り合って炊き出し用のテントスペースへと近寄って来た。
「また炊き出しするんだって?」
「ええ」
「ブルーノの炊き出しは旨すぎる。早く食べたいな」
わらわらと子供達も寄ってくる。
「ねぇ、僕たちも食べられるの?」
「もちろん、誰が食べてもいい」
「鍋はスープ?どんな味?」
「三種類あるから、好きなスープを選んで」
「コラコラ、ブルーノ先生は忙しいんだから、君達あっちで待ってなさい」
「三種類あるんだって~!!」
叫んで走っていく子供達と交代に、箱いっぱいのパン、総菜、下準備した肉など、次々と飲食店のオーナーが色んなものを抱えてくる。
「ブルーノ、混ぜてくれよ。仕込んできた」
「そりゃあ良い。炭火がある、ここで焼こうか。おーい、そろそろパンのスペースを作ろう!」
「毎回だけど、お祭りみたいになってくるね」
イベントを楽しむように準備は続き、段々と器によそった料理が人々の手に渡り始める。
「温かい!」
「うま~い」
器のスープや焼けた肉の串、嬉しそうな顔で食べる人々。
ブルーノは皆の笑顔を見ながら、ミネストローネスープの前でレードルを持ち、差し出される器によそって返す。
「ありがとう」
「熱いから、気を付けて」
ルカと手を繋ぎ、家から数十メートル先の雪に埋もれたパン屋の中を覗き込んだ。
「パン屋さん、まだ開いていないみたい」
「ぱん!んなーい?!」
「困ったね。ハム屋さんもお休みだったし…グロッサリーももちろん開いていないし…どこかお店は開いていないのかしら」
二人で顔を見合わせていると、店の奥から奥さんが現れ、ルカと嬉しそうにハグをする。
「おばさま、大変な雪でしたね」
「本当よ、全く! あ~、ルカちゃん、パン買いに来てくれたのかい?」
「あまいの」
「ごめんねぇ。パンは焼いたんだけど、おじさんが全部持って行ってしまったの。アン、役所の前の広場はわかる?」
「ええ、わかります」
「ここら辺では、大雪が続いた後は役所がそこで炊き出しをするのよ。皆食べ物が空になったりするからね。ウチみたいな店はそこへ食べ物持って行くんだよ。去年はまだルカちゃんが小さかったから、行ったことないかな」
「炊き出しは、病院の近くに住んでいた頃はそっちで何度かお世話になりました」
「同じようなものよ。でも今日の炊き出しはきっと抜群に美味しいから、私も行こうと思って。一緒に行く?器を持ってくるよ」
「うれしい!行きます!」
「いく~!」
ルカを真ん中に三人で手を繋ぎ、なるべく人が通った後の道を『歩きにくい』と笑いながら進む。あちらこちらの家から人々が同じように出て来ていて、役所の近くに着く頃には、雪が踏みつぶされて道も大分歩きやすくなった。広場には大勢の人が溢れて、良い匂いが立ち込めている。いくらか人の熱気で温かいような気もした。
「うわぁ、良い匂い!」
アンは、なんだかとてもうれしい気持ちになるその香りを吸い込む。
なんか、すごく、おいしそぉ…
「ぱーん」
「あ!パンよね。おばさま、御主人のパンはどこかしら」
「どこかな~。多分ウチの店以外にも大体そこいらのパン屋がみんな持ってくるから。パンのコーナーが出来てるはず」
キョロキョロとテントを覗き、奥さんがパンのコーナーを見つけて並び、ルカが満足気にパンを齧る。
「スープにパンに、お肉と、総菜とか粥もあるって。スープが特に美味しいらしいよ。三種類あるって。コンソメかミネストローネかチャウダーか」
「コンソメかミネストローネかチャウダー…」
ルカがよく食べるのはコンソメかもしれないけれど。
けれど、すごく懐かしい気持ちにさせる香りがミネストローネの列へとアンを誘う。
「私はチャウダーにしようかな。あ、これ器ね。二人分。どれにする?」
「ありがとうございます! ミネストローネの列に並んできます」
「了解、じゃあ、えーっと、あっちだね」
湯気の立ち昇る赤いスープを持って歩いていく人達とすれ違い、二人は最後尾に立った。
「美味しそうね、ルカ」
「いいにおい!」
「本当に。ママもすっごくお腹空いて来ちゃった」
「ぺこぺこ?」
「うん、ぺこぺこ!」
大事そうにパンを持つ息子の黒髪を撫でる。
愛しい男が注ぐ、大大大好きなスープまで、あともう少し。
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いかがでしたでしょうか。
見習い魔女のミュシャは色んな世界の女の子にお菓子をねだって恋の願いを叶える魔女です。
ではでは、また機会があればよろしくお願いします。