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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

風葬丘

作者: カワハラ モクモト

 






 わたしたちは、その日もいつも通り登校しました。

 昨日。休日の朝、級友の葬儀を済ませたというのに、わたしたちの心は穏やかでした。

 それは、あの年頃に特有の、ニヒリズムというか、浪漫的な自己逃避というか。

 泣いた者も、憤った者も、みんなあの朝には静かに教室に入り、席に座り、授業を受け、一日を過ごしました。

 みんなの決議で、空席になってしまった席はそのまま、年度の終わりまで残されました。そこを埋める者はいませんでした。まだあのころは、若者の数はそれほど増えていなかったのです。


 誰もが、死んだ彼女のことを覚えていました。

 でもやがて、少しずつそれは薄くなり、時折思い出す位になり。

 わたしも、いま話し出して、だんだんと思いだしているのです。

 でも彼は?

 いつも彼女と一緒だった彼は、いまどうしているのでしょう。


 忘却は死です。

 それでいうなら、あの級友の死は、とても緩慢で。


 忘却が死というなら、わたしたちが覚えているかぎり、級友は生きているのと同じなのでしょうか。

 わたしが死ねば、その記憶は、わたしの死に取りこまれ。

 ではそれは永遠なのでしょうか。

 死は永遠になにかを閉じ込める檻になるというのなら……。




 ここで面会は中断された。

 以後、彼女への取材は医療上の配慮により

 許可されていない。






 1                               



 秋の休日に、僕は二階の自室で目を覚ました。

 時計を見ると、まだ朝の六時だった。

 ほとんど眠れていなかった。それでも頭は冴えていた。



 枕元の『動画受像機(政府の口)』のスイッチをいれ、政府広報に回線を合わせる。番号は「指定1」。これは全国民共通だ。

 ブゥンと、回路が温まる震動音がしばらく続いたあと、国旗が青い空にたなびく映像が映った。ざらついた音で流れる国歌斉唱のあと、ようやく政府広報が始まる。


 国際問題はあいかわらず。

 国内では戦後の復興が順調に続いている。

 等々。


 僕は寝台の隅に座り、レンズのように丸みを帯びた画面を眺めた。全国民に視聴が奨励されているし、僕の「特殊な立場」上、見た方がいいのだが、いつもは着替えをしたり、登校の準備をしたりしながらの流し見が多い。

 でも今日は事情が違う。

 プログラムは進み、最後に天候予報となった。

 今日の僕には、国家指導者の方針表明より、天候予報の方が何百倍も重要だった。

 ほかのみんなも、そうだったろう。

 朝の地域予報は、なんと晴れだった。この辺は海上の気流の関係で、朝に晴れることはまずないのに。

 明け方に空を覆うはずの雲が、夜中のうちに北東に流れていってしまったのだという。

 風向きは例年通り。

 理想的だ。

 こんなに「晴れた朝」は、ここ数年で初めてだと、国営放送の気象予報士が弾んだ声で告げた。

 《我々が与えた甚大な影響から自然が回復するのも、遠くないのかもしれません》

 予報士の楽観論を横で聞いていた『政府広報担当主文読士(アナウンサー)』も、いつもの無表情を少しゆるめていた。

 僕は制服に袖を通した。今頃は他の連中も同じように制服を着ているはずだった。



 肩掛けのついた鞄を取り、部屋から階下に降りた。

 廊下にある電話の受話器をとり、ダイヤルを回す。

 呼び出し音の後で、萱崎さんの声が聞こえた。


「はい」

「僕です」

「どう?」

「予定通りでおねがいします」

「わかった。みんなにも、そう伝えるね」

「お願いします」


 萱崎さんは電話を切った。

 全て予定通りだ。


 洗面所で顔を洗い、食堂の卓についた。

 いつもどおりに。

 台所から佳奈さんが料理を作る音が聞こえてくる。


 朝食はいつもより多めに用意してもらった。今日はすこし体を動かすからだ。

 ご飯にたまご焼き、漬物と味噌汁の朝食に、今日は焼き鮭が一枚ついてきた。

 佳奈さんは僕にご飯と味噌汁をよそうと、また台所へ入っていった。

 僕は黙々と食べ、おかわりを自分でよそい、また食べた。


「ごちそうさまでした」


 食べ終わると、誰もいない食堂で、誰も座っていない周りの椅子に向かって言った。

 立ち上がって、皿を台所に持っていく。

 台所には、朝の青白い光が流しの上のガラスの格子窓から射しこんでいた。

 部屋の真ん中に置かれた木の作業台の上で、佳奈さんが弁当を包んでくれていた。

 清潔な手巾でキュッと包まれた弁当箱が二つ。

 青い手巾は僕用だ。朱の地に白く小さな花が散っているのがサチの分。

 僕は、二人分の弁当を受け取り、鞄に入れた。


「いってらっしゃい」


 佳奈さんは少し笑って言った。

 いつもやさしい目元に、皺が増えていた。今日初めて、それに気付いた。

 僕は、いってきます、と言った。

 少し声が詰まった。

 いつもと同じには言えなかった。



 政府から支給された靴をはいて表に出る。

 家の横の車庫に行き、自転車の鍵を外す。

 自動車はまだ支給されてない。免許が取れる年齢になったら支給されるだろう。

 地味で人目を引かない形式の自動車が。

 ……それまで生きていたら。

 僕は「政府が支給してくれた」地味な自転車にまたがり、ペダルを踏んだ。少しずつ速度をあげて、人通りの少ない朝の道を走った。



 道は坂が多い。下りと上りを何度もくりかえした。

 三十分ほど走った。目の前に長い上り坂があらわれた。

 ひとりのおばあさんが、手に荷物を持ってゆっくりゆっくり上がっていく。

 僕は自転車の電動補助の釦を押した。耳障りな電動機(モーター)音がして、ペダルが軽くなる。

 苦労して上るおばあさんの横を、僕は自転車で追い越した。おばあさんが恨めしそうな声を上げるのを聞いた。

 いやな気分になった。

 僕は電動補助を切り、自分の力で自転車を押して、坂を上った。



 僕は「旧砲台丘」の上に立った。

 自転車で坂道を上がった終着点だ。

 視界は下に大きく開けて、そこに僕「たち」が住んでいた町が広がっていた。

 顔を上げる。

 視界の先に、町を挟んでもうひとつの丘が見える。

 その頂に「第二十四国営葬儀場」がある。

 それは白い外壁に囲まれた装飾過多な建物だ。広報なんかで見ると厳かで大きな建物に思える。でもここから見ると、ほんとうに、とても小さく見えた。

 とても。

 とても小さく。




 2



「あたしの固有症状の型が分かったよ。なんだと思う?変成型の分解性だってさ」


 サチが僕を見上げて、笑いながら言った。

 国有指定学校からの帰り道だった。校舎番号は204。



 サチは僕と同じ十六歳。

 体は小さくて細い。小学生に見える。

 髪は金色に近いくらい色素が薄くなっている。

 同じく肌も。真っ白な肌をしている。

 見上げてくる瞳は淡い栗色。底は金色を含んでいる。

 彼女を見るといつも、このまま透き通って、消えてしまうように思っていた。


「いつ死ぬのさ」


 僕は聞いた。


「あと三カ月くらいだって。山口先生のお見立てだから、まあ間違いないよね。病状が進んで身体が変わり始めたら、みんなみたいに隔離施設に移るよ」

「そうか」


 僕はふわふわの金の髪から目をそらして、言った。


 それは夏の日のこと。

 僕が秋の休日に目を覚ます、百日前のことだった。

 サチはきれいだった。




 僕は「そうか」のあと何を言えばいいか迷った。このままだと電車の駅まで、僕らは何も話さないだろう。

 いままでもそんなことは幾度もあった。幾度も乗り越えたし、いつでも元通りになれた。

 でも、それにかかる時が、いまは怖かった。

 僕は道の途中にある『政府復興支援店舗』に入った。


 店の中には、僕やサチと同じ制服を着た学生や、近所の子供たちの姿が多かった。

 主婦や買い物上手な人は、多少遠くても公設市場や農家の産直売り場で買い物をする。

 二列に分かれた陳列棚には空きが目立つ。それでも僕が小さかったころに比べれば、商品の種類も数も多くなっていた。


「どした?あんたが寄り道。めずらしいね」


 後ろからサチがついてくる。


「うん」


 僕は店の一番奥にある冷凍食品売り場に進んだ。空のケースが並ぶ中、なんとかアイスは残っていた。


「どれがいい」


 僕は、サチにケースを指して聞いた。


「うおっ?おごってくれんの?なんで?」


 おどろいた声でサチが言った。

 失礼な。僕がものすごくケチみたいじゃないか。

 アイスくらいおごる。

 それにこれは、話を逸らしたい自分のためなんだ。



 サチはバニラで僕はイチゴ味を選んだ。終戦後発売の新製品だ。試してみたくなったのだ。

 店を出た。

 僕とサチは、二重になった包装から、アイスを引っ張り出した。

 二重になっているのは、戦中の汚染物質の混入を防ぐ措置の名残だ。戦争が終わっても、まだ空気は汚れていると思っている人も多い。

 サチはこの手の包装を開封するのが下手だ。

 しかし、今回はかろうじて成功したらしい。


「これ見て、これ」


 自慢げに二重包装紙をヒラヒラさせている。


「よかったな」


 そう返したけど、だからって、どんなもんだって顔するなよ、とも言いたい。



 僕たちは、アイスを食べながら歩いた。

 同じ学校の生徒が、どんどん僕たちの横を追いこして駅に向かう。

 それで気付いた。僕たちの足取りは、いつもより、とてもゆっくりになっていた。


「なぁ、イチゴ味うまい?」


 静かにアイスを食べて歩いているのが気まずくなってきたころ、サチが僕を見上げて言った。バニラはもう食べ終わってしまったようだ。


「とてもうまい」

「うまいのかぁ」

「はいはい」


 僕はやわらかなイチゴ色のアイスをサチの前に突き出した。サチはそれをぺろりと舌ですくい、味わった。

 このアイスも、五年くらい前までは気軽に食べることができない贅沢品だった。





 十七年前、戦争があった。

 国は東西二つに割れた。

 二つの大国が、この戦争に介入してきた。一方は、国の中心から東と北を。もう一方は西と南を支援した。

 その介入で、戦争は二年もの間、続いた。


 停戦の一日前。(というのは、民間人は知らなかったのだけれど)

 西の一部隊が、僕やサチの母親が住んでいた「地区」に侵攻した。

 この「地区」は東西の境目だった。まだ「戦線」という概念があった時代だ。

 ただ「地区」は主戦場から外れていた。

 侵攻が始まる前まで、「地区」は不思議なほど平穏だった。戦略的に無価値だったからかもしれない。

 だから、西の部隊が「地区」を攻撃したのは、目標の誤認だったという人さえいる。

 その「地区」の侵攻で、ある兵器が使用された。

 兵器は、「地区」の上空でささやかな規模の爆発をおこした。

 そして人間の遺伝子を急激に劣化、改変させた。


 住人の殆どが、数日のうちに死んだ。


 学校の歴史授業で、この兵器で死んだ人たちの画像を見たことがある。その体は歪み、ふくれ上がり、骨が皮膚を突き破り露出していた。もう人間の形をしていなかった。

 その画像の衝撃で、クラスの半分が情緒面談(カウンセリング)を受けた。


 最初の感染から生き残った人たちも徐々に体を蝕まれ、消えていった。


 生き残りのうち、妊娠していた女性が約三百人いた。

 その中で無事に出産できたのは二十人だった。

 母親たちは出産を終えると、子供に命を託すように息をひきとった。彼女たちには国民英雄勲章が贈られた。三級ではなく、金色の一級勲章だった。

 生きてそれを受け取った母親はいなかった。


 そのとき生れたのが、サチや僕だ。

 あとタカシ、アイ、イェンス、コウキ……。そのほかに、物心つくまえに死んでいった赤ん坊たちがいた。

 生き残った僕たちは『特殊指定孤児』と呼ばれた。

 外見は無事に生まれてきた僕たちにも、兵器は爪痕を残していた。

 それは特殊指定孤児だけに発症する『固有症状』と呼ばれる障害だった。

 普通の人間には現れない症状だ。

 症状にはいくつものパターンがあって、誰ひとり同じ死に方はしなかった。




『特殊指定孤児』が生れてから十六年経った。

 生き残っているのは僕とサチだけになっていた。

 そのサチも、あと数カ月で死ぬと分かった。


 発症確定宣告の告知は、本人の希望が優先される。

 だから死の時間を知りたくない者は、ある日突然の死を選択することもできる。

 でもそれはしない方がいいと、僕たちは仲間の死を見るうちに想うようになった。

 知っておいた方がいい。

 僕らは死ぬことを定められているのだから。それまで生きるために、知っておいた方が、きっといい。


「今度はあたしもイチゴ味にしよう」


 そう言ったサチが少し小走りになる。

 帰宅用に指定されている電車の発車時刻が、迫っていた。




 3



 電車の中で僕たちは、ただ座っていた。

 僕たちが乗るように指定されているのは前から三両目だ。護衛のためらしいが、護衛なんか見たことがない。


 電車は戦前に使われていた車体を再生利用している。心地よく揺れながらレールの上を走る。慣れれば悪くない座り心地だった。

 僕はサチと隣り合って身をよせ、次第に暗くなっていく向かいの窓の外を見ていた。

 最近やっと元に戻りつつある住宅地や菜園が見えていた。


 電車は無人運転で動いている。終戦後の人手不足で、交通機関の無人化が進んだからだ。

 命ない物の操縦に身を任せて、僕たちは運ばれている。

 僕たちと同じ学校に通う生徒。

 小さな女の子をつれた母親。

 居眠りしている老人。

 サチはそんな人たちを、輝く栗色の瞳で見つめていた。


 いつから僕たちは、こうやって寄りそいながら毎日を過ごすようになったんだろう。

 そんなことを考えることもなく過ごしていた僕は、それがいつか終わることを忘れていたのだった。



 駅から商店街を抜ける。

 サチは夕方の商店街が好きだった。

 日々、僅かずつ増えていく人の姿が好きなのだと言った。

 少しずつ増えていく品物や、新しく開く店が

「なんか好きなんだよね」と。


 三区画歩いて家についた。

 正式には「指定保護寮」という施設だ。外観は普通の住宅を数棟つなげた感じ。

 道路に近い棟の窓から、柔らかな橙色の灯りがこぼれている。

 玄関の上には、古風なスズラン型のライトが燈されている。


「ただいまー!はらへったぁ!」


 サチが家の中に飛びこんでいった。本当に腹がへってるのか、疑わしい元気さだ。


「ただいま」


 と僕も家に入る。

 居間に行くと、世話役の佳奈さんが「おかえり」と言ってくれた。


「佳奈さぁん、おなかすいたー」

「準備できてますよ。手を洗って着替えてらっしゃい」

「ういー!」


 サチはフラフラと廊下の奥に消えた。


「ただいま帰りました」


 僕は、サチを見送る佳奈さんに声をかけた。


「はい、おかえり」


 佳奈さんの目が少し陰っていた。


「サチの発症、もう聞いたんですか」


 僕の問いに佳奈さんは頷いた。

 佳奈さんは政府の職員だ。

 心理カウンセラーの資格を持ち、家事全般なんでもこなす。

 彼女は特殊指定孤児の世話をずっと続けている。

 ずっと、孤児が死んでいくのを見続けている。


「はやく着替えてらっしゃい」


 そう言って、おだやかに微笑む。

 佳奈さんは、本当にすごい人だと思う。




 毎日、不思議に思うことがある。

 不思議は、毎日の日常の中に確実にあって、それは色々な分野に散在しているけれど。

 一番不思議なのは、あのサチの食欲だ。

 今、僕の目の前では、サチがワシワシと音を立てて鶏の唐揚げを平らげていく最中だった。

 僕はスープを飲みながら、それを眺めていた。

 以前、佳奈さんに聞いたことがある。

 サチの一食分の唐揚げは鶏のモモ肉五枚分だと。衣の中にたっぷり旨みを閉じ込めた佳奈さん特製の唐揚げを、こいつはなんの有難味もなく喰らっている。ちゃんと噛んでるんだろうな。液体みたいに流し込んでるわけじゃないだろうな。そしてそれだけの量を、その身体のどこに詰めこんでるんだ。

 僕の疑問に満ちた視線に気付いたサチが、こっちの皿に箸を伸ばしてくる。


「あっれ?食べないの?」


 僕は光の速さでサチの箸を払いのけた。


「食べるよ!手を出すな!」


 渡すつもりはない。佳奈さんの唐揚げは僕も大好物なんだ。


「またまたぁ」

「食べるって言ってるだろ、話をきけよ」


 サチが唐揚げを素早く掠めとっていく。僕はため息をついて食事を続けた。


「おかわり!」


 サチが元気な声を出す。

 佳奈さんが笑いながらごはんをよそった。




 風呂に入って、部屋に戻った。

 風呂は男女一つずつある。


「のぞくなよ」


 サチは必ずこれを言う。

 誰が見るか。

 子供の頃は、みんな一緒に入った。佳奈さんと、他の職員さんが手分けして、かろうじて幼児期まで成長した僕たち十二人の世話をしてくれていたのだ。

 今は僕とサチだけが、佳奈さんと一緒に生きている。


「そっちこそのぞくなよ」


 僕は言ってやった。



 寝床に入る。

 百年前に書かれた小説を少し読む。まぶたが重くなる。枕元の読書灯を消す。

 いつもと同じ。

 今日の放課後までは、そんな日がまだしばらくは続くと思っていた。

 いつかは人は死ぬ。僕たちはそれが早めにくるだけだ。

 総合カウンセリングの講師はそう言っていた。

 僕らはそれを十分に理解していた。

 分かっていたはずだったのに、死んでいった仲間も、サチも僕も、どこかでそれを認めていなかった。

 僕は、サチと過ごす月日が重なっていくほど、死は遠のいていく気がしていた。


 タカシのことを思い出した。僕とサチをのぞけば一番長く生きた孤児だった。粉状崩壊という固有症状で三年前に死んだ。

 変化は急激で、タカシの体中の組織は、発症から数日のうちに塵のように砕けていった。


「死にたくないよ」


 最後に生きて会った日、タカシは僕とサチに手を伸ばしてきた。泣いていた。

 タカシは完全密封の保持ケースに入れられ、ほとんど意味のない延命措置をほどこされていた。

 僕とサチに伸ばされた指先は半ば崩れおちていた。


 僕とサチは最後までタカシといた。

 心臓が塵になり、脳幹が消え去って、タカシの顔から「生」が消えるまで、僕らはたった二人で、タカシを見つめていた。



 特殊指定孤児には、葬儀方法を選択できる権利が認められている。タカシは土葬を選択していた。死んでなお、体を消しされられるのはいやだ、と言っていた。


 葬儀の日、喪の色に染まった墓地にタカシの塵をいれた容器が埋められた。

 いつか、だれもがああなる。そんなことを思った。

 サチはずっと、僕の手を握っていた。




 4



 この国の義務教育で、体育のカリキュラムは、基本的に屋内で行われる。空気中の汚染物質をさけるためにとられた処置が慣例化したからだ。

 僕たちが通う高校の競技場は、公式競技用のスタジアムと同じ広さがある、戦時に住民の退避所に使うためだ。


 体育の授業は週に四度組まれている。

 今日は長距離走のタイムを計ることになっていた。


「うおりゃああああ!」


 叫びながらサチがトラックを爆走していた。

 どうでもいいがやかましい。

 ペースが速すぎる。


「あいかわらずだなサチは」


 鹿島が、トラックの横で、そのバカでかい体をストレッチしながら笑い出した。

 こいつは卒業したら国防軍に入隊が決まっている。いわゆる「軍コース特待」だ。


「無駄な元気がすごく余分。あれ絶対途中でバテるよね」


 と古沢が、鹿島の横で座り込み、疲れた声で言った。

 古沢は体育の時間になると心身に不調をきたす。冗談ではなく、本当に呼吸が細く荒くなる。

 だから本来は体育の授業に参加の義務はないし、むしろ体調のためには競技場に近づかない方が身のためなのだが、なぜか授業がはじまるといそいそと競技場の隅に身を横たえて呼吸困難になっている。

 僕は二人に同意しながら、サチの爆走を見ていた。

 クラスには、僕とサチを合わせて二十人の生徒が所属している。戦争の前は、もっとたくさんの生徒がいたそうだ。どうやってあの狭い教室の中に入っていたんだろう。詰めこまれて息が詰まったにちがいない。


「無理するな」


 教官がインカムからサチの耳につけたイヤフォンに指示を送るのが聞こえた。教官は戦争で喉を潰された。聞こえてくるのは人工喉頭からの再生声だ。


 サチは教官に不敵な笑いを返し、細い手足を振りまわして突っ走る。突撃といっても過言じゃない勢いだ。

 何考えてんだ。子供か?


「でもまあ、大丈夫なのか?」


 鹿島の声に、古沢も、周りにいた連中もトラックを見た。

 このクラスのみんなが、サチがもうそれほど長く生きられないことを知っていた。

 死は、僕たちの間では身近だった。

 誰もが戦死したり、戦争で使われた各種兵器が起こす後遺症に苦しむ親戚を持っていた。


 サチの走りを見ていたら、一瞬気がゆるんだ。おかげで、視線に気付いてしまった。


 萱崎香織さんが僕を見ていた。

 僕は、彼女が僕を見て、何を考えているか分かってしまった。

 分かるということは、それは萱崎さんも承知していることで、それが僕には不快だった。

 頭の中に不躾に侵入され、ひっかきまわされるような屈辱が僕を不愉快にした。


 僕は視線をトラックに移した。

 そのときサチが足をもつれさせ、勢いよく転倒した。


「サチ!」


 頭の中が真っ白になった。僕は喚きながらサチに駆け寄った。鹿島も追いかけてきた。

 サチは顔から地面に突っ込んだらしく、元気に痛みを訴えていた。


「いってー……って、おい!何さわって、おいい」


 サチを無視して僕は体を調べる。掌と膝にすり傷。それ以外は外傷なし。骨も折れてる様子はない。


「大丈夫かぁ」


 鹿島がサチの様子に少し安心したような声を出した。

 教官と古沢以外の同級生たちも駆けよってきた。

 口々に発する感情丸出しの心配の言葉で、僕とサチの周りは溢れかえった。

「誰かストレッチャーを」持ってこいと教官が言う前に、僕はサチを抱き上げた。

 キャアとかオオッとかいう同級生の声が聞こえた。

 僕はサチを抱いて走り出した。

 競技場の西口から管理棟の建物に出る。出入り口は二重の防壁になっている。平時で、パスワードの入力なしでも開放するがその開く時間がもどかしかった。

 やっと扉が開く。電力の使用制限で暗い廊下を走り、医務室へ走った。


「ちょっと!まてまてまて!サカッてんのかお前。おろせって」


 サチは暗く、静かな廊下を進みはじめると、僕の腕の中でバタバタあばれだした。


「黙ってろ」


 僕は言った。

 サチには分かるだろう。これは僕が真剣になったときの声だ。

 サチはおとなしくなった。あばれるのをやめてくれたおかげで、彼女は僕の腕の中で安定した。

 サチは、ものすごく軽かった。小さかった子供のころと変わらないようだった。



 医務室の入口で基礎管理番号をサチに入力させて(抱き上げたままでだ)入室する。

 医務官に傷の処置をしてもらい、サチをベッドに抑えつけて寝かせた。そうしないと跳び起きて、トラックで突撃を再開しかねないからだ。膨れ面をしていたサチが、いきなり笑いだした。


「いやあ。一生のうちに、男子に抱っこされる日がくるとは思いませんでしたなぁ。相手はアレだけど」

「……始まったのか」


 サチの冗談をスルーして、僕は聞いた。


「違うよ!」


 サチは叫んだ。


「違うよ、転んだだけだよ、ほんとうに」

「……分かった」

「内緒に、してくれる?」

「無理だろ。もう報告が入ってるさ。佳奈さんには正直に言ったほうがいい」


 戻るよ、と言って、僕はベッドを離れた。


「あのさ」


 サチが僕の背中に言った。


「もうちょっとだけ、みんなと一緒にいたいんだよ。本当に、もうちょっとだけ」

「分かってるよ」


 僕は保険医にあとを頼んで、医務室を出た。本当に、僕には分かっていた。

 サチは、同級生みんなと分け隔てなく付き合っていた。連中も、僕やサチが特殊指定孤児だと知っている。それでもみんな、普通に接してくれている。いいやつらだと思う。だから、サチは、少しでも長くみんなといたい。

 サチみたいだったら、こんなに苦労はしないのにな。

 僕はそう考えながら、教室に戻った。



 二日後、サチはすっかり元気になり、クラスの誰彼となく笑顔を振りまいていた。僕はいつものとおり、教室の隅の机に座り、窓の外を眺めていた。それは日常だった。皆が好きなサチ。どこか人を寄せ付けない僕。同級生たちの中では、割と長くこんな日は続くのだろうな、と考えていたとき、一人、女子が僕の机の前に立った。気付いたのは、その子の声を聞いてからだった。


「あの……ちょっといいかな」


 萱崎香織「さん」が立っていた。うつむき、なにか言いたそうにしていた。分かろうと思えば分かるのだけれど、そうする気はなかった。

「なに」と僕は聞いた。


「……あのね、わたし図書委員なんだけど、その……放課後、図書室に来てくれないかな」

「なんで」

「え、えっと……少し話したいことがあって」


 僕はサチの方を見た。にっこり笑ってサムズアップしていた。なに考えてんだ、サチは。


「無理です」

「え?」

「僕たちは、放課後はすぐ帰寮するように政府から指示されてるし」

「あ、うん、…そうなんだ」

「なんか、不愉快にさせたりした?」

「え?ううん」


 萱崎さんが慌てて首を振る。横目でなりゆきを見ているクラスの連中の視線が、すごく痛い。


「何の用?よければ今ここできくけど」

「……なんでもないの。ごめんね」


 香織さんは俯き、足早に自分の席に戻っていった。サチがこっちを「信じられないものを見る目」で見ていた。口も開いてる。閉めろ、ばかみたいだから。数人、頭をかかえている姿が見えた。

「おいぃ」というみんなの心が聞こえた。





「何してくれちゃってんだよ、お前!」

「そういうサチは何してるんだよ。蹴るな僕の足を」


 サチはゲシゲシと僕の足にローキックをかましながら頭を掻き、イチゴ味のアイスを食べながら下校するという器用なまねをしていた。僕はバナナ味をなめながら前を見て歩いていた。


「カオリン、泣いてたじゃねえか!」

「誰だよカオリン」

「萱崎香織!クラス一、いや全校一、いや町一番の美少女!天使!」

「ふうん」

「……あのさあ、お前、男だよね」

「なんで疑わしそうに聞くんだよ」


 サチはイチゴ味アイスをたいらげた。早い。


「カオリンはねぇ、ずっとお前の事が好きだったんだよ。ずっと言いだせなくてさ」

「なんでまた急に」

「ほら、この間の体育。あのとき、お前があたしを、その、ほら、あれだよ…抱っこ…」

「それで、焦って距離を詰めてきたと?」

「……う」


 尻すぼみになるサチの言葉に、僕は本当の事を少しだけ言うことにした。少しだけ。


「知ってたよ、萱崎さんの気持ちは」

「はぁ?」


 サチの足が止まる。


「知ってた?いつから」

「最初から」

「じゃあ、なんで、応えてやらなかったんだよ」

「どうでもいいから」

「どうでもいいってなんだよ!」


 サチが叫んだ。分かる。最高に怒っている時の声だ。

「人の心に、どうでもいいって、そんな風に」

「じゃあさ、僕の心はどうなるんだ」


 僕は声を荒げないよう、必死に自分を抑えて言った。サチは体をビクリと震わせた。僕は歩く。サチは立ち止まったままだ。距離が少しずつ開いていく。


「僕の心は、どうしたらいいんだ。他人に想われたから、自分の心は押し殺して、ありがたく好意をお受けすればいいのか。僕は、自分の意思で、人ひとり、自由に好きになっちゃいけないのか」

「…そんな、そんなこと言ってないよ、ただ…」


 息を吸い、長くゆっくりと吐く。僕が自分の固有症状を知った時、カウンセラーの佳奈さんから教えられた対処法だ。そして佳奈さんや政府の人たちは、僕の固有症状を隠すことを決めた。サチも、僕の固有症状は知らない。まだ発症してないと思っている。

 息を吸い、吐く。心の中に冷たい空気を呼び、冷却する。だめだセーブできない。足が止まらない。僕は歩き続ける。なんでこんなに苛立つんだ。


「おい……待てよ。……まってよ、ねえ……」


 サチが泣きじゃくりながら、僕のあとをついてくる。僕たちは心の中で悲鳴をあげながら、家に帰った。




 それから、僕とサチは、一緒に帰らなくなった。家に帰ると、たいていサチはいなかった。友達と買い物したり、そろそろ営業を再開したファストフード店でおしゃべりしていた。その中には萱崎さんもいるようだった。

 末期の孤児に対して政府は、施設での療養を推奨しているけれど、佳奈さんの助言もあって、サチは比較的自由にふるまえていた。

 夕食の席で顔をあわせても、話すことはなかった。僕たちの間で、佳奈さんが心配そうな顔をしていたけれど、どうしようもなかった。



 僕は萱崎さんに謝罪し、気持に応えられない事を告げた。


「知ってたんだ」


 萱崎香織さんはそう言って、笑った。


「うん、わかった。ありがとう」


 そう言って、彼女はクラスの中の一人に戻った。サチは僕と萱崎さんを見ていた。少しだけ笑ったような顔をした。




 5



 一か月経って、僕たちの様子を政府も見過ごせなくなってきたらしい。佳奈さんが言った。


「別れて生活してみる?」

「サチが、そういってるんですか」


 佳奈さんは首を振った。


「あのこは、あなたと一緒にいたいのよ。誰よりも。あなたには分かるでしょう?」

「重いです」

「そうね。……ねえ、サチちゃんが学校に行きたいっていったとき、どうしてあなたも行くことにしたの?あなたにとって、多数の他人の中で過ごすのは、ものすごいストレスのはず。そういって、わたしたちカウンセラーは反対したでしょ」

「それに答えることが、今の加奈さんの問いかけの答えになるとは思えません」

「……君は本当に、真剣に生きてるのね」

「サチもです」

「そうね」



 そうしてなにも変わらないまま数日が過ぎ、サチの体に限界がおとずれた。授業中、サチの右の人差し指がさらりと崩れた。サチは立ち上がり、体調不良を告げると、廊下にとびだした。クラスの全員が察した。もう教室でサチと会う事はないのだ。

 萱崎さんが泣いていた。女子の殆どが泣いていた。男子は、どうしていいか分からない顔で、視線を漂わせていた。僕は、なにもできずに座っていた。

 僕という人間は、せいぜいこの程度なのだと、知った。



 サチは学校からすぐに軍のヘリで運ばれた。

 一週間後、面会許可がおりた。そのころには、僕は自分の気持ちをはっきりと理解していた。




 6



 サチの体は保持ケースにすっぽり収まっていた。生きたまま入れられる棺のような物。様々なコードが床を覆い、機材が明滅している。これらは意味をなさない。サチは確実に死んでいく。

 サチの手足の先は、すでに崩壊が進んでいた。崩れていくところからは血液すら流れない。サラサラと乾いた砂のように形を失っていくだけだ。


『……来てたんだ』


 サチは目を開けると、言った。声はケース内のセンサーが拾い、再生される。スピーカーを通しただけで、サチの声に満ちていた活力や、生命力といったものは、きれいに失われていた。腹が立った。

「ずっと、ここにいたよ」僕は言った。


『お見舞いのフルーツ盛りは?』

「ないよ」

『えー』

「持ち込み禁止だ。わかってるだろ」

『そういや、タカシのときもそうだったね。タカシの好きだったお菓子を持っていってやろうとしたら、入口で没収されたっけ』

「そうだったな」

『タカシは土葬だったよね』

「うん」

『あたしはさぁ、風葬にしようと思って。昨日、申請したんだ』

「風葬?」

『そ。国営葬儀所の丘から、風にのせて撒いてもらうんだ。塵となった美少女が、風になって世界に散っていく。すごいきれいだと思わね?』

「フルーツをねだる美少女?」

『そう美少女』

「ここにフルーツをもってこなくてよかった。フルーツめがけてケースをぶち破りそうだからな」

『うはは!お前の中で、あたしの扱いってどうなの』


 笑うサチに、僕は応えた。


「好きだけど。この世で一番」


『は……ひゃ?』


 センサーの故障だろうか。とんでもない声が聞こえる。


『なんですと?』

「好きだ。そう言った」


 計器の一部が赤い光を放った。


『……はは、それは、ほらあれだ。グラグラする橋の上にいると盛り上がるっていう』

「絶叫マシンみたいに言うな。【吊り橋効果】の事か」

『それだ!』

「悪い。吊り橋効果の使い方間違ってる。第一、そんな気持ちじゃない。サチの気持ちは、最初から分かってた」


 サチが目を見開く。もはや顔じゅうが目に見える。


『い…いつから』

「サチが小学校に行きたいって言いだした頃から、かな」

『うぉ』

「僕は、その頃から固有症状を発症していた」

『え?』

「僕は、他人の心が読める。それが僕の固有症状だ」



 僕は他人の心が読める。

 いや、感情が流れ込んでくるといったほうがいい。【感応過剰】そう名付けられている。佳奈さんたちが、この症状を秘密にしたのは当然だろう。他人の心を読める怪物が自分の隣にいるとしたら?その人は怪物を受け入れるだろうか?そんなわけはない。そして絶え間なく流れこんでくる雑多な他人の思考は、僕の心をズタズタにする。だから、佳奈さんは対処法を僕に授けた。他人の思考を遮断する。その技術を。

 それでも僕は、たった一人の思考だけは、ずっと見つめ続けていた。


「だからサチ、僕は知ってる。全部」


 僕は語った。

 最初は、施設の中で共に暮らす友達の一人だと、サチが思っていたこと。仲間が消えていき、最後にタカシがいなくなったとき、どうしていいか分からなくなったこと。僕を失いたくなくて、いつからか、僕の真似をして男の子の言葉を使いはじめたこと。サチはそんなことはとうに忘れていたのか、僕の一言一言に記憶をよみがえらせているようだった。

 そして、いつのまにか僕を好きになってくれていたこと。香織さんが僕を好きだと気付き、どうせ死ぬなら僕とくっつけてしまえと思っていたこと。

 サチはケースの中で身じろぎした。顔がガラス窓に近づいてくる。


「萱崎さんが僕の事を好きだっていうのも分かってた。でもその奥に、特殊指定孤児への同情があることも。そんな気持ちは、いつか負担になる。人を好きになるって、そんなことじゃないだろ」


 あの日、気を緩めたために彼女の心が流れこんできた。知りたくもない心。知ってもどうしようもない心だった。だから応えられなかったのだと、僕は言った。


「あのケンカした日から、サチがどれだけ辛いか知ってた。でも、まだ分からなかった。()()気持ちがサチに、この世にたった二人だけの存在に寄りかかっているだけじゃないのか。萱崎さんと同じなんじゃないのか。それともちがうのか。でも、やっと分かった」


 僕はサチに近づいた。ガラス窓すれすれに、サチも近づいてくる。


「僕は、サチが、本当に好きだ」


『……かわいそう』


 サチが言った。僕は体をこわばらせた。そうだ、考えてみれば、こんな勝手な話はない。自分の気持ちが分からない?そんな事だけで、死の間際になるまで、すきな子に気持ちを伝えられない人間に、だれが好意をもってくれる?


『他人の心が分かるのに…自分の心だけ分かんなかったんだね』


 サチは笑った。今までみたいなやんちゃな笑いかたじゃなくて、いくつも年上の女性みたいな、包み込むような笑顔だった。


『あたしも好きだよ、その堅苦しいところも、融通きかないとこも』


 ほめられてないなぁ、と思って笑ってしまった。


『それに、やさしいところも』


 やさしくなんてない。そう言おうとしてサチを見た。すぐそばに、彼女の顔があった。ああ、この子は本当にきれいだ。


『あいしてるよ。大好きだよ』


 僕たちはガラス越しにキスをした。


『はは、エッロい』


 サチがそう言い、僕たちは笑い合った。


 そうして僕は一つの提案をした。サチはそれを聞いて頷いた。


『わかったよ、かならずそうする。約束するよ』


 それから少しだけ話した。もう一度アイス食べたいとか。自分の部屋は掃除してないから絶対入るなとか。もう入ってきれいにしておいたと言ったら『ぐはぁ』と、またセンサーが故障したんだろうか、ひどい声が聞こえた。

 そうしているうちに、サチは眠ってしまった。




 目覚めないままサチは二日後に死んだ。心臓が崩れ去ったからだ。




 7



 そして今日、僕はここにいる。国営葬儀場から街を挟んで真向かいにある丘。今日の予報では、風は真っすぐこちらに向かって吹いてくる。

 時間になった。

 いま、同級生に囲まれて、サチの棺が開けられただろう。連中には事情を説明しておいた。協力する、と全員が言ってくれた。心地よい好意が伝わってきた。


 僕は待つ。

 サチとの約束。風に乗って、僕のところへ来い。


『かならず、会いにいくよ』


 サチはそう言った。

 かすかに、葬儀場の方向に、白く光を放つもやが現れた。サチが好きだったみんなの手で、サチだった塵が撒かれたのだ。

 そよかぜが僕の頬を撫でていた。

 次の瞬間、風の固まりがゴウッと音を立てて僕にぶつかってきた。

 その中に、僕はサチを感じた。

 塵の中に残る、サチの微かな思いを、僕は自分の能力一杯で受け止めた。

 手を広げ、サチを抱きしめた。

 細い腰、しなやかな首筋に僕は触れた。

 金色に光る細い髪に顔をうずめ、唇にふれた。




 風が去り、僕は丘の上で泣いていた。

 ずっとそうしていた。








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― 新着の感想 ―
[良い点] 世界観が素晴らしい。 描写がとんでもなく美しい。 [一言] ブロ作家さんが、別名で書いていらっしゃるのでしょうか。
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