130:変貌のノワル
翌早朝、ノワルが豹変していた。
表情筋ぶっ壊れてる容疑だったノワルが、『ウフフ、フフッ♪』と可憐に笑みながら、だらしない顔でトレーニングを熟している。
レイは悲し気に俯いていたノワルを元気づけようとした行為を激しく後悔しながらも、元々美しく整っているノワルが見せる豊かな表情から目を離せずにいた。
(ヤバすぎる……このまま帰ったら一〇〇パー問い詰められる……)
間違いないだろう。どうにかして表情筋を破壊できないかとアホなことを考えているが、おそらく本物の死神でも無理だと思われる。
「次行くぞ」
「どこへでもついて行きます♪ ちょっ!?」
空の彼方を見詰めたレイが、「逃げたい」と思った瞬間に【空間跳躍】した。
そんな事故を起こしつつ、レイとノワルのお仕事は続くのだった。
五日目の午前中、アンセスト北東端に最後の魔導砲を配備したレイとノワルは、高空へ跳びドブロフスク方面へ目を向けた。
中央大陸の最高峰たるエレスト山は、雪崩の跡が判るほど深雪で覆われている。
エレストはフタコブラクダの背のような二連山で、北側の山頂が最高峰になる。
ジンの話だと北側山頂は一万メートル級と高く、南側山頂も八〇〇〇メートルを超えているとか。
山頂間の谷間は五合目付近まで深く落ち込み、そこには東方へショートカット可能な古道があるものの、冬季は深雪が古道を覆い隠してしまう。
「ホワイトライノでも厳しいと思います。ディオーラ側への迂回が無難です」
「まぁ急ぐ理由はねぇからいいんだけどさ」
腰を抱かれレイの視界の下端に映る今のノワルは無表情だ。
しかし二日目の朝からこっち、彼女は別人のように表情をコロコロ変える。
笑ったり、驚いたり、恥ずかし気に甘えたり、頬を膨らませ拗ねてみたり。
そのどれもがレイの心の奥を揺さぶるのだから堪った物ではない。
「腹へったし帰るか」
「レイ様」
「ん?」
「エカチェリィナです…」
「あん?」
「エカチェリィナ・ニコノヴァです」
レイが視線を落とすと、ノワルが潤んだ瞳で見上げている。
どこか怖がるような眼差しに、レイが言葉の意味を理解した。
「本名か?」
ノワルが小さく頷いた。
ノワルの生家で使用人をしていた者は、ノワルを「カチュシャ様」と呼ぶことがあった。最近は「ノワルさん」と呼んでいるが、レイはカチュシャが昔の愛称なのだろうと思った。何となくロシア語っぽいな、とも。
「ノワルってのはどこからきた?」
「ノワルジラントから取りました。東北の古い言葉で〝黒き邪竜〟です」
レイの脳裏でディナイルの言葉が蘇る。
『この世の全てを憎み呪っているかの如く目つきと人相が悪かった』
当時の、いや、父親が逃亡した頃の心情に従い、彼女はノワルという仮名を選んだのだろう。ミレアパーティーに編入されてからは穏やかになっていったが、抑揚のない口調と無表情になったのだと。
「エカチェリィナか。いい響きの名前じゃん」
「本当ですか?」
「マジマジ。でもお前は腹黒ヨゴレのノワルだ」
「台無しですっ!」
「叫ぶなうるせぇ」
ノワルが唇を尖らせ、頬を膨らませて上目に見る。
中々にあざとく破壊力も抜群だ。
「初めて会った時からノワルはノワルだ。今更エカチェリィナですとか言われても困るわ。本名だろうが仮名だろうが、お前が俺にとって大切な仲間ってのは揺るがない。逃げでもしやがったら世界の果てまで追っかける。覚悟しとけ」
不器用すぎる気持ちの表現がノワルの心を射抜き、彼女は花が咲いたように笑みレイの胸に顔を埋めた。
「嬉しいです…大好きです…愛しています」
「ったく、面倒くせぇヨゴレだな?」
「今夜ベッドの上で汚してあぁあああああああぁぁぁーーーんっ!?」
首裏を鷲掴みにしたレイがノワルを大遠投した。
涙目のノワルを粗雑にキャッチしたレイは、笑いながらアレジアンスへ戻った。
予想どおり寄って集ってアレコレ問い詰められたが、レイは完全黙秘を貫き、メガ盛りのチャーハンと茹で鶏サラダの香味ソースがけを貪る。
「埒が明かないわね。ノワル、ここへいらっしゃい」
ミレアが椅子を自身の前に置き、座面をパンパンと叩いた。
シャシィとシオが椅子を移動させ座り直す。
三人でノワルを囲むつもりだ。
「申し訳ありませんが、もう皆さんと体の関係を続けるのは無理です」
「こ・こ・へ・来・な・さ・い」
「ハイ…」
おずおずとノワルが座り、シャシィが先陣を切る。
「レイに何をしてもらったのさ」
「深々と貫いであっ!?」
レイの投げたスプーンが狙い違わずノワルの眉間を撃ち抜いた。
「物凄く痛いです!」
「やかましいわ! ハァ…デコに軽くキスしただけだ。たまにやってるだろ」
「ユア様とかセシル様にするような?」
ミレアの問いにウンウンと頷き、レイは替えのスプーンを取りに行った。
席も替えるらしく二つの大皿も手にしている。
「それだけでそんなに変っちゃったんだ?」
「シィさん想像してみてください。レイ様が自ら唇を落としてくれるところを」
「うっ…羨ましい…」
「シオも羨ましいけど、ノワル可愛くなったの」
「ありがとうございますシオさん! くふ♪」
ノワルが喜びながら鼻を鳴らし勝ち誇る。
ノワル優勢で進む聴聞会を尻目に、昼食を平らげたレイは本社屋へ向かった。
「お前らまたんなモン食ってんのかよ。ちゃんとメシ食えって」
入った社長室ではジンとユアがプロテインバーを齧りながら、バランスシートの内容について話し合っている。
政商認可を受けた商会は年末が決算期と決まっているため、アレジアンスはアンセストとオルタニアに対し、一月末を期限として収支報告書を出し納税する。
アドルフィト三世も調印式の折に魔導砲二〇〇門の代金八〇〇億と、魔導兵装の交換部品代金三〇〇億、更に預け部材とする四〇〇億相当の魔導金属代金の、合計一五〇〇億シリンを信用証札で支払って帰った。
中央大陸において設立認可を受けた商会は、年次経常利益の五割ないしは六割を本店所在国の内務院に納税する義務がある。大身貴族家が独自に認可するケースもあり、税率は国や地域によって差異があるものの、アレジアンスがアンセストとオルタニアから受けた政商認可は、税率を二割に減免するというもの。
アレジアンスにとって外国になるオルタニアへの収支報告と納税は、少々手間がかかるので面倒だ。
先ず、外国に対しては、成立した取引だけが収支報告対象になる。
また、この世界の契約取引は代金前払いがデフォルトであり、アレジアンスとオルタニアの取引は年内で経理検収とせねばならない。
しかし、受注品の製造に係わる労務費はこれから発生するため、高精度な予測労務費を算出し、若干の安全マージンも乗せる必要がある。
アンセストに対してもオルタニア分を除外した収支報告になるため、現在の財務部門が切り分け算出・作成の機能を持たないアレジアンスは、必然的にジンとユアが収支報告書を作成することになる。
「早いこと総勘定元帳に詳しい者をアサインしないと。次長のオリヴィアかな」
「適任だと思うよ。法務と知財に詳しい人の新規採用も必要じゃないかな?」
「確かに。内部統制と監査も考えないとな。人事部の増強が最優先か」
「ガン無視かよ!」
ジンとユアが「はいはい」といった風情でレイに目を向けた。
「お疲れさん」
「おう(ガチで色々疲れた)」
「お疲れ様。のんびりやるって言ってた割りに早かったね」
「ノワルの【石造】が速くなってるからな」
「トーチカの破壊強度はどうだ?」
「前と比べて倍くらいだな。強化で言うとレベル6.4。ジンがギリ壊せるカンジ」
「ノワルさん凄いね。トレーニング中は目立たないけど影で努力するタイプ?」
「そんなカンジだな。何気にプライド高いし。アホだけど」
「レイと似てるな」
「ケンカだな? おん?」
「褒め言葉だって。何にしろ助かったよ。これで完了報告ができる」
年内完了が取引条件の一つだったため、結構ギリギリである。
現在のアンセストに、計二〇〇門の魔導砲が必要なのかは別の話だが。
報告を終え社長室を後にしたレイは食堂へ戻って行った。
ジンとユアはバランスシートを基に並行して給与体系の見直しも行い、新規採用者の雇用条件は据え置きとしながらも、既存社員の年次昇給額や各種手当、支給基準を改定して年明けから適用すると決め社内に通達した。
その喜ぶしかない改定内容に、社員たちが仕事への情熱とモチベーションを更に高めたことは言うまでもない。