ひと夏の経験
蝉の抜け殻を見つけた。あぁ、夏が来たのだ、と思った。
平素蝉というものは、地下から這い出てきて、草や低木なんかにしがみついて脱皮をするらしい。
なのにそれが、校舎三階のベランダに落ちているということは、誰かがふざけてここまで運んできたのだろう。私は、玉ねぎの薄皮みたいなそれを、じっと見つめていた。
カラカラ、と扉が開く音がして振り向くと、そこには同級生の橋本が立っていた。何か言われるかと身構えたけれど、彼はシャツの裾をしまうだけで、何も言わなかった。
普段はベルトに締められているワイシャツの裾に、シワが寄っている。普段は目に触れないそれが、今はなんだか、なまなましく見えた。
「お前腐女子なの?それとも、変態?」
のそのそと廊下へ向かう橋本の背中を目で追っていると、背後から声がした。同級生の、新井の声である。
男性にしては高く甘やかな声だが、言葉は粗野で、乱暴だ。それでも下品に感じないのは、彼の風態が、比較的穏やかだからに違いない。
「別に。見ないように気を遣ってしゃがんだら、逃げ遅れた」
「ふぅん」
彼は、足元に落ちている砂利をつまんで、中庭の方へと投げた。
遡ること三十分ほど前、廊下を歩いていた私は、先生に呼び止められた。来月行われるイベントに使う備品の数量と状態を、確認して欲しいのだという。
本当は早く帰って、友人の真由とカラオケに行く予定だったけれど、内申点欲しさでイベント係に立候補した手前、断ることはできなかった。
私はやむなく真由に別れを告げ、備品が置かれている建築準備室へと向かった。
私の通う工業高校において、実験準備室はもはや誰も立ち入らないであろう魔境のような場所に位置していた。
教室棟を出て、工場棟、それから、健康優良男児の汗でやたらと湿度が高い部室棟の脇を通り抜け、人の出入りのない専門科棟を、三階まで上がる。
今はもう使われていない、旧化学研究室を通り抜けてベランダへでたあと、そのベランダを一番奥まで歩いたところに位置しているのが、実験準備室であった。
建築科もある学校なのに、雨の日は確実にずぶ濡れになる設計はいかがなものかと文句の一つでも言ってやりたいところだけれど、実験準備室は年に一度か二度しか使われることがない。多少変な配置をしてしまうのも、無理からぬことであった。
ようやく実験準備室にたどり着いて、アルミ扉に手をかけたとき、ソファの上にいる肌色の魔物と目があった。その魔物は、後ろから組み敷いた人間の首筋を舐めながら、胡乱げな視線を寄越している。
魔物の動きが止まったのを不思議に思ったのか、押さえ込まれた人間は魔物の視線を追って、こちらへ向き直ろうとした。
ガゴン!
わずかに開いていた扉を叩きつけるように閉め、慌ててその場に屈みこむ。その人間と、目を合わせてはいけないような気がした。
私はそこから退くことも、気がつかなかったふりをして踏み込むこともできず、ただぼんやりと、目の前のアルミサッシを眺めていた。
心臓が、バクバクと音を立てている。体からじっとりと変な汗が出て、ワイシャツが湿った。
その現象が気まずさによるものなのか、恐怖によるものなのか、はたまた、性的興奮によるものなのか、その時の私には判断がつかなかった。
何せ、少女漫画も恋愛映画も見ない私にとっては、これが初めての『性との接触』だったのである。
魔王に組み敷かれていた人間、つまり新井は、そのまま私の隣に腰掛けた。あれを見てしまった後で、今更、天気がいいですね、という話をする気にはならない。いっそ私のことなど見えないフリをして、立ち去ってくれればよかったのに、と思う。
同級生とはいえ、彼とはほとんど話したこともないし、とにもかくにも、議題がない。
張り付くシャツが不快で、胸元を摘んで煽いだ。
チラリ、と、彼を横目で見る。
私はひどく気まずいのに、彼は、何もなかったかのような顔で、蝉の抜け殻を摘んでいた。
「で、どこからみてたの、」
「すぐ橋本くんに見つかったから、ほんと一瞬」
フゥン。彼は小さく鼻を鳴らしてから、しわくちゃなワイシャツの裾で、顎から滴り落ちようとする汗を拭った。
滑らかで真っ白な胸の辺りで実を結んだ汗の粒が、鍛え上げられた腹筋を伝ってパンツに染み込んでいく。
体育の授業でよく見ているはずなのに、なぜか見てはいけないもののような気がして、無意味に自分の鞄を漁った。
「まぁなんか、悪かったわ。あんなん見せて」
「いや、まぁ」
彼の言う『あんなん』が、頭の中に鮮明に蘇る。斜陽に照らされた部屋の中に浮かび上がる、酸素を求める彼の喉仏。脱ぎ捨てられたワイシャツ、中途半端に下げられた、ズボン。
吐き出された呼気は、夏でも白く見えそうなほど、湿気と熱量を孕んでいた。
私は、頭に浮かんだそれを振り払うように咳払いをして、彼の膝の上に置かれた蝉の抜け殻を摘んだ。
「いつから」
「いつからって?」
「いつから付き合ってんの、二人は」
んー。彼は思案するように鼻を鳴らして、少しの間中庭を見つめていた。
正確には、どこも見つめていないのかもしれない。とかく、視線は、中庭の方を向いている。
「なんというか、付き合っては、ない」
「そうなんだ」
そういう関係もあるのだろう、と思った。世の中には複数人との関係を持つ人もいるし、付き合っていないのに性交渉する人だっている。
だが、彼らがそうであったことには、驚きもあった。我々は俗にいう思春期で、休み時間に漏れ聞こえる会話といえば、恋愛ごとや性的が中心だ。
けれど、彼らのグループは大抵、部活や成績の話をしていて、だからなんとなく、彼らはそういうことへの関心が薄いのだと思っていた。
「中学ん時から一緒だったけど、高校入ってからこうなった」
「あ、同じ中学校だっけ」
「そ。部活も一緒」
私がそれ以上何も言わなかったせいか、彼は説明を加えた。恥ずかしくてごまかしている風でも、後ろめたくて焦っている風でもない。
ただ飄々と、昨日見た映画のあらすじを説明するように、話している。
「私同じ中学の子いないし、羨ましい」
ぼんやりと、あっているのかわからない返事をすると、彼は中途半端な笑みを浮かべて、ズボンのポケットからグミを取り出した。
食べる?と聞かれたけれど、甘いものは得意じゃない。首を横に振るとき、ご機嫌な黄色いクマと目があって、なんとなく眉をしかめた。
「好きなの?」
何が、とは、聞かなかった。
「どうだろ、」
彼は、無駄に伸びをした。
「なんつーか、男ってセーヨクたまるのよ。別に一人でシてもいいけど、中学共学だったし、俺らもそれなりにモテてたわけで、彼女いたこともあるし。なんか一人だと味気ない気がしちゃって、そんでトチ狂った結果がこれ。気の迷いってやつ」
つまり、セーヨク処理。彼は、いやに饒舌だった。ポーカーフェイスを気取っているけれど、実際のところ、それなりに現状を恥じているのかもしれない。
「ここも共学だよ。工業高校だから、女は少ないけど」
そう呟くと、彼は息を漏らすように頷いて、足元の砂利を見つめていた。
「あのさぁ、痛いの?」
自分で聞いておいて、それを聞いてどうすんだ、と思った。具体的なことは言わなかったけれど、彼は察したように口角を上げる。自嘲を含んだような、ちょっと意地が悪い笑い方だった。
「俺ら、そこまではシてない」
結局、フゥン、と返した。聞いてみたところで、やっぱり言うことは思いつかなかった。そもそも彼らがそうでも、そうでなくても、私には関係ない。
彼はのったりと立ち上がって、じゃあ、いくわ、とかなんとかいいながら、ズボンについた砂埃を払った。
「ねぇ、今日のことだけど、」
「別に、言わないよ」
「そ、ありがと」
また明日、という意味を込めて手を振ると、彼もひらりと手をあげた。その仕草はひどく気怠げで、妙に色っぽい。
こめかみから流れ出る汗が一粒、ワイシャツの空いているところから、鎖骨の方へと流れていった。
そんじゃね。そう言った彼の目が細まって、口角が上がる。それが笑顔なのだと、一拍おいてから気がついた。笑顔にしては、見たことがないくらい、蠱惑的だったからだ。
夏の魔物は、案外新井の方なのかもしれなかった。
* * *
「あー、すずし、」
コンビニに入った瞬間、真由が伸びをした。室内の冷たい空気を、できるだけ大きな面積で受け止めようとしているみたいな仕草だ。
涼しい店内でも一際冷気を放っている、開放型のアイスケースの前に立つと、カラフルなアイスのパッケージが、私を買ってと自己主張していた。
アイスが欲しくてコンビニに来たはずなのに、いまいち食指が動かない。
「あれ、食べないの?」
ふらり、と、アイスコーナーから離れた私に、怪訝そうな顔をする真由に手を振って、冷たい飲み物がある店の奥へと向かう。その道中、ふと、ご機嫌な黄色のクマと目があった。
「あ、」
思わず、それに手を伸ばす。グミの袋には大抵、ジッパーがついているものだと思っていたけれど、これは違うらしい。絶対に一度では食べきれない量だけれど、彼はどうしているのだろうか。
「外で待ってるね!」
会計を終わらせた真由の呼びかけにハッとして、それを掴んで会計した。グミ一つを掴んで出た炎天下はサウナのような暑さで、あぁ、結局冷たいものを買い忘れた、と、ぼんやり思った。
「真由、結局どれにしたの?」
「ん?いつもの」
彼女の手元を確認すると、果汁の丸いアイスを持っていた。言われてみれば確かに、それをよく食べているような気もする。
あまり記憶にはなかったけれど、納得したように、アァ、と返事をした。
* * *
関わりを持つ前、新井と橋本は、いつも廊下で話しているバスケ部四人組のうちの二人、という認識だった。広くない廊下の壁に、対になるみたいに立っていて、四人の使徒みたいだと思っていた。
「え、四人の、何?」
「四人の使徒」
「使徒?」
「そう、ドイツの画家、アルブレヒト・デューラーの絵に出てくるやつ」
はっ、俺らがそんなご大層なものかよ。彼はそう呟きながら、携帯画面に映った検索結果を見て、あ、俺この、はげてない人ね、と、聖ヨハネを指した。
一応彼らは聖人だよ、というと、彼は罰当たりを自覚したのか、体の前で十字を切って拝む。信心もないくせに、ゲンキンなやつだ。
「なに、そんじゃあ俺ら、聖人みたいに神々しいってこと?」
「別に、そういうわけじゃない」
ただ、壁に飾ってある絵と同じで、住んでいる次元が違うと思っていた。だからこの先、きっと交わることはない、と。
「んで、今は?」
「どうだろう、ダビデ像くらいの感じ?」
「そんなかっこいいか、俺ら」
「いや、三次元として認識するようにはなった」
「こーやって話してるのに、まだそのレベルかよ?」
ふは、と、彼はこぼれてしまったみたいに笑った。確かに、あの一件以降、たまに話をするようになった。数日前なら、想像もできなかった話だ。でも、だからって、友達のような近い存在かときかれると、そうも思えなかった。
「そういえば、前髪切ったっしょ」
彼の言葉に、視線をあげる。飲み込みかけていたレモン牛乳が喉に引っかかって、ギュィ、と音を立てた。
「あ、え、わかる?」
「ん。俺はそっちのが好き」
喉の奥が酸っぱくなる感覚がして、胸がギゥと悲鳴をあげる。それはどこか、泣き出すときの感覚に似ていた。
彼は、どんな顔をしているのだろう。どうしても見たくなって、彼の方を盗み見た。だが、彼は無表情のまま、携帯を弄っているだけだった。
なんだ。少しくらい照れたり、恥ずかしがったりしていても、いいのに。なぜだか、いじけたような気持ちになった。
「そう。それはよかったです」
「ウン」
また、レモン牛乳を吸い込む。塊みたいに入っていったそれが、喉につかえて、なんだか苦しかった。
* * *
「私彼氏できた」
真由が嬉しそうに言った。学校のない土曜日、片田舎の複層スーパーの一階にある、フードコートの真ん中での出来事である。
「え、だれ」
「当ててみてよ」
私はじっと、手元のジュースをいじっていた。意味もなくコップを回して、プラスチックの蓋をストローから抜き取る。蓋はストローの蛇腹の部分に引っかかって、裏面についた水分が手にかかった。
「ちゃんと考えてる?」
鋭い一言に、考えてる考えてる、と軽く返事をして、それから、『電気科の松崎』なんて、仲が良さそうな男子を適当に挙げた。真由は否定しながらも、嬉しそうに鼻を広げている。
『野球部の田村くん』、『土木の亮平』。違うと思いながらも、名前を列挙していく。案の定真由が、得意げな雰囲気を増していった。
しばらくそうして当てっこをして、それから、えー、降参、教えて、というと、彼女は高揚したように笑った。
「正解はねぇ、」
真由が身を寄せるのに合わせて、彼女の方へ右耳を寄せる。左手に、蓋を抜き取られたジュースが見えて、ぐるぐるとストローでかき混ぜた。
「はっしーくん」
クラッシュアイスをかき混ぜていた手が、止まる。
「え、どの、はっしー」
「ん?同じクラスの、はっしーくん」
「橋本、佑亮?」
「うん、そう」
「・・・へぇ」
不自然な間があいてから、しまった、と思った。不審に思われなかっただろうか。うまく出ない声を捻りだすように返事をすると、真由は反応が薄いと文句を言った。
不意に、あの日の二人が脳裏に浮かぶ。あの茹だるように暑い夏の日、クーラーもない建築準備室で絡み合っていた、ソファの上の影。
溶け合ってしまいたいとでもいうように、どこまでも密着する体。慣れきって、乱雑で、そのくせ繊細なあの触れ方は、たしかに愛を孕んでいた気がしたけれど、あれは、幻影か。
「結構連絡返してくれてたから、告白してみたら、いいよって言ってくれて」
真由はこちらの戸惑いには気づかず、話を進めていく。多分彼女は話したいだけで、こちらの反応なんて、大して気にもとめていないのだろう。でも、今はそれでよかった。
「まじで嬉しい」
彼はもう、聞いてしまったのだろうか。胸の奥が、火傷したように鋭く痛んだ。だとしたら、彼はどんな顔でそれを聞いたのだろう。熱さにも似た痛みは徐々に酷くなり、唾液腺のあたりに酸味が広がった。
「みんなには、もう、話したの?」
「ううん、まだ。昨日付き合ったばっかりで!」
彼女は、本当に幸せそうに笑った。それでもまだ、脳裏の二人は消えてくれない。友達を心から祝えないことが後ろめたく思えて、携帯電話の画面をつけたけれど、通知はなにも来ていなかった。
「そのー、それでね、」
真由は、言いにくそうに顔を歪めながら、上目遣いでこちらを見た。多分、言いにくそうなのはポーズだ。口角と目尻の距離が、近い。笑いを堪えているのは、明らかだった。
「今日二時からバスケ部の試合みたいで、見に行かない?」
「どこで?」
「中央スポーツアリーナ」
今日ここ集合にしたの、近いからなんだよね、という彼女の告白は、ほとんど頭に入ってこなかった。試合ということはきっと、彼もそこにいるはずだ。
「いいよ」
真由は、わかりやすく喜んだ。残りのジュースを一息に吸い込んで、食べきれなかったポテトごと、トレイを持ち上げる。反対の手で鞄を掴んで立ち上がると、彼女もトレーを抱えてついてきた。
あんたの方が急いてるじゃん。と笑われて、意識的に歩幅を落とす。
「橋本くんがどれくらい浮かれてるか、見てやろうと思って」
冗談を言って振り向くと、彼女は嬉しそうに自転車の鍵を捻った。
「焦っても、試合終了時間は変わんないよ」
思いきり、自転車のスタンドを蹴りあげる。自転車はガコンという音を立てて、準備完了を告げた。
キュ、ドム、ドム——
放課後の体育館と同じ音が、館内に響いている。違うのは、彼らが動くたびに湧き上がる声援と、歓声。
真由は早速その声援の渦に溶け込んで、手を叩いていた。私は応援するでもなく、ただじっと、インパラみたいに美しくてしなやかな、彼の姿を見つめていた。ブザーが響いて、彼らがハイタッチをするまでのその間、ただじっと。
出口で待っていよう、と真由に誘われ、仕方ないふりをして出待ちをする。暑すぎるから、エントランスホールのなかで、二人が出てくるのを待った。
しばらくそうして待っていると、真由が小さく、あ、と言った。彼らが、きたのだろう。
「ごめん、新井、ちょっと来て」
「なに、俺ら打ち上げある」
「いいから、ちょっと、」
彼の手を掴むと、無神経な周りの奴らがそれを囃し立てた。
「何?突拍子なさすぎるんだけど」
連れ出したくせに何も言わない私を、新井が覗き込んだ。面倒くさそうだった顔に、心配の色が浮かぶ。それだけ酷い顔をしているという自覚は、あった。
今日連れ出したところで、彼はすぐに知ってしまうだろう。流れる川の水はどう堰き止めても、またどこかに道を作る。
「悪ィけど、打ち上げあるし、行かなきゃ」
悩みあんなら聞くから、と言って、彼が右手を突き出す。
「あの、」
「連絡先、教えといてくれたらいつでも聞けんだろ」
私は何も言えないまま、携帯を差し出した。彼は連絡先を登録した後、携帯を突き出して、ほら、戻るぞ、と、私の背を押した。
どうしたって、避けられないなら、
「なんかあったら、電話して」
「いや、それ俺のセリフだわ」
彼が溢れるように、笑った。
「じゃあ、先行くわ」
彼の背中が、建物の影に消える。橋本もきっと、打ち上げだ。真由と帰ろう。私も、のそのそと入り口へ向かう。
建物の影を曲がった時、人にぶつかりそうになって、すみません、と反射的に頭を下げた。視界に、見慣れた白い運動着の袖が飛び込んでくる。
見上げてみると、それはやはり新井だった。彼は私の姿を認めると、へらり、と笑った。戻ってきたらしい。元から良くない血色が、一段と悪い。
新井は無言のまま、駐車場の方へと戻っていった。懸命に彼を追うけれど、彼が早足なせいか、そもそもコンパスの大きさが違うせいか、なかなか追いつけない。
「待って、新井くん、ストップ」
彼の足が止まる。まだなんか用かよ、なんて、努めて明るい声が、ほんの少し震えていた。
「真由のこと?」
彼は無言を以って肯定した。そんなに落ち込むくらいなら、さっさと自分だけのものにしてしまえばよかったのに、その関係に名前をつけなかったのは、彼自身だ。
あぁ、そうか、それは私もおんなじだ。私も、
「好きだったんだ」
「は、ちげぇし」
彼はその呟きを、問いかけだと解釈したようだった。
「じゃあ、なに?なんで泣いてるの」
泣いてねぇ。吐き出された言葉は、酷く震えている。それで泣いてないなんて、だいぶ無理がある。
「こっち向いてみ」
「お前意味わかんねぇこと言うから無理」
「いいから」
「いや、無理無理」
覗き込もうとするたび、彼が身をひらりとかわす。幾度かそうしたあと、痺れを切らして肩を掴んだ。ほんの一瞬目があって、彼はくるりと後ろを向いた。
「泣いてるじゃん」
彼は、ついに俯いた。カバンの中をかき混ぜて、ポケットティッシュを探す。普段から、鞄の中を整理しておけばよかった。ようやく見つけて差し出したそれを、彼は振り向くことなく受け取った。
「ハンカチくらい、持っとけよ」
無理やり吐き出された憎まれ口に、無理しないでよ、と思ったけれど、何故だか言えなかった。
彼が、建物の基礎のコンクリートに、腰を下ろす。なんとなくそれに倣って、彼の横に腰を落ち着けた。初めて話したあの日と、順番が逆だった。
「、あの、グミ、食べる?」
あざす。彼は濡れた睫毛のまま、赤色のグミを一粒、口の中に放り投げた。
「なにこれ、全然、味しねー」
私も、一つ口に含む。消しゴムみたいな食感と、香水の残り香みたいな強い匂い。いつもと同じグミのはずなのに、確かに、あまり味がしなかった。
彼は次に、幾つかのグミを掴んだ。カラフルなそれが、彼の手の中でギゥと潰れる。一緒に握り込まれてしまったみたいに、私の心臓もぎぅと音をたてた。
「子宮があれば、よかったんかな、」
な、なんて、絞り出すみたいな声で同意を求めないで欲しい。子宮があったって、恋が実るわけじゃない。私だって今、泣き出したい気分なんだ。
「あー、セーヨク処理、これからどうするかな、」
口角があがっている声がする。顔を見る勇気はないくせに、無理に笑っている顔が簡単に思い浮かんで、ひどくいやな気分になった。
「じゃあ、私とシテみる?」
私は、言葉と共にこぼれてしまいそうになった心臓を、グッと飲み込んだ。
意味もなく、視線の先の車を一心に見つめる。ミラーのところに、笛を吹いた、トサカのある人形がぶら下がっていた。あれは確か、インディアンの豊穣の神、ココペリだ。
隣から真意を問うような視線が刺さっているけれど、私はいま、ココペリを見つめるのに忙しい。だから、気がつかないフリをした。もしも断られたら、冗談にしたらいい。そう思うくせに、手を置いた膝頭が意図せずに湿気を孕んだ。
しばらくそうした後、彼の視線もココペリへと移った。私がもう何も言う気がないことに、気がついたようだった。
「今週土曜、俺んち、親いないから」
「・・・うん」
それが、彼の答えだった。
**
金曜の夜は、上手く眠れなかった。いくつかの恋愛映画を見たけれど、どれ一つとして内容を覚えていない。通知がこないか、何度も携帯電話を確認していたせいだろう。
朝も、やたらと早くに目が覚めた。二度寝をしようにもうまく寝付けない。仕方ないからベッドから出て、初めて自分から強請った、卸したての下着を身につけてみた。
変なところがないか、何度も鏡の前で確認して、服をきてからもまた確認する。そんなことをしていたら、余裕があったはずのバスの時間に、遅れそうになった。
あぁ、落ち着きがない。自分でもわかるほど、今日の私は集中力がなかった。ずっとふわふわ、雲に乗っているみたいな心地だ。
住所を何度も確認して、ようやく新井の表札を見つけた時、私は緊張のあまり、ショルダーバッグの紐を握りこんだ。
ピンポン——
チープな音が響いて、インターホンからの答えより先に、目の前の扉が開いた。
「おう」
「あぁ、うん」
自分でも、間抜けな返答だった。
案内された彼の部屋は、存外に綺麗だった。どこに座ればいいかわからないまま立ち尽くす私に、彼が座布団を進める。
彼は、茶を出したり、いつもの世間話をしてきたりもしたのだけれど、ほとんど頭に入ってこない。どんなに水分をとってもやたらと喉がかわいて、出された麦茶をちびちびと飲んだ。私の動揺が見て取れたのか、彼が少し笑った。
「そんなすぐしねぇよ。部屋来てすぐシてすぐ放り出すなんて、俺どんなスケコマシだと思われてんの?」
それにも私は、あぁ、とか、うん、とか、そんな返事しかしなかったと思う。
「まぁでも、お前が御所望なら、そんでもいいけど」
彼の手が、机の上で所在なげにしている私の手に重なった。近づいてくる彼の顔を見て、彼が何をしようとしているかわからないほど、私は幼稚ではなかった。
「あ、ちょっと待って、ちょっと、トイレ」
とてつもなくドキドキした瞬間、下腹部がキュンと疼いて、尿意のようなものを感じた。なんでこんな時に、と思うと同時に、情けなくて泣き出しそうな気分になった。
見慣れないお手洗いの中、一つ深呼吸をする。胸を満たす芳香剤の匂いが、期待に変わっていく。そうだ、ここは、自宅ではない。彼の家、そう。目的を見失うな。
少しだけ色のついたリップを唇に乗せて、大丈夫だと、自分に言い聞かせる。
トイレから戻ると、彼はベッドの上に寝転んで漫画を読んでいた。その脇腹のあたりに、恐る恐る、腰掛けてみる。普段は一人分しか乗せていないベッドが、ギシリと悲鳴をあげた。
それが合図になったように、彼が漫画を閉じる。それを枕元に置くまでの動作を背中で感じながら、逃げ出したいような、楽しみなような気持ちに襲われる。
何しろ初めてのことなので、所作というものが分からない。何をするのも、不安だった。
彼が私の腰の辺りをゆるく抱きしめたのに合わせて、そっと体を横たえてみる。彼の方へ体を向けてみると、思いの外近くて、彼との間にはもうペットボトル一本分くらいの距離しかなかった。
今まで誰かをこんな近くで見たことなんて、ない。そのまま彼の顔がゆっくりと近づいて、遠慮がちに唇が重なった。初めてのキスの感想は、何も浮かばなかった。
一瞬で離れていくそれを、ただ息を潜め耐え凌いで、それで合っていたのかを探るように、彼を見つめた。
「そんな構えんなよ」
彼はふっと息を漏らすように笑って、今度は上から重なるようにして口付けた。短い口づけだとわからなかったけれど、唇が触れている時、頬のあたりに彼の呼気を感じる。
それは手が触れるより遥かに生々しい体温で、心地よさと興奮が入り混じった、変な感覚だった。
ついばむようなキスの間に、彼の手がTシャツの裾から入り込んでくる。夏だというのに彼の手はひんやりしていて、温度が奪われていくのがくすぐったい。腰の下に潜んだ手は、やがて肩甲骨の方へと伸びていき、反対の手が、服の上から私の胸に触れた。
その手がフニフニと、感触を確かめるようにして動く。そのうちそれは、明らかなる意図をもって、動き始めた。それが気持ちいいのかは、わからない。
ただ、彼に触られているという事実だけで、泣き出したくなる。下腹の奥から蝶が湧き出てきて、胸のあたりで群舞しているみたいだった。蝶たちも酸素を欲しているせいか、どれだけ息をしても足りなくて、次第に呼吸が荒くなっていく。
どれほどそれが続いたのだろう。五秒にも、五十分にも感じたそれが、唐突に、終わった。期待と、未知への恐怖で固く瞑っていた目を開くと、彼は横たわる私のそばで、ただ腰掛けていた。
彼は視線を彷徨わせながら、幾度も唾液を嚥下している。視線が、空中に言葉を探すみたいに、忙しなく動いていた。
まるで、迷子になったような気分だった。握り込んだ掌に手汗が滲んで不快だ。何かを間違えただろうか。完璧にしてきたはずなのに、今となってはどれ一つとして自信がない。
「・・・ごめん、俺、ダメだわ、ごめん」
体の奥の方が急速に冷えていく感覚がして、奥歯がガタガタと音を立てた。
なにを浮かれていたのだろう。付き合っているわけでも、セックスフレンドと割り切れるほどフランクな関係でもない。これくらい、想定の範囲内じゃないか。なにを、期待していたのだ。
「そっか」
体を起こして、着衣を戻していく。彼と私の間の性の痕跡が、一つずつ消えていった。なんでもない風を装ったけれど、うまく、できただろうか。喉の奥が、グピリと音を立てた。
普通にしたいのに、話すことが思い浮かばなくて、鞄を漁る。
「あ、そうだ。グミ、食べる?」
「あの、本当、そうじゃなくて——」
「そうじゃないって、なにが?」
頭では、彼が拒否した原因を理解していた。彼はただ、失恋の傷を、誘ってきた女で埋めようとしただけだ。そして、それは正しくないと気がついて、踏みとどまっただけだ。
それでも私は、自分に原因を求めていた。服が脱がしづらかったとか、口紅が気に食わなかったとか、簡単に改善できる小さな原因を。それだけ直せば、彼に求めてもらえるように。
「まじで、違うから、聞いて——」
「もう私、食べないから、あげる」
私は彼の方へ、グミを袋ごと押し付けた。鼻の奥がツンとして、両耳の下のあたりに酸っぱさが込み上げる。だめだ、このままでは。
彼の心の隙間に付け入って自分の望みを遂げようとしたくせに、泣いて慰めを求めるなんて、そんな女には、なりたくない。
「そういえば傘、忘れた。雨が降る前に、帰るね」
「雨って、いや、まって、ほんと、ごめんって、」
私は、彼の静止を無視して階段を駆け下りた。彼が追ってきていることには気がついていたけれど、むしろ、速度を上げていく。
「あの、本当にごめん。お前が悪いんじゃなくて、ただ、俺が、」
靴を履くためにしゃがんだところでようやく追いついた彼が、私の腕を掴んだ。それを振り払って、玄関を開けた。
「じゃあ、また、月曜日」
玄関のドアは、ゆっくりしまっていく。彼は上がり框から、一歩も踏み出さなかった。
本当に私を行かせたくないなら、靴の有無なんて気にしないで、追いかけてくるはずだ。とっくの昔に、抱き止めているはずだ。文化部の私より運動部の彼の方が、ずっと、足が速いのだから。
本当に、なんてひどい天気だろう。こんなに晴れ渡っているんじゃ、ついた嘘がバレバレだ。
「勘弁、してよ」
結局、上下お揃いの私の誠意は、彼の目に触れることなく終わった。
—数年後—
「今十時だけど、もう一軒行く?終電までまだ時間あるっしょ」
同僚の中に必ず一人はいるまとめ役、山口が、全員の先頭に立つ。みんながぬるぬると二次会を探し始める中、終電が早い一人が、僕はここでと別れを告げた。
いつものことなのに、みんなが急に、彼との別れを惜しみ出す。酔っ払いというのはとにかく、店を出てから移動するまでに時間がかかる生き物だ。
「ちょっと飲みすぎた。飲み物買ってきて良い?」
「つぎ、どの店がいいとか、ある?」
「特にない、任せる」
同僚の一人が頷いたのを見届けて、私は、その集団から離れた。
金曜の夜、繁華街はかなり賑わっていた。泳ぐように人の間をすり抜けて、道の端を目指して歩く。脇道のところに自動販売機を見つけて、明かりに誘われる虫みたいに近づいた。
「なんそれ、そんなことある?」
ボタンを押したとした時、私の後ろで聞き覚えのある声がした。男性にしては少し高い、鼻にかかった声。思わず振り返ると、高身長の男性が、もう一人の男性の腰を抱いて、楽しそうに笑っている。
不意に、腰を抱かれている男性が横を向いた。滑らかな白い肌、形のいい眉、それから、あの蠱惑的な笑顔。
「なんだ、そういうこと、」
小さな呟きは、雑踏の中に溶けて消えた。あの日彼が言った『そうじゃなくて、』の続きを、今になってようやく理解した。
彼は、ふらつきながら立っている私には視線もくれず、ただ、その男性を、愛おしそうな目で見つめている。なんで言ってくれなかったのだろう、と、責めるような気持ちが沸いたけれど、彼は伝えようとしていた。ただ、私が聞かなかっただけだ。
それに、あの日に何を聞いたとしても、きっと私は、慰めるための嘘だと唾棄していただろう。そう思えば、あの日に伝えられて、彼の恋心を否定するような女にならなくて、良かった、と思った。
「お店きまったよ!いこ!」
数メートル先から、同僚が私を呼ぶ。ごめん、今行く、と返事をして、私は買ったままにしていた水を取るために、屈んだ。
蝉の死骸を見つけた。あぁ、夏が終わったのだ、と思った。