ふすまの向こう側には正体不明の君
僕は誰もいない家の中で見慣れた天井を見ていた。今の時間だと同世代の子たちは登校して、きっとまじめに授業を受けているだろう。僕はといえば、時間が来るまでベッドの上で身じろぎするぐらいだ。
僕は高校に行くことができなかった。成績や費用の問題ではなく、中学の時にかかった病気が原因だ。
原因は不明。ただ一日のうち午前中だけ体を起こすことができる。血圧や血糖値なんかが悪さしているらしい。
そんな状況では学校に通えるわけもなく、合格はしたが、すぐに休学扱いだ。
最初の頃はクラスメイトがお見舞いに来てくれたりしてくれた。家族だって心配してくれたり、大病院で検査をしたり高名なお医者さんを探してくれた。
でも、もう治る見込みはないと分かってしまったのだろう。今では見放されてしまったのか、義務的に食事が用意されるぐらいで、会話することもほとんどなくなってしまった。
どうやら僕の人生は袋小路、詰みになってしまったらしい。
そんな変わり映えのしない日々を送りながら、一日のうちで活動できる僅かな時間を浪費して、ベッドの上で横になった。
その時に音がした、家の中をドタドタと走り回るような音だ。顔を横にして時間を見る、まだ家族が帰るような時間ではない。
泥棒か何かだろうか。警察に連絡したくても、首から下は固められたように動かない。音が階段を上り、次第に近づいてくる。
乱暴にドアが開け放たれた。
何か黒い影のようなものが見えたが、それも少しの間。何かが部屋中の押入れへと隠れてしまう。
僕がぴくりとも動かないから気付かなかったのだろうか? それに人間にしては何かおかしい動き、動物のようにも思える。だから僕はふすま越しに、隠れた何かへ声をかけてみることにした。
「そこの押入れに隠れた君」
ぴったり閉じられたふすまへ声を投げかけてみた。
返事は無かった、いやそう思うより早く戸が横に叩きつけられる。気付いた時には、何かがあっという間に僕の上にのしかかっていた。
視界が黒い大きな手でふさがれた。僕の顔を一揉みにするぐらい大きい。
次いで 荒々しい息遣いが聞こえる。息切れしているかのような忙しい呼吸音。
圧倒的な存在感を持つ何かが、僕の頭を掴んでいる手にぐっと力を込めたのがわかった。
でも、抵抗はできない。
正体不明の何かに僕は抗う術を持たない、たとえ健康体だったとしても。
一直線に近づく死の気配を前にして僕はぽつりとつぶやいた。
「もったいない」
なかば投げやりな気持ちから出たつぶやき。死んでしまいたいと思ったことは一度や二度ではない。
でも、終わりになるなら、目の前の何かを知りたいと思ったんだ。
今にも頭を握りつぶそうとしていた手がぴたりと止まる。それから困惑しているかのような雰囲気が伝わってきた。
言葉は伝わるらしい。それなら、
「僕を殺したら次は家族を殺すことになる。ここに入れなくなるよ?」
相手が何もしないなら、僕は黙っている。そう言外ににじませた。
数十秒、静かな時間が続き、頭を握りつぶそうとしていた手の力が緩められた。
僕は相手の姿を拝もうと思ったのだけど、何かはすぐに押入れの中へ隠れてしまう。
「それで君は?」
もう一度、言葉を投げかけてみたけど、返事は返ってこなかった。どうやら恥ずかしがり屋さんらしい、本当のところは知らないけど。
それから僕はぐっすりと眠ってしまった。意思に関係なく訪れる、僕が受け入れないといけない時間。
次に目を覚ました時、辺りは真っ暗でまだ夜だということがわかる。まだ体が動くようになる時間じゃあなかった。
僕は昼間の出来事が夢か現実だったのか知りたくなり、ふすま越しに呼びかける。またしても返事は無い。こうなると白昼夢でも見たのかと思ってしまいそうだ。
『病 か?』
残念に思っていると頭上から声が振ってきた。
姿は見えない、聞こえる声はくぐもっていて、男か女かすらわからない。
「そうだよ、日中じゃないと動けないんだ」
せっかく答えたのに相手から返事が無い。それが悔しく思えて、僕は相手から言葉を引き出そうと思った。
「こんな病人を殺す必要なんてなかったでしょ?」
二つ目の問いかけをすると、長いこと考えているような間を感じ、それからようやく、
『そう だな』
すごく短い返事が返ってくる。その晩の何かとのやり取りはそれで終わりだったらしく、僕は諦めて寝入った。
翌日がやってくる、カーテンからわずかに漏れる光が朝だということを伝えていた。
一階に下りて、いつものように用意されている食事を暖める。
ふと、僕は何かの食事をどうしようかと思った。人間の食事でいいのだろうか、やっぱり肉だろうか、野菜や果物も食べるのだろうか。とりあえず二階に持っていくことにする。
僕は部屋に戻ると何かに呼びかけた。
「ご飯食べる?」
返事は無い。僕はふすまを開けてみることにして、取っ手に手をかけて横に引っ張った。まるでびくともしなかった。いつもはあっさりと開くふすまなのに。
「ふんっ!!」
だから僕は思いっきり力を、体重をかけて全力で開けようとしてみた。だけど1ミリたりとも、ふすまが動かない。まるで中から押さえつけられているように。
仕方が無いので、僕は自分のことをする。お風呂に入ったり、薬を飲んだり、それから勉強だ。いつか病気が治って、普通の生活を送れるようになった時にそなえて。
それが叶う兆しは全く見えないけど。
日課を済ませると、置いておいた皿からは料理が消えていた。一応用意してみた箸やスプーン、フォークが使われた形跡はない。
「美味しかった?」
人間の食べ物でいいのか知りたかったのだけど、やはり何かから返事は無い。
眠る時間が近づいてくる。僕はベッドに横になる前に、不意を突いてふすまを開けようとする。
やっぱり堅く閉ざされていた。
体が動けない時間になったけど、不思議と僕は眠ろうとする気にはなれなかった。
いつもは眠ることしかできない。でも今は、何かがいる。彼、彼女に話しかけるのはとてもわくわくして楽しい。
僕は今日の話題を何にするか考える。
考え付いた問いかけは、
「ねえ、君はどうして姿を見せてくれないの?」
たった一日とはいえ、一緒に暮らしたんだから、名前や姿を見せてもいいと思った僕はおかしくないはず。
返事はないかと思ったけれど、相変わらずの不可思議な声が答えを返す。
『見れば おびえ すくむ』
姿を見せたくないという拒絶の答え。でも、裏を返せば、そうさせたくないという気持ち。
僕はそう受け取ってちょっぴり嬉しくなった。
「じゃあ、おやすみ」
今日の短い成果に僕は満足して目をつむろうとすると、
『おいし かった』
寸前に珍しくあちらから返って来た言葉。一瞬、何のことか分からなかったけど、すぐに思い当たる。
気に入ってくれたのは目玉焼きだろうか。
僕はずいぶんと久しぶりに、興奮して寝付けないという気持ちを覚えた。
二日目の朝を迎えた。体が動くようになったのは9時頃だ。一度、家族が部屋にきたがすぐに出て行く。
何かの存在がばれないか冷や冷やしたけど、幸い家族は何も気付いていないようだった。
この日、僕は日課としていた勉強をしなかった。体が動く時間をひたすらふすま越しの何かに使う。
今日もふすまが開くことはなかったし、問いかけ全部を応えてくれることはなかったけど
それでもいくつか質問に答えてくれた。
人間なのか?
解っていたけど返ってきた言葉は否定。正体については教えてくれないらしい。
名前は?
何か言いかけたけどすぐ押し黙る。
何でこの家に?
追われてたらしい。誰にと、聞いたらまた黙ってしまう。
わずかな成果に不満だったが、午後がやってくる。その時には、僕は電気を消してベッドに入っていた。
それにしても、何かはつくづく不思議な存在だと思う。人間ではないというし、でも普通に会話ができる、普通ではないか。でも、今の僕には何かと話すことは一番の楽しみだ。
ただ何かは今の状況をどう思っているんだろうか?ずっと押入れの中に閉じこもっている。
怪我でもしているのか、傷を癒しているのか。
『キミ』
考えをめぐらしていると何かが呼びかけてきた。まるで僕が呼びかける時のように、いつもとは逆の状況にすごく心躍る感じがする。
「なに?」
『いつまで ベッドのうえ なんだ?』
何かの問いかけは、僕が考えるのを避けている事だ。けど、この時はなぜか落ち着いて答えることができた。
「たぶんずっとこのままさ。たまには出かけたりしたいんだけどね」
いつまでも、自由な時間は午前中だけ。そうして、いずれは終わりを迎えてしまうんだと思う。
あ、考えたら泣きたくなってきた。
『なら よるに つれだして やる』
そんなことできるのだろうか?何かは、ずっと人に、僕にも姿を見られないようにしていたのに。
でも、そうできるならそれは楽しそうなことだと思う。
「楽しみにしてるよ」
『ねて いろ』
僕は何かの言葉を受け入れて眠りについた。きっと楽しいことが起きることを願って。
体が揺れる感覚を覚えて目を覚ます。辺りは暗くカーテンが夜風にゆれている。僕はベッドの上ではなく、でも、場所はいつもの部屋だ。
『おきた か』
何かの声がすぐ真後ろから聞こえる。思わず振り向こうとしたけど、首はそれ以上動かなかった。
『みる な』
いつものように何かが僕を制止する。
それから状況の理解が追いついてきた。真後ろからすっぽりと抱え込まれている。よほど体が大きいのかもしれない。
あちこちゴツゴツとして、ふさふさしていて、どこかやわらかい。それでいて甘い匂いがする。
『いく ぞ』
そんな僕の感想を他所に、何かは窓から飛び立った。
久しぶりに浴びる月の光はどこかまぶしい。そして、久しぶりに感じた夜の空気で寒い。
「さむい」
僕がそういうと前側を何かの腕らしきものがうめた。黒くてゴワゴワしているように思える。
風が何かの腕をなでていた。
どこに行くんだろう?
あてのない夜の散歩に僕はどこへ行くのかを、何かへ尋ねた。
『あては ない』
何かもあてはないらしい。
「そっか」
何かと僕は人目を避けて、時に飛び上がったり疾駆したりする。とても怖かった。もう少し手加減してほしい。たぶん一時間ぐらい夜更かしをしていたと思う。
どちらからともなく帰る雰囲気になったので僕たちは出て行った窓から部屋に戻った。きっと家族はこんな事をしていたなど知らないだろう。
楽しかった。とても楽しい時間だった。
何かは僕をベッドの上に寝かせると掛け布団をそっとのせてくれた。
「あの、顔をふさいでる手をどけてくれない?」
『だ め』
どうやら今日一番の楽しみ、どんな姿をしているか見るのは失敗したらしい。結局、何かは僕に姿をみせずに押入れへと戻った。
何かが消えた押入れを見つめながら僕は思う。後どれぐらいこういった楽しいことが起きるんだろうか。何かの気分しだいで、ここを去っていくのがとても怖い。
だから僕は思わずふすま越しにたずねてしまった。
「君はいつまでここにいるの?」
僕の小さな問いかけに、何かはこちらにしっかりと聞こえる声で言った。
『ずっと いる よ』
夜の散歩から一ヵ月後のことだった。不思議なことに用意されている食事の味付けが変わった。それに目玉焼きには卵のカラが混ざってたりする。とうとう愛想をつかされて、食事も手抜きになってきたのだろうか。
久しく家族の声も聞いていない。でもあまり気にならなくなった。
今も、夜に何かと交わす寝物語は楽しい。だから僕は寂しくない。寂しくないんだ。
ホラーなのか、異類恋愛なのか、「僕」の妄想、イマジナリーフレンドか。
はたまたどちらが魅入られた話なのか。見る人によって変わると思いますが
あなたが出した答えが作品の終わり方です。