名前
「あなたはなんという名前ですか?」
パメラの下手くそな駄々を捏ねたことにより、魔王が一行の仲間となったあとのことだ。
座り込んでいつまでも夜にならない空を見上げていたパメラは魔王に質問した。
隣で立って足元を見つめていた魔王は顔を上げ、ぽかんとしたあと困ったように笑う。
「……もともと持っていた名前は忘れたかな。なんせ千年も前だよ? なにも覚えていないよ」
「ほんとうに?」
冷たく言い放つティトへ、魔王は眉を下げた。
「嘘をつく理由がないと思うんだけど……。ああ、僕が自分の名前を教えることを警戒していると思った?」
「ええ。おごりたかぶった思考のあなたのことですからね、渋っているものと思いまして」
「たしかに名を教えて悪用されるのは嫌だけど、僕は僧侶くん程度の魔法使いに呪縛されるほど弱くないよ」
「……っ」
「おい、ふたりともやめろ。仲良くしろとは言わないが最低限の関係性は作ってくれ」
ギスギスした空気に耐えかねてグローシェが間に入る。
「次やったら、マジで『これ』だからな」
言いながら胸の前で両手を狭める動作をする。どう甘く見ても頭部を挟み込み粉砕する動きであった。
オークの握力なら苦も無く出来てしまう。それをしないのは、彼らに忍耐と良心が存在するからだ。
一気に静かになる空間の端でネクタがこっそりと真似をしていた。
「お嬢、続きをどうぞ」
「あ、はい」
咳払いをしてパメラは続ける。
「魔王、もしかしたらですがあなたの名前のヒントとなる情報があります」
「ヒント?」
「イルハ・アンドゥー。勇敢なる王、魔王を倒し世界を救った英雄の名です。聞き覚えは?」
一度は傾きかけたパレミアム王国を復興させた王。
国外から来た者であったが、魔王討伐以前より国の守護に熱心に務め、民に寄り添った政治と献身的な働きによって『賢王』と名高い。
また、イルハは女神メァルチダが肉体を持っていた頃より親交があった。イルハの血を後世へ繋げることを条件に、メァルチダはパレミアム王国に加護を与えていると語り継がれている。
「……ない、とは言い切れないかもしれない」
「さすがに千年以上前なので正確な発音ではないでしょう。ですが、さきほど私とあなたが見た誰かの記録の中で――今のあなたと同じ背格好と衣服の少年がふたり出てきました」
今の魔王は異形の姿ではない。
ぼさついていたうねりのある長髪は今は清潔感のある短髪の黒髪になっている。服は黒いローブ姿ではなく厚ぼったい生地で作られた詰襟だ。背丈としてはティトと並ぶほどで、肌には羽毛も入れ墨もない。赤色の瞳と黒色の瞳はそのままであるが、その顔つきは若い青年のものであった。
「イロハと、クレハ。その名前に『女神の輝石』が……いえ、メァルチダ様が反応をしたように思えました。イントネーションからしてもイルハ様は当時イロハと呼ばれていた可能性があります」
パメラは言いながらそっと左胸に手を当てる。
「でも……メァルチダ様のことは私の思い違いかもしれません。彼女の自我は消えているはずなので」
「僕の封印が千年以上の時間の中で劣化していたように、あの子の自我がなんらかのきっかけで戻っていてもおかしい話ではないよ。それで? 結局、聖女ちゃんは何が言いたいの」
「そうですね、結論を急ぎましょうか。勇者イルハと聖女メァルチダがあなたが封印した理由は、殺せなかったのではなくて、殺さなかったのではないかと思いまして」
「どういうことですか? 力不足だったのではなく、他に要因があったと?」
腕を組んで聞いていたティトは首を傾げた。
グローシェは魔導大板で掲示板を見ている。パメラが短いとはいえ書き込みをしており、話しながら掲示板も見ているのか……と内心引いていた。
「はい。幼少の頃より引っかかってはいましたが――なんとなく、あの記録を見たことで疑問が解けたように思います」
青い目で、魔王を見据えた。
「あなたは、イルハ――イロハ・アンドゥーのきょうだいだったのではないですか? だから肉親であるあなたを手に掛けることができなかったのではないかと、そう思うのですが」
「……」
ティトとグローシェはそっと明後日の方向を向いた。
魔王は目を閉じて喉の奥で笑った。
「単純に彼らが弱くて僕を殺せなかったってオチならどうするの」
「それはありえないと思います。私は、ここまで国を存続させたイルハ様と、加護によって国に繁栄をもたらしたメァルチダ様の強さを疑っていませんから」
一切の疑いを持たない声音だった。
そう教えられてきたからというよりは、彼女の意思によってその結論に至っているのだろう。
ふいに何かに気づいたようにひとの形をしたネクタがパメラの後ろに座る。
「きょうだい、きょうだいか。……自分でも驚いているんだけど、覚えているもんだな。どっちが上かは忘れたけれど、たしかに僕と彼はきょうだいだった。だから殺せなかったのか。そうか、あの時泣いていたのは、そういうことだったのか……気づかなかったな……」
魔王の言葉の後半は誰にあてたものでもない、独り言のようだった。
「きょうだいだとした場合、聖女ちゃんのたどり着いた解答は?」
「はい。あなたは――『クレハ・アンドゥー』ではないかと」
パメラは話しながら目をこすった。ネクタは彼女の背中にくっつくようにして寄りかかる。
「……クレハ」
「その名を必ず使えとはいいません。でも、呼び名があったほうが、きっといいので……」
「そうだね。うん、クレハ。よくこの名前を口にしてた気がする――それは都合のいい記憶改変かもしれないけど」
わずかに目元を緩めて、彼は言った。
「分かった。僕はこれからクレハと名乗るよ」
パメラからの返事は無かった。
このほんの僅かなあいだに眠りに落ちていたからだ。
ネクタに支えられるようにしてくったりと座った姿勢で眠っている。できるだけ揺らさないように気を払いながらネクタはパメラを横にした。
「お嬢の限界が近いと気づいていたんだな、ネクタ。ありがとう」
ネクタはピースサインを作った。
「待って、今の流れで寝る!? そんなことある!?」
「静かにしてください。パメラ様が起きたらどうするんですか」
「え……僕が悪いの!?」
「うーん……元はといえばあんたのせいでお嬢が負担を被っているからなあ……」
これ以上の文句は不利だと感じたのか、クレハは口を噤んだ。
「まあなんだ、これからよろしく、魔王」
「パメラ様にちゃんと従ってくださいね、魔王様」
「名前で呼んでくれないんだ……」
まだ彼らの間に深い溝があるようだ。




