紫煙に消えた
27歳の夏、ここ何年かの中では然程暑くは感じなかった。
その夏あたしには恋人が居た。
正確に言うとその年の冬と春の間で、どちらの季節に属しているのかとても曖昧な、冷たいのにどこかジリジリとした日差しが強い時期から続いていた恋人が居たのだ。
彼は瞬という名前で、年はあたしの一つ下の26歳で、職業はホストをしている。
出逢ったのは勿論彼の勤める店だったけど、最初に接客してくれたのが彼だったわけではない。
あれは友達とホストクラブに初めて行った夜の事。
会計を済ませて店を出て僅かに歩いた頃に、今来た道の方から覚えの無い声があたしの名前を呼んだ。
もしかしたら忘れ物でもしたのかも。
そんな思いでゆっくりと振り返る。
息一つ乱す事無く振り返ったそこに立つ彼がどうやらあたしの名前を呼んだみたいで、ホストクラブなど誘われて興味本位で来た今回が初めてな上、彼の服装、身のこなしから察するに90%ついさっきまで飲んでいた店の男の子だと言うのは紛れもない。
「何か忘れ物でもありました?」
彼に向き直るなり間髪入れずに聞いた。
「いや、忘れ物じゃないんだけどね。」
では、なんなんだろう。
会計の金額だって間違ってないはずだけど・・・・・・。
「ああ、でも。忘れ物といえば忘れ物かな。」
自信に溢れたような彼がにこりと笑いながら、焦らすような物言いをする。
結構背のある彼は少し浅黒く健康的に日焼けしていて、ちらりと見えた白い歯が一層その色を引き立たせている。
ホストクラブで働くだけの事はある、などと思いながらも内心早くこの場から立ち去りたい気持ちが勝っていた。
何故ならあたしの右肩にははしゃぎすぎて酔いつぶれかけてる友達の全体重が掛かっていて、当の本人は持たれて歩くのが精一杯。
意識を飛ばしてはいないものの、それももう時間の問題だと思う。
いい男だけどまどろっこしい言い方は好きじゃないし、この状況下では尚更回りくどく思えてならない。
あたしが何も答えずにいると彼がまた口を開いた。
「君の連絡先、教えてもらおうと思ってさ。」
「え?あたしの?なんで?話してもいないのに。」
「むしろ話してないからじゃん?てか連絡先聞くのに理由ってそう必要ないでしょ。」
まるで俺の何が間違ってるの、とでも言いたそうな顔で彼は答えるや否やもう既に携帯を手に取っている。
あたしの方が何か変な事言ったのかな・・・・・・。
そんな事さえ考えてしまった。
「ほら、早く携帯出して。」
「え?あ・・・はい。」
言われるがままにあたしは空いている左手でバッグから携帯を出そうとした。
が、さすがに片手で一連の流れをこなすには少々困難である。
「ごめん。片手じゃきついよね。俺が取っても良ければ取るよ。」
「あ・・・じゃお願いしま」
そう言い掛けてバッグを彼に渡そうとしたのだけど。
すっと彼はあたしの横に立ち、肩から少し無造作に掛けていたバッグの中を覗き込んだ。
「見るよ?どの辺にある?」
「多分ポケットの中に・・・」
たどたどしくあたしは携帯の在り処を説明する。
彼との距離ほんの数センチ。
別にイケメンに目がないとか、彼が好みだとかそんな事はないけど、何だか心拍数が跳ね上がった。
携帯を取り出す時にじっとこっちを見るのでとても目を合わせる事が出来ない。
あまりの近さに彼から匂う香水のせいで一度冷めた酔いが舞い戻った気がした。
「うん、あった。じゃ登録しとくね。」
あたしの携帯を慣れた手つきで操作して連絡先を登録すると、彼は今度は手だけを伸ばしてバッグの元あった場所に携帯をしまってくれた。
「ごめんね、友達抱えてるのに引き止めちゃって。気をつけて帰ってね。」
「いえいえ。ありがとう。じゃあ・・・。」
また、とも言えず少し素っ気無い感じにあたしはそこを立ち去った。
何しろ右肩が重い。
繁華街も元々特別好きじゃないし。
そこからすぐタクシーを捕まえて友達と、すぐとけてしまいそうな魔法のような空気を連れて帰宅した。
翌日朝起きるとメールが届いていた。
昨日の彼からで、内容はいたってシンプルな一行。
「おやすみ、またね。って・・・・・・・・・・。」
友達が隣にいるのも忘れて思わず口に出してしまう。
よって帰り際の一連の流れを説明する事に。
すると常連である彼女から色々な情報を得た。
昨日の彼は瞬という名前である事。
あたしの一つ年下の25歳である事。
あの店のNO.1ホストである事。
なんだ。
NO.1って・・・どうりで何か色々スムーズに話進めるわけだ。
でも見る目は外れる事もあったって事だね。
だってあたしは普通のOLで、お金持ってるわけでもなければ、無理してお金作ってホストクラブに通うわけでもないから。
だから また。 はないの。
そう苦笑した後何故だかとても虚しい気持ちに襲われた。
彼とは、瞬とはそんな出会いだった。
それから1週間ほどはあたしからは勿論、彼からの連絡はなかった。
正直携帯のアドレス帳を開かないと、存在さえ夢だったかのように彼はあたしの頭から出て行きかけていた。
更に1週間くらい過ぎて、彼からのメールが届く。
彼が珍しくオフが取れたらしく食事でもどうかとの誘いだ。
行く理由もないし、会う必要もない。
というかそもそも客になるつもりもないので連絡を取り合う必要もない。
あたしにとっても彼にとっても何の利点もないわけで、特に彼は恐らくあたしよりは倍は忙しいはずで、店に来るか来ないかもほとんど当てにならないようなあたしの機嫌とりなどするのは無駄に等しい。
まぁ彼からすればこっちの考えなど知る由もないから仕方のない事なのかもしれない。
きちんと話してあげた方が彼の為になるだろう。
頑張っているであろう彼の時間を割くなんて。
そんな罪悪感だけが何故か心にあった。
その晩、あたしは彼の誘いに乗りきちんと話をしようと思った。
何度シミュレーションしてもどう切り出していいか解らなくて、結局正直に思ったままを話そうと決めて待ち合わせ場所に向かう。
「玲!こっちこっち。」
耳のどこかで彼の声を覚えていたみたいだ。
呼ばれたのは2度目で、呼び捨てにされたのは今が初めて。
でも少しも嫌じゃない自分が居て理解できなかった。
さぁ言おう、何度タイミングを計ったのか。
結局何も言えずにその日は終わってしまった。
次こそは、次こそは。
そう思って幾日も経っていって、その間彼とは連絡も取り合っていて、でもあたしから連絡をする事はしなかった。
もしかしたら無意識の抵抗だったのかもしれない。
彼の役には立たないんだから期待はさせちゃいけない。
あたしの為にはならないんだからのめり込んではいけない。
そう思いつつもどうしても大事な事を切り出せずに時が過ぎて行った。
そうして瞬と出会った日から1ヶ月ほどした春の初め。
いつの間にかあたし達は付き合い始めてた。
店にだって行ってないし瞬にはどんなメリットもないだろう。
だから最初彼から付き合ってと言われた時は断ったのだ。
でも3度目に言われた時にもう意地を張るのも馬鹿らしく思えた。
いつの間にかあたしは彼を好きになっていて、例えばこの関係がこれからどう変わっても、彼の中に嘘があったとしてもそれも受け止めようと。
彼がそうだと言うなら信じてみればいいと。
そうしてあたし達は付き合い始めたのだ。
あれから役半年足らず。
あっという間だったけど、何だか長いようで短い。
それでもお互いもう何年も一緒にいるような、かと思えば昨日出会ったばかりのような不思議な間隔が残っている。
あたしは当時と今はあまり変わってないとは思うけど、瞬は日を増すごとに変わっているような気がする。
そうヤキモチと言えば可愛らしく聞こえるけど、瞬のそれは嫉妬や独占欲そっちに近い。
言葉にこそ出さないが、態度や表情に出るのですぐに解ってしまう。
それについてあたしはあしらったりもするけど、本当に時々数えるくらいではあるけど、彼が怖くなるときがあってその時だけは、態と嫉妬に気付かないフリをしてしまう事もある。
「玲、俺今日同伴だから少し早く出かけるね。」
「そう、頑張ってね。気をつけていってらっしゃい。」
瞬はいつからかこんな風に毎日報告の電話をしてくれる。
あたしが不安にならないようにとか思ってくれているのかもしれない。
だからあたしも気持ちよく返事を返す。
「なぁ、お前は俺の事どう思ってんの?」
突然瞬の声色が低くなり真剣な話をする時の口調になった。
「どう・・・したの?急に。」
「いや、なんでもない。じゃあ行って来る。店終わったら寄るから。」
「うん・・・わかった。待ってるね。」
電話を切った後また思い出に耽ってみたけど、瞬の様子が引っかかって胸騒ぎが晴れる事はなかった。
AM2:00
瞬が部屋に来た。
最近仕事が終わるのも早いし、お酒も全然飲んでない日と飲みすぎる日とばらつきが激しい。
ちょっと心配だけど瞬も考えがあってそうしてるんだろう。
仕事の事よく知りもしないあたしがいちいち口を出そうとは思わなかった。
「おかえり。疲れてない?」
「うん。最近早く上がらせてもらってるしそんなに疲れないよ。」
「え?どうしてそんな事してるの?お客さん寂しがるんじゃない?」
意外な瞬の言葉に思わず聞くと彼の笑顔が消えた。
「なんでって、少しでも玲に会いたいからだよ。」
さも当然のように答える彼は絶句したあたしに続ける。
「何?まさか玲はあんま会いたくないとか?」
「そうじゃないよ。だけど仕事なんだしさ・・・それにお客さんだってきっと出来る限り瞬に会いたいって思ってると思うよ。」
「俺の客は玲に俺を盗られたとか思うのかね?」
「え・・・・・・?」
瞬は答えにならないような答えを言い放つと自信たっぷりの皮肉な笑顔を浮かべる。
ソファに少し乱暴に座り煙草に火をつけた。
ふーっと長い息と共に出てきた紫煙は、天井まで昇る事はなくしばらく霞のように瞬を取り囲んでいる。
それを見ていると何だか彼がとても遠くに行きそうで、言いようのない切なさと痛みが込み上げてきた。
今のあたしは自分でもどんな表情かわかる。
それに気付いたのかそうでないのか、瞬はいつものように優しく微笑んで自分の座るすぐ横をぽんぽんと叩く。
「おいで。」
その一言であたしは魔法にかかる。
いいえ、きっと。
出会ったあの夜からずっと、あたしは彼の魔法にかかっているのだ。
「玲。仕事やめてずっと側にいろよ。」
あたしは彼に正面から抱きついたまま彼の言葉を反芻する。
彼も左手は煙草を持ち、右腕であたしの腰を支えながら背中をソファに預けていた。
凄くゆったりした時間の中での今の言葉はきっと、目を覚まさせるには十分のはずだったけど、どこか不思議な程冷静な二人があって、まるで二人ともがその先は決まっている事を知っているみたいに言葉を紡ぐ為の“間”だけを計っているみたいな、そんな空気が流れている。
「うん。」
深く考えずに返事をした。
彼の魔法にかかったあたしには考える必要もない。
断る理由もない。
それでも何かとても大事な事をあたしは今でも言えずに、彼の心を窺って“その時”が来る事も知らずに居た。
けれで時は少しずつでも確実に訪れてきているのだ。
あの日以来あたしは職場にも退職届を出し、部屋を引き払って瞬のマンションに住むようになった。
もし誰かがあたしの出入りしてる所を見たら、とかそんな事も少しは考えたけど、あたし自身一緒に居れる事は嬉しいし、何より瞬がそれを望むならその通りにしたいと純粋に思ったからだ。
少し前のあたしなら彼の為にならないとか言ってたかもしれないけど、この時分既にそういう事ももう気にも留めなくなっていたかもしれない。
それからしばらくすると瞬は店を休みがちになっていった。
中には理不尽な客もいるとか、無理難題ばかりでしんどいとか色々と理由をつけてはさぼるようになってしまったのだ。
そんな日が続き、彼の誕生日も過ぎて少し経ったある日、ついにその時は訪れた。
ここ何日か降り続いてた雨が止み、秋だというのにも関わらずまるで季節が逆戻りしたみたいに暑い日だった。
久し振りの暑さのせいだったのかそれとも、他に原因があったのか。
少しずつ着実に積み上げてきた積み木はバランスを失えば崩壊するのはほんの一瞬で事足りる。
お互いに苛々としていた気分で些細な事が口論にまで発展した。
彼の真剣な、怒気を含んだ瞳が目の前にある。
あたしはその視線から逃れられそうにもない。
前には瞬の冷たく燃える眼光、後ろには硬くひんやりとした壁。
何故こんなにいつもより、彼の顔がはっきりと見えてるんだろう。
ああ。あなたが。
あたしの前髪を鷲掴みにして痛いぐらいに強く壁に押し付けているからだね。
どうして?耳も何だかいつもより聞こえてるみたいよ。
まるで今までのあなたの言葉は夢の中で囁いてたみたいに、壁に押し付けられた衝撃で現実に戻ってきたかと思える程しっかりとじわじわとあなたの声が頭にまで響く。
こんな状況にも関わらずあたしは、瞬と出会った以来一番の愛しさに襲われてた。
体の距離だけじゃなくて、心が触れそうなくらい近くなった気がするから。
「お前が何を考えてるのかわかんねぇよ。いつだって俺の言う事に笑って返事して・・・・・・我儘だって言わねぇ。」
僅かな沈黙を破ったあなたに笑みが零れた。
「笑ってんじゃねぇよ。」
掴まれたままの髪と押し付けられた背中に再び衝撃が走る。
そうこれは現実。
やっとあたしはありのままのあなたと出会えたのね。
与えられた痛みがそれを解らせてくれた。
「あたしは、瞬が好きだから何でもしてあげたいし、我儘も言わない。だから・・・・・・瞬の為になるなら別れた方がいいって言ったのよ・・・・・・。」
別れる、そうさっきあたしが言わなければ、きっとこんな愛しいあなたには出会わなかった。
あの一言が二人の距離を、体も心も、一つにしてくれたのよ。
「意味がわかんねぇ。」
「あたしはね。瞬が幸せなら離れてても平気。側に居なくても笑ってるならいいから。」
あたしがそう言うと瞬は掴んでいた髪の毛を離し、煙草に火をつけた。
眩しい日差しに照らされた部屋が紫煙で溢れていく。
それをゆっくりと見ながら、座り込んだ彼の背中に寄り添う。
「玲。」
名前を呼んで煙草を灰皿に押し付けた。
次の瞬間耳元で囁かれた言葉にまた笑みが零れそうになる。
「俺は離れているのは無理だ。側に居てくれるなら、死んでてもいいよ。」
穏やかに目を細めたあなたを愛している。
あたしの少し汗ばんだ首をゆっくりと、でも確実に力を込めていく行為。
出会った頃の記憶が長い刹那に駆け巡る。
あの人たちは誰なんだろう。
あたしのようであたしじゃない。
あなたのようであなたじゃない。
今が本物なの。
愛も行為も言葉も痛みも瞳も、あたしもあなたも。
「スグニオレモイクカラネ」
声の出せないあたしはまた、一つ笑顔を浮かべる。
部屋には未だ白い靄が立ち込めたままだった。