2.持てる者、持たざる者
その大男に案内されるまま、イブラヒムは奥の方まで歩みを続けた。そこら中に奴隷を収める檻は散らばっており、その静けさは却って不気味に感じられた。
「あんた、貴族の坊ちゃんだな」
「…わかるのか?」
「身なりで分かる。しかも相当良い身分だな。あんた、いいタイミングで来たよ」
奴隷商と思しき大男は、その威圧的な顔にニヤニヤと笑みを浮かべた。
「さあ、ご覧くだせぇ。こいつぁ亜人奴隷の中でも、滅多に見ることが出来ねぇシロモンだ」
奴隷商がベールを剥がすと、そこにあったものにイブラヒムは我が目を疑った。そこに入れられていたのは、獣の様な耳も角も持たない、ほとんど純粋種の人間と変わらないような女だった。唯一彼女を亜人たらしめるものといえば、腕や背にいくつか残る鱗のようなものだった。鈍く輝くそれは、まるでガンメタルの蛇の皮膚に近かった。
そしてその首筋には、奴隷としての紋章があった。まだ刻まれて間もないのだろう、火傷の様に少し膨れ上がっているようだ。
「こいつは…」
「亜人の中でも特に珍しい、有鱗族…つまりドラゴンの遺伝子が入ってるってやつだ。こいつの生命力は筋金入りで、寿命は200年を軽く越える。
身体能力や魔力、魔力係数がドラゴン並みに高いから、用心棒に使うも良し。なかなかの美人だから、夜のお相手につかうのも自由だ。ウロコにさえ目を瞑れば、そこらへんの上物の女と変わらねぇ。楽しめますぜ」
奴隷商の言うとおり、彼女は控えめにも見ても相当に美しいとイブラヒムは感じた。長く黒い髪に緑色の両眼、抜けるように白い肌、すらりと伸びた四肢は息を飲む程だった。
「確かに上玉の女のようだな…で、値段はどのくらいなんだ?」
「そうだな…金貨50枚でどうだい?」
「ああ、いいぞ。なんだ、たったそれだけで良いのか」
イブラヒムは、金貨が優に100枚以上は入った麻袋を奴隷商に手渡した。そのずっしりとした重さに、奴隷商は呆気にとられたような顔をした。
「釣りは要らないぞ」
「こ、こりゃあ…いいのかい?」
「構わないさ。この女にはその位の価値がある。間違いはないよ」
イブラヒムは折の中でじっと蹲っている彼女を見つめた。
「お前、名前は何だ?」
「……ユーリ・カミールです」
彼女は静かに、そう答えた。その声色からは一切の感情が消え失せたようでもあった。
「よし、決まりだな! 行くぞ、ユーリ。おい、彼女をこの檻から出してやってくれ」
二人は表通りを歩いていた。主人であるイブラヒムが前を歩き、後ろにユーリが控えている様は、典型的な貴族とその奴隷の構図であった。ユーリはその間ずっと俯き加減で、全くの無表情だった。
「もう俺に買われたからには、心配いらないぞ。そんなボロ切れ同然の服よりも、もっと上等なものを用意してやる」
「…そうですか」
イブラヒムの横に付き従えている間、ユーリは一切表情を動かさなかった。まるで一切の感情が彼女の中から抜け落ちてしまっているような、側から見ればそんな印象さえ覚えた。そのことにイブラヒムは違和感を覚えつつも、得意満面の笑みを浮かべ続けた。
「まぁいい。今に俺を選ばれた事が、どれだけ幸運かということが今にわかる」
「……」
ユーリの顔は固まったままであった。
「おい、帰ったぞ」
イブラヒムが帰ってくると同時に、主人を出迎えるために、一瞬にして数人のメイドが駆けつけた。主人に付き従う奴隷の身分としては、当然のことであった。しかしこの日だけは、イブラヒムは少しだけ違和感を覚えた。出迎えるメイドの数が、いつもに比べて少々少ないようだった。
「…? おい、なんか数が少なくないか?」
そう問いかけると、メイドの一人が沈痛な面持ちで俯いた。
「はい…4人ほど、昨日の晩に倒れました。もう二日間ほど何も食べておりませんでしたのと、ほとんど眠っておりませんでしたので…」
「ちっ…使えない。さっさと直さないと、殺すぞと伝えておけ!」
イブラヒムは不快感を露わにしながら、舌打ちした。奴隷というのは一応生物に区分されるので、酷使し続ければ倒れてしまう。しかし奴隷の面倒を見て体調を維持させるのも、殺して新しい奴隷を購入するのにも金は掛かる。それ故に貴族社会に於いて、奴隷を維持し続けることは常に付き纏い続ける課題だった。
「とりあえず、こいつは新入りだ。俺の専属だから、新しいドレスに着替えさせた後、俺の部屋まで連れて来い」
「はい、イブラヒム様」
「さぁ、こっちよ…」
亜人のメイドに手を引かれ、ユーリは別室へと連れ去られていくのだった。
数十分の後に、イブラヒムの自室のドアをノックする音が響いた。
「私です…ユーリです」
「お、準備ができたか? 入って来い」
ドアが開き、すっかり小綺麗になったユーリが現れた。創造していた通り、彼女のすらりと伸びた手足には、上質な布のドレスは非常に映えた。シャワーも浴びてきたのだろう、体の汚れも全て落とし切り、今や体から石鹸の香りすら漂わせていた。
「見違えたじゃないか。ほら、そこを見な」
イブラヒムは部屋の端の方を顎でしゃくった。そこには簡素ではあるがベッドがあり、その上にはイブラヒムたちが口にしている程では無いが、なかなかに豪華な食事がドレーの上に並べられていた。
「普通の奴隷だったら、絶対に口にすることが出来ないぞ。それに、大体の奴隷は地べたで寝てるんだ。さぁ、早く食べな」
「…はい。ありがとうございます」
その食事が並べられた所に座り込むと、ユーリは少しずづ食事を取り始めた。
「うまいか?」
「…はい」
言葉とは裏腹に、ユーリの顔には一切の感動が無かった。眉一つ動かさないまま、ただ黙々と食事を口に運び続けるだけであった。
その様子に、イブラヒムは徐々に苛立ちを覚え始めていた。
「…おい、さっきから何故そう無愛想なんだ」
「嬉しくも何ともないからです」
「な、なんだと⁉︎」
イブラヒムは立ち上がった。自分が食事や服、寝床に至るまで用意してやったというのに、この女はどれだけ恩知らずだと言うのか。すぐにユーリの元に駆け寄り、顔を平手で叩いた。
「貴様…これだけ俺がモノをくれてやっても、何とも思わないのか⁉︎」
「はい」
「奴隷の分際で、傲慢な!」
イブラヒムは再びユーリを平手打ちした。
「なら問いますが、食事や寝床や服を恵んでやれば、私が心から貴方を愛し、股を開くとお思いですか?」
「…⁉︎」
ユーリは冷たい目をイブラヒムに向けた。
「どれだけ与えられても私は奴隷…"人間”ではなく"物”として扱われるのです。今は寵愛を受けていても、他にまた美しい奴隷が現れれば、私は用済みとばかりに捨てられるでしょう。奴隷が生かすも殺すも、持ち主次第なのですから。
どれだけ恩を着せられても、私は奴隷に過ぎない。ただ誰かの為だけに生きる道具に変わりはない。そこに人間としての尊厳は無い…そんな状況で『ご主人様、ありがとうございます。心よりお慕い申し上げます』などと言えると思いますか?
結局のところ、私は奴隷で貴方が主人であり続ける限り、私が貴方に心を開くなど有り得ない。ご理解ください」
「こ…このっ、生意気な口をっ‼︎」
イブラヒムは、力任せにユーリのドレスを引き千切った。ユーリの艶やかな肌と、宝石を散りばめられたような色鮮やかな鱗が剥き出しになったが、それでもユーリは動じなかった。
「私を穢したければ、どうぞ。殺したければ殺して頂いて構いません。でも、いくら貴方が貴族でも、私の心までは奪えない。私は人間です。誇りと尊厳を持った、一人の人間なのですから」
「ふざけるなっ!」
今度は握り拳でユーリの頬を殴った。彼女の体は倒れ、口の端からは血が出ていた。
「誰か来い! こいつを懲罰部屋まで連れて行け‼︎」
すぐにメイドが駆けつけ、ユーリをすぐに引っ張っていった。その間、イブラヒムは怒りで肩を震わせていた。




