完璧な死体
あるいは、愛されたダイヤモンドへ
「あたしさぁ、死ぬんだったら綺麗に死にたいんだよね」
と、彼女は家の前で行き倒れて死にかけだった分際で、ご高説を垂れ始めた。
「よく晴れた日に、陽の光の下で、お気に入りの服を着て、髪をうんと丁寧に梳かして、誰が見たって綺麗だって言ってもらえるような、完璧な死体になりたいの」
――まるで、自分は幸福に包まれて死ねることを確信しているみたいな言葉。
彼女を黙殺しつつも、思わず目を伏せてしまった。彼女の快活な声音が耳に突き刺さる。……死んでいるように生きている自分とは大違いだ。
***
ある朝、玄関先で倒れ伏す少女を発見した。見捨てておく訳にもいかないので、担ぎ込んで寝台に寝かせる。静かに息をしている少女の身体は傷だらけで、眠っていてもその憔悴ぶりが見て取れた。
ややあって、まだ幼い少女とも言えるような年齢の彼女はぱちりと目覚めた。その目を見開いて、一度瞬きする。その視線に縫い止められたように動けなくなった隙に、彼女はさっさと起き上がり、朝食の並ぶ食卓に目を止めると、迷いなく机の前に陣取った。
唖然としていると、人の分の朝食を断りもなしに頬張り、矢継ぎ早に無遠慮な質問をしてくる。
「あんた、死刑執行人なんでしょ? 今まで何人くらい殺してきたの? 今まででどんな死体が一番綺麗だった? 死体の綺麗さって、やっぱり生前の生き様によるのかなぁ」
咄嗟に、覚えてない、と答えた。すると、彼女はわざとらしく「えー」と顔をしかめる。
「殺人を犯した犯罪者には『自分の罪を悔い改めろ』とか『亡くなった被害者のことを一生胸に刻んで』とか言ってる割に、死刑を執行する側はあっさり各個人を忘れちゃうんだ?」
揶揄するような口調に頭が痛くなりそうだ。額を押さえて嘆息する。
「ねーねー執行人」
彼女はパンくずが頬に付いた顔で、歯を見せて笑った。
「執行人なんてやめてしまおうよ」
どこか硬い声でそう呟くと、黒い手袋に覆われた指先でパンくずを雑に払う。綺麗な青い目をした彼女は視線を上げ、そっと微笑んだ。
***
誰でもできるはずなのに、誰もなりたがる人がいなくて、志願者が出ればそれはもうものすごく感謝される割には、死刑執行人の待遇は良くない。何せ、罪人を罰して治安を維持するためとはいえ、やっていること自体は人殺しである。穢れを町に持ち込むな、と町からは出入りを拒否されている。けれど他に選べる職業もなかった。
「酷い話だよねぇ!」と、町外れの墓場、つまり家の前で行き倒れていた少女は腹を抱えて笑った。
どちらかと言えば、お前の方が酷い話だ。突然現れたくせに、挨拶もないなら素性も知れない、家賃も払わないくせに勝手に居座り、でかい態度を取って……。不平不満を漏らすのを堪えて、催促されたとおりに甘ったるい牛乳をこしらえて目の前に置いてやる。
「ありがと」と、顔面が崩れるみたいに口角を上げて、彼女は笑った。
……少しは殊勝なところもあるんじゃないか。少し意外に思う。
「でもこないだあたし猫舌って言ったじゃん、もっと冷ましてから持ってきて欲しかったなぁ」
前言撤回、明日には叩き出そうと思った。
そう毎日決意はしても、毎晩(人様の)布団に顔を押し付けて、体を振り絞るように、酷く苦しげに泣きじゃくる彼女を見ると、何だかその決意が萎える。でも取り敢えずベッドは返して欲しい。
ベッドの脇の床に腰を下ろしながら、一度だけ、その手を握ってやった。子供らしい、温かくて柔らかい手をしていた。「おかあさん、」と彼女の唇が囁いたようだった。
眠ったまま、人殺しの薄汚れた手を握りながら、少女は涙に濡れた頬をそっと綻ばせた。
***
「ねー執行人、海の向こうにさ、耳が尖った人達がいるって知ってる?」
有名なおとぎ話だ。
そう言って一蹴すると、彼女は少しだけ寂しげな顔をした。
「あたしたちの腰くらいしかない人のことは? 山みたいに大きい人のことは? 死んだら宝石になる人のことは? 空を飛んで火を吹くドラゴンのことも、おとぎ話だって言って信じないの?」
まあ、そうだな。頷くと、彼女はさっきの神妙な顔から一転、膨れっ面をする。
「夢がない人だねぇ」
やれやれ、と馬鹿にしたように肩を竦められる。全くもって理不尽だと思った。
お前だって、そんな、夢を見るような年じゃないだろう。十代半ばに見える彼女を諭すと、彼女はけらけらと笑って、「女の子は何歳になったって夢見る乙女だからね」とよく分からないことを言った。
「じゃあこのあたしが、最高にわくわくする、まるで本当みたいな夢物語でも書いて見せようじゃないの」
あるとき彼女は、これまたよく分からないことを言い出し、勝手にノートを強奪すると、数日前に用意してやった自室に駆け込んだ。
「ねーねー執行人、エルフと小人と巨人と宝石と竜、どの話が良ーい?」
半開きの扉から顔だけ突き出して、彼女は明るい声で訊いてきた。何を選んでもケチをつけられると思ったので、何でも良い、と答えたら、彼女はぶつくさ文句を垂れる。
曰く、「せっかく気を利かせて訊いてやったのに」だの、「訊かれたら明確に答えるのが最低限の礼儀だ」だの――。しばらく好き勝手に言い散らすと、彼女はさっと頭を引っ込めた。それ見たことか。何をしても彼女は文句を言うのだ。彼女の我が儘にももう慣れた。……慣らされてしまった自分がいる。
週に一度、町からの商人が訪ねてくる。いつも通り食料や日用品を購入すると、「犬でも飼ったのか」と言われた。購入する食料が増えたからだろう。少し答えに窮した。
躊躇いがちに、そんなようなものだ、と応じる。商人は破顔した。
「俺、犬好きなんだよなぁ」
商人は舌を鳴らして、犬を呼び寄せるような仕草をする。思わず肩を強ばらせたが、物音はしなかった。……流石に尻尾を振って駆け寄るほど馬鹿ではなかったらしい。もし飛び出してきたら喜んで追い出してやろうと思っていたのに、あてが外れた。……それなのにこの安堵は何だ。
その日の晩、いつ出ていくんだ、と訊いてみる。すると彼女はわざとらしく体をくねらせて、「ええ、あたしがいなくなったら寂しくなるんじゃなーい?」などと言い出した。心底余計なお世話だ。変な苛立ちに襲われる。
静かになって良いだろうよ。そう返すと、彼女は少しの沈黙ののち、不意に真顔になった。互いに目を伏せ、無言でスープを啜った。
「そりゃ確かに、ここ、墓地の隣だもんね。……静かな訳だよ」
彼女は窓の外の、大きな白い大理石を見やった。その目線を追う。庭の中央に置かれた墓、――その下には、今まで殺してきた多くの罪人が眠っている。
「あんたはずっと、死ぬまでここにいるんだ?」
一度、頷いた。
「何で? お金がないから?」
別に、そういう訳ではないが、言われてみれば確かにそれもある。
「そっか」
そうだ。
「寂しいひとだね」
寂しいという気持ちがどんなものだか分からないから、寂しいと思ったことはない。
「楽しいことも、心をときめかせる夢も、……何もないで生きているの?」
生きるも死ぬも、肉の塊が動くか動かないかの違いしかないさ。……昔からそうやって過ごしてきた。
「きっとそれ、死んでるっていうんだよ」
ああ、そうかもしれないな。
……死刑執行人には相応しい。
***
あるとき、彼女は突然姿を消した。いつも部屋の中に籠っていた彼女の姿が、家の中にない。慌てて外に駆け出すと、彼女はすぐそこにいた。
雨のそぼ降る薄暗い朝のことだった。大きな白い石の塊の前に、身を寄せるように踞って啜り泣く、小さな背中を見つめる。濡れるから早く戻れ、そう言って連れ戻せば良いだけなのに、どういう訳か妙に近づきがたく、それでいて目も離せずに、ずっと眺めてしまった。
「お兄ちゃん、」
その唇が紡いだ言葉に、気付かなかったふりをして。
わざとらしく足音を立てると、彼女は弾かれたように振り返った。真っ赤になった目頭と鼻先が、こちらを向く。
「……いつから、」
その言葉には答えない。何か見られると困ることでもあったか。素知らぬふりをすると、彼女は俯いて首を横に振った。
***
彼女がここに現れてから、数年が経とうとしていた。
幼さの残っていた頬はすっきりとした輪郭へと変わり、手足も長く伸びた。あまり外に出ないからなのか、そういう性質なのか、白い肌はまるで透き通りそうに滑らかだった。
それでもなお変わる様子を見せないのは、その減らず口と、明るい色をした青い瞳である。
「女の子は肌なんて見せないのよ」だとか言って、長い手袋をした彼女が、今日も今日とてペンを持つ。
来たばかりの頃から書いているそれを、最近になって見せてもらった。彼女の作ったおとぎ話は、海の向こうにある大陸の物語だった。
少女が様々な生き物、例えば羽の生えた馬や歌う花、歩く岩など――と交流して生きていく物語だ。酷く牧歌的。特筆すべきところもない、目的もない、それはまるで本当にただの日記かのような日々が綴られていた。
どうも物語に進展が見られないので、完結はしないのか、と一度訊いたことがある。すると彼女は、「私が死ぬまでには完結させるよ」と答えた。
そうか、それじゃあ長編だな。応じると、彼女は声もなく笑って、「どうだろうね」とこちらを見た。
最近になってその小説が、緊迫感を増してきた。母親の命の危機である。明言はされていないが、病だろうか?
物語は主人公リレットの一人称で綴られており、その母の名は明示されていない。ただ美しいとだけ描写されている。
そんな母親の指先が欠けたところで、数冊目のノートは終わっていた。続きは別のノートに書かれていると言うので、それを探して読み始めた。馬鹿みたいにのめり込んでいると思ったけれど仕方ない。普段何もせず、強いて言っても土いじり程度しかしていないのだ。あとは時おり呼ばれて人を殺す、そんな生活である。他に娯楽などない。……人殺しに許される娯楽は限られていた。
主人公の母は、少しずつ、変化していった。
末端から少しずつ、透き通って行く。その爪先はもう既に透明で、歩くことすらできなくなっていた。
硬くなった母の体を抱き締めて主人公は泣きじゃくる。彼女の母は完全な宝石の像と化していた。透き通る、綺麗なダイヤモンド。ダイヤモンドでできた、等身大の人身像である。
母は僅かに動く顔を、泣き出しそうな顔から、晴れやかな笑顔に変えた。そしてすべて、爪先から頭まで、体の内側から表面まで、完全にダイヤモンドへと変質したのだという。
《お母さんは死んでも綺麗だった》
彼女の手跡はまるで囁くようだった。
《私たちのことをうんと愛してくれた。お母さんはそのことを幸せだと言ってくれた》
文字の向こうで、うっそりと微笑む彼女の、ほの暗い眼差しが浮かび上がるようだった。
《この世に完璧な死体があるのならば、あれがきっとそうなのだろう》
そこで耐えかねて、文字列から目を上げた。恐ろしい、と思った。それはどこか狂気すらを感じさせる筆致であった。詰めていた息をつく。
「読んだの?」
そっとノートを机の上に戻すと、椅子の上で寝ていた彼女が、身を起こした。腰が痛いみたいに慎重に立ち上がり、ゆっくりと伸びをする。
「ねぇ、執行人」
そして彼女は凛とした声で呼びかけた。どこか決然としたような言い方だった。
「どこか、旅に行こう」
そのまま床を二歩ほど踊るように進み、彼女は顔を寄せて目を細める。透き通るように深い目の青に見据えられて、思わずたじろいだ。
「もうここには戻らなくったって良い」
目を見張るくらい美しく育った彼女は、長い髪を背中に流し、真剣な表情でこちらを見ていた。
「私、前にも訊いたよね。その仕事をやめたいと思ったこと、本当に、無いの?」
珍しく、冗談のない声音で呟くと、少し眉を寄せて、彼女は唇を噛む。
「あなたが人を殺さねばならない謂れなんてないじゃない、」
良いんだ、と、彼女の言葉を遮った。彼女は案の定不服そうな顔をする。
「……私、あなたが自分のことも殺しているような気がしてならないわ」
彼女は苦しそうに顔を歪めた。大きな瞳に深い憂いが浮かぶのを、何ともなしに見ていた。
数週間の問答の末、結局押しきられて、またここに戻ってくるという条件のもと、家を出た。大きな荷物を背負って、なけなしの全財産のほとんどを持って。
まるでもう帰る気がないみたいだ。そんなことはないと自分に言い聞かせても、心が明らかに軽くなっているのは否定できなかった。どうやらそれは彼女も同じようだった。彼女はいつになく浮わついた様子で、明るい声で笑いながら馬車に乗り込む。
彼女の目的地はまだ知らない。
馬車に揺られながら、彼女は窓の外を眺めていた。当然のように隣に座ってきた彼女が、唇に笑みを浮かべながら、機嫌よく鼻歌を歌う。
「私は綺麗に死にたいの」と彼女はことあるごとに言っていた。普段に違わず、彼女は不意に、何の脈絡もなく、その話題を口に出した。
「思うに、人の生き様はその死に様に出るんだわ。いつも想像するの、幸せそうな顔をして死んだ人は、一体どんな素敵な人生を送ったのかしらって。……だから私も、私のことを知らない人にも、『ああ、きっとこの子は良い生涯を走り終えたんだろう』と思われるような死体を残したい。そのためにいっぱい心をときめかせて生きたい。だってそれがいっとう美しいと思うから……」
彼女の追い求める『美』というものがさっぱり理解できないなりに、彼女がその『美』に強いこだわりを持っていることは伺えた。
流行りの服や化粧には見向きもしない、彼女はいつだって簡素なワンピースを着ている。時勢に迎合しない、と言外に告げているかのような振る舞いだった。……それはまるで、これからいくつもの時代を超えてゆくつもりでもあるかのような。
***
「たまには美味しいものでも食べよう」と、彼女に無理矢理手を引かれて、名前も聞いたことない町へ繰り出した。
旅先であるこの町は、行商人が多く通る街道の途中にあるらしい。嗅ぎなれない匂いや単語に、思わず腰が引ける。それが分かったのか、彼女は大きな声を出して先導してくれる。
彼女はこういう所を歩くのに慣れているようだった。人の群れを割るでもなく、かと言って押し戻される訳でもなく、すいすいと泳いでゆくかのように、軽やかに流れに逆らって進む。後ろから手を繋いでついてゆくばかりの自分に、彼女は少し得意げに鼻を持ち上げてみせた。
とめどなく波打つように活発な町の中を、彼女に先導され、奥へと滑り込む。それは想像を絶するほどに現実離れした光景で、目が回りそうな、夢か目眩かのような体験だった。
不意に彼女が足を止めた。屋台の売り子をしていた中年の男に、物怖じせずに話しかける。その様子に驚き、思わず遠慮もなしに凝視してしまった。威勢よく指を立てて注文したわりには、会計のときになると、彼女は甘えたような目付きでこちらを見る。思わず渋い顔になってしまった。
「出世払いでどう?」
出世する見込みもないくせに、偉そうに胸を反らして人差し指を振る彼女を一瞥、嘆息すると無言で金を払う。
「どうせ金使う宛がないなら、私に投資した方がよっぽど有意義だと思うんだ」
自分の求める、『美』のためにか、と訊くと、彼女は僅かに頬を歪めて笑った。
「そうだね」
そう言ってはおきながら彼女は、美しさを手に入れることには、まるでこだわりを持っていないようなのだった。化粧もしないしお洒落もしない。髪を結うことも滅多にしない。
女っ気がない、と遠回しに伝えると、彼女は「そんな俗で即物的な美しさには興味はないの」と得意気に笑った。
「自分のしたいことをして、たくさん笑う方が、うんと大切に決まってるもの」
その言葉に納得がいかず、頷けないでいると、彼女は圧をかけるように腕を組んできた。からかうように目を細めた彼女を見下ろしながら、口にはしないまでも陰鬱な気持ちになった。
結局のところ、彼女がどれほど美しさを追い求めても、彼女は完全な美しさを手に入れることはないだろう。そう、漠然と考えていた。……薄暗い性根と汚れた手を持つ自分の隣にいる限り、彼女はどうしたって醜くあらざるを得ないのだ。
***
彼女の綴る物語を、最近、全く見かけない。
彼女が机に向かってペンを動かしているのは見かけるのだけど、それを読もうと思うと、いつもどこかしらに隠されてしまう。
「なに、さっきからきょろきょろして。埋蔵金なんてないでしょ」
彼女はそう言って明るく笑った。
宿の椅子の上でうつらうつらとしていたら、やおら彼女が騒ぎ出す。指にインクをつけたらしい。随分と慌てたような足音で、ぱたぱたと部屋を出ていった。
安い部屋なので、水場といえば便所しかない。外に出て共用の水道でも使いに行ったのか、廊下に面した扉を開けて出ていく音がした。
そっと、片目を開けて、彼女がいた地点を見やる。
インク瓶でも倒したようで、机の上に少量のインクが広がっていた。
指を洗いに行く前にこっちを拭き取って欲しいものである。ため息をつきながら、緩慢な動きで立ち上がる。全くもって仕方がない人だ。
雑巾を手に机に近付いたところで、そこに置かれたノートを見咎める。はっと息を飲んだ。
ここ最近、とんとご無沙汰していた、あのノートだ。急いで閉じた様子で、紙の端が折れている。
……見てもいい、だなんて言われていない。
しかし、見てはいけないとも言われてはいない。
見ない方がいい、と、そう思っても、手は自然とノートに伸ばされていた。そのページをぱら、と繰って、目を見開く。
彼女はいつ戻って来るか分からない。急いで飛ばし読みで先へ進んだ。
《ダイヤモンドの石像となった母を置いて、私は兄とともに海を渡った》
《兄は家を出る直前、私に外へ出ろと言って、自分は家の中へ残った》
《花の影は地平のどこにもなかった。もう冬が来る》
《玄関から出てきた兄は大きな荷物を背負っていた。私の手を引いて、行こう、とだけ告げた》
そのとき、廊下の床板が軽く軋む音がして、思わずノートを机に戻した。耳を澄ませて体を強張らせる。足音は近付き、そして、そのまま通りすぎた。誰か別の客だったのだろう。
……彼女が戻ってくる様子はない。
《向こうの大陸まで渡る船はない》
《中継地の島までどうやって行くの。訊くと、兄は、何も心配しなくていいと答えた》
《兄は暫くして、大きなドラゴンを連れてきた》
《ドラゴンを使役するなんて、とてつもない代償が必要なのに、どうやって話をつけたのか》
《私は気付かないふりをした》
手が震える。これは彼女が戯れに書く、可愛らしい童話なのではなかったのか、と、非難めいた気持ちまで浮かんだ。
《……ドラゴンは宝物が好き》
《何よりも硬くて、とても美しいダイヤモンドが、大好き》
まさか、と、思った。いや、これはただの物語だ。驚きはしたが、そんなに重大に捉える必要はない。
そうだ、これは、彼女が暇潰しに書き綴っているに過ぎない、ただの、お伽噺。
《私たちは海の向こうの大陸へと辿り着いた》
《二人でずっと旅を続けた》
《兄の鞄に入っている麻袋、その中に、拳大より大きい、綺麗なダイヤモンドの欠片がたくさん入っていることを、私は知っている》
《なんて醜いんだろう、と私は思った》
《母はあの造形であるが故に美しかったのだ。こんな、ただの透明の石、何の価値もないの》
《でも他の人にとっては違うみたい》
《兄の鞄は、私が少し目を離した、その瞬間に盗まれた》
指先が冷えていくような気がした。
……そうだ、これはただの物語。彼女の描いた絵空事。
それなのに、どうしてだろう。主人公の瞳の青色が、ページ越しに、挑戦的な光を湛えてこちらを見据えているような気がした。
《兄は鞄を取り戻す為に、犯人の屋敷へと忍び込んだらしい》
《私が森の中で寝ていた間に、だ》
《次に私が兄の姿を見たのは、町外れの処刑場でだった》
《ああ、兄は、宝石にもなれずに死んでいく》
《私は目を逸らせなかった。兄も、群衆の中に佇む私を認めたようだった》
《とても綺麗なサファイア。澄んだ色をした、青だ》
死刑が、執行される。
彼女が、その執行人を、何に準えて書いたかなんて。そんなことは分かりきっていた。
《兄は最後まで美しかった。例え宝石とならなくとも、生きる命はそれだけで美しいことを初めて知った》
《生きるものが美しいなら、死んだような目で頬の血を拭った執行人はどうなのだろう》
まるで、紙の向こうから、彼女にじっと観察されているようだった。思わず肩が強ばる。
《リレット、と、兄は私の名を呟いたようだった》
《「ごめん」》
《――――別に、兄が私に謝る謂れはないのだ》
足音が近付いてきて、慌ててページを捲った。今書かれている時点での最後を、一目見ようと思った。
足音は、部屋の前でぴたりと止まった。
《私ももうすぐ、母と同じになる》
ドアノブが捻られる、金属が擦れる音。蝶番が鳴く。
《私の指先は、もう、ダイヤモンドになってしまった》
《きっと腕の内部も、既に変化している》
乱雑ながたがたとした文字で綴られた言葉。
《これは不可逆変化だ》
彼女はいつだって手袋をしていた。
《こうなってしまったら、あとは彫像として美しく死にゆくだけ》
まるで宝石のように輝く、彼女の瞳を思い出す。
弧を描いたその唇が動き、囁く声が聞こえるようだった。
《――さあ、完璧な死体になりましょう》
彼女の足音が、扉一枚隔てた向こうに聞こえた。
ノートを閉じて、元あった通りに戻す。雑巾はベッドの下に蹴り込み、自分はさっきと同じようにソファに横になった。
彼女が部屋に帰って来る。
「指先に黒い染みなんてついたら、堪ったもんじゃないよね」
全くもう、と、ぶつくさ文句を言いながら手を服の裾で拭っている彼女を、視界の端でずっと見ていた。
また、いつものように、前腕を覆う手袋に、その指先が隠れてしまう、その、一瞬前に。
――きらり、
彼女の指先が、窓からの光を反射して煌めいたのを、確かに認めた。
***
結局のところ、この旅の目的は何なんだと訊いた。それは、自分が見てしまったかもしれないものからの逃避、彼女への疑いから目を逸らすための質問だった。
「……私、ずっと行きたいところがあって」
彼女は肘まで覆った長い手袋をしている。その控えめなレースを弄びながら、躊躇いがちに呟いた。
「そんなに遠いところじゃあないの、でも、その、ずっと行きたいと思ってて、」
彼女が耳を真っ赤にして言い募るのをしばらく眺めてみる。それから一言、良いよ、とだけ伝えると、彼女はぱっと顔を輝かせた。
彼女は明るい声音で語った。
高原の花畑に行きたいのだと、まるで今生の願いでも唇に乗せるように、その長い睫毛を伏せて囁いたのである。
彼女が小首を傾けると、髪が一房、顔に落ちた。元々色素の薄かった彼女が、ほとんど色がないような柔らかな毛先を息で吹き飛ばした。ふっくらとした唇が、何か言おうとしたみたいにもぞもぞする。けれど結局口を閉ざすことにしたらしい。
嘘みたいに美しい彼女が、こちらを見て、僅かに照れたように微笑んだ。
馬車から降りた彼女は、まるで踊るような足取りで道を数歩進んだ。その後を慌てて追い、大股になったところで彼女は高らかに笑った。
「そんなに慌てなくたって置いていきやしないよ」
白い素肌は見えない。覆われたその指先に、爪先に、風が絡まってまとわりつくのが目に見えるようだった。
ろくに舗装もされていないような道を、彼女は、過剰に慎重に歩いていった。
長い髪が風に煽られて大きく揺れた。毛先が踊るのを、ぼうっと眺める。恐らく自分は、すっかり彼女に参ってしまっているのだと思う。
少し先を行っていた彼女が、草をかき分けて、明るい歓声をあげた。彼女が手を放した枝が、顔めがけて、ものすごい勢いでしなって跳ね返ってきたので、思わずびくりとしてしまう。
「ねえ、見てよ執行人」
良い加減その呼び方を止めてくれないか、と、何度も言おうとした。けれどその言葉の一度でも、口から出たことがあっただろうか。その答えは自分が知っていた。
結局何も言わず、頷いてついて行くと、彼女が満面の笑みでこちらを振り返っていた。
果たして、そこには真っ白な花が、緑を下地に広がっていた。思わず息を飲むと、彼女は何故か得意気に笑って、肩を竦める。
「ねぇ、綺麗でしょ」
彼女は囁きながら近付いてきた。素直に頷くと、彼女は実に満足そうに笑みを深めた。
彼女が、いつの間にやら調達していた昼食を草の上に広げる。手袋に包まれたその指先を、ついつい目で追ってしまった。そんな視線を、彼女はさも不思議そうな表情で受け止めて、首を傾げてまでみせる。しかし、笑っている彼女から目を逸らせば、その顔には不意に不安げな色が浮かぶ。それが気がかりで、彼女を視界の端で眺め続けた。
「あっ」
不意に、彼女が皿を取り落とした。草の上に落ちた皿は音もなく跳ねる。何の被害も無かったので平気なのだが、彼女はそんな気にはなれなかったらしい。蒼白な顔をして、唇を噛む。思い詰めたような表情だった。
そんな顔をしなくたって、別に叱りやしない。似合わない慰めの言葉までかけてやったというのに、彼女の顔は晴れなかった。それから、何もしようともしない彼女に痺れを切らして、身を乗り出す。
何が不満だ、言わないと分からないだろう。
すると彼女は一瞬、いつになく反抗的な目付きをした。しかしそれもほんの一瞬のこと、すぐに鳴りを潜めたその強烈な感情に、むしろ拍子抜けする。
「……もう、駄目みたい」
何がだ、と、一度しらばっくれてみた。しかし彼女は苦笑いして、「分かってるくせに」と肩を竦める。
「あーあ、もうそんな頃か」
わざとらしく間延びした声で、飄々と言ってのけたその言葉とは裏腹に、その唇は、分かりやすく戦慄いた。
「ね、取って」
彼女はこちらに手を差し出し、甘えるように小首を傾げた。彼女の前腕を全て覆う、この長い手袋を取れということらしい。
良いのか、と問うと、彼女は自嘲し、目を逸らしたあと、「もう隠しきれないから」と呟く。その表情が、やけに憂いを含んでいるので、思わず躊躇ってしまう。そんな挙動を見て取った彼女が、叱るように手を伸ばしてきた。
「読んだんでしょ? ページ、折れてた」
……それは多分、元から折れていたやつだけど。
思いつつ頷けば、彼女はやはりと言いたげに微笑んだ。若干の呆れも透けて見える、緩い表情だった。
そっと、爪を立てないように、手袋と腕の境目に指を当てた。指の触れた肌は、柔らかく沈み込む。静かな眼差しで、彼女は自らの腕を眺めていた。
「私達は、長くは生きられないの」
不意に彼女は言い、諦観したように目を伏せた。ずっと前から分かっていたことだと彼女は呟く。
「元々、何者かによって創り出された生き物で、生涯において一番美しいときに、その姿を残せるようにと創られているんだよ」
手袋が、するりと落ちた。前腕の半分ほどが陽の光の下に晒される。その硬さに、息を飲んだ。まるで、皮膚一枚、隔てた先に、何か硬いものが、何よりも硬いものがあるみたいな。
「美しい死体を残して死ぬことが、私達にとっての至上の幸せで、それだけが私達の唯一の絶対的な到達点でね、」
手首が、輝く。思わず、弾かれたように手を離していた。信じられないものを見た驚愕のまま、彼女の顔を見つめた。彼女は意に介した様子もなく――とはいえ僅かな失望の色を滲ませながら、ゆっくりと頷いた。
「――私、誰よりも美しくて幸せな石像になりたいの」
幼子が、綺麗な花嫁さんになりたいと無邪気に夢見るような顔をして、彼女はくすぐったげに目を細める。
「ね、だから、いっぱい協力して。あなたが見てきたどんな死体よりも、綺麗になるって約束する。私、あなたの隣で死にたいんだ」
指先から、手袋が落ちた。軽い音を立てて、手袋は緑の絨毯の上に投げ出された。
もし、美しい手だ、と言ってやれたら、彼女は喜ぶだろうか。
彼女の手の向こうに、咲き誇る花が見えた。それがどうしてかなんて、考えなくても分かることだ。
彼女の手は、手の甲も、掌も、指先も、爪も、全て、透明な宝石になっていた。まるで彼女の瞳のように透き通った、……あるいは彼女の目は初めから宝石ででもあったのだろうか。
「もう動かないの。むしろ、ここまで隠しおおせた方が驚きだよね」
苦笑いしながら、彼女が手を掲げた。太陽の光を反射して、きらりと輝いた、それを目で追ってしまう。それを見透かしたように、彼女は笑みを深めて、悪戯げに手を揺らした。
まだ自由に動く腕の先についた手が、力なく振られる。ぎこちなく動く手首と、ぴくりともしない手。柔らかそうな、あの白い腕だって、中はきっと徐々に宝石になってしまって。
「もう、あんまり歩けないんだ。足も同じようになってて、むしろ足の方がちょっと進行が早くてね」
靴を脱ぎながら、彼女が言う。不器用な指先が踵から靴を脱がせようとするのがあまりに危なっかしくて、咄嗟に手を出して手伝ってしまった。
「大丈夫、ダイヤモンドは硬いんだよ」
言いつつ、彼女自身がさしてその言葉を信用していないようなのだ。手伝おうとする気配を感じると、すぐに手を引っ込めて、地面に落ちた手袋を指先に引っかけ掬い上げようとする。
「足はもう当然動かないんだけど、問題は足首が動かないことなんだよね。ここまで上がってくるときは辛うじて動いたんだけど、ちょっと今はどうやら全く動かせなさそう」
そう言って彼女が足首を回そうとするので、慌てて押さえつける。どことなく不穏な、軋む音が聞こえた気がした。
何とか脱がせた靴の下も、手と同じように、透き通る宝石に変わってしまっていた。
「こんなになる前に、足の爪もちゃんと、綺麗に整えておけば良かったなぁ」
顕になった足を見下ろしながら、彼女が呑気に言った。その言葉に、奥歯を噛み締める。
そんなことを言っている場合じゃないだろう、と言って、抱き寄せでもしてやりたかった。けれど、上げかけた手は結局、彼女に気付かれるより早く下ろしてしまい、開きかけた口もそのまま閉じた。
触れれば壊れてしまいそうだ。笑いながら、凍りついた手足を見せびらかす彼女を、絶望して眺めながら、唇を噛んだ。
***
彼女を背負って街に戻った後、すぐに車椅子を買った。それなりに高い買い物になったが、彼女は「私の価値に比べればこんなの安いもんでしょ」と、あっけらかんと笑う。
その言葉に店主は「愛されてるんだな」と応じて、それから冷やかすように背中を叩いてきた。
……違う、とは言えなかった。彼女が言っている「価値」とは、別に自分がいかに彼女を愛しているかを表している訳ではない。ただ単に、死後、彼女を売り払えば、こんな車椅子一つ分の金額など、ほんのはした金だと、つまりはそういうことなのだ。
車椅子に乗って、上機嫌で鼻歌を歌う彼女が、街を見回す。視点がいつもより低く、全てが新鮮に見えるらしい。
「ねえ、私って売ったらどれくらいの値段になると思う?」
道端で買った串焼きを頬張りながら、彼女が当然のことのように訊いてきた。食べた串焼きがどうなるのかはあまり考えたくはない。消化器官は果たしてまだ宝石にはなっていないのだろうか。
視線を感じたらしい彼女が、上目遣いで見上げてきた。見ている方向で察したらしい、串焼きを軽く振りながら口を開く。
「何か変なこと考えてる? ……あ、分かった、もしかして、私が食べたものが出てくるとき、ダイヤモンドうん」
最後まで言わせずに口を塞いだ。
少なくとも、等身大の人間サイズのダイヤモンドである。桁外れの金額になることは疑いようもないだろう、と答えると、彼女は心底満足げに笑った。
「それなら私も、ちゃんと恩返しできそうだね、よかった」
誰に、と、一応問うた。
「あなたに」と、彼女は身体を捻って右腕を上げ、そっと頬に触れてきた。
手袋越しの、硬い感触。思えば、もうずっと、彼女に触れられたことはなかった。手足のことが露呈したからもう遠慮しなくなったのだろう。
これくらいなら壊れはしまい。その手に頬を擦り寄せると、彼女は驚いたような顔をして息を飲み、口を噤んだ。怖気付いたように降ろされた手を見送って、動揺した様子の彼女を上から眺める。
頬や耳をも赤くしながら俯く彼女は、明らかに血の通った一人の人間で、よもやその指先や爪先が宝石になっているなど、誰が想像し得るだろうか。
「ばかじゃないの」と唇を尖らせた彼女の言葉は聞こえないふりをした。
***
彼女の予想では、あと半年から一年程度かけて、身体が完全な宝石になるらしい。「結構あるね」と彼女は笑ったが、余命が長くても一年しかないことの、どこが長いのだろう。思わず暗い目をしてしまう。
もう、かつて暮らしていた、あの街はずれの家に戻る気にはなれなかった。少なくとも、彼女が生きている間は。勝手に姿を消しても心配する人間などいやしないのも、その決断を後押しした。
結局、様々な街を転々としながら旅を続けたが、学も経験もない根無し草にできる仕事というのも、あまり選べるものではなかった。
「ごめんね」
宿に帰ると、彼女はいつも眦を下げて、唇を引き結んだ。そんな顔をしていると、その顔のまま石になってしまうぞ。そう揶揄うと、彼女は控えめな笑みを浮かべた。
――沈んだ顔をしている彼女を、何とか元気づけたい。
荷馬車で街から街へ荷物を届ける仕事を請け負い、その最中、昼休憩のときだった。どれほど考えても名案が浮かばず、思わずぽろりと零してしまった相談に、仕事仲間たちの反応は激烈だった。
「んぐっ」と一人は昼飯を喉に詰まらせ、一人は真顔のまま水を噴き出し、一人は手元が狂って馬車の車輪を壊しかけた。
何だ、そんなに面白いかと訊くと、全員が勢いよく頷く。それでも一応、答えてはくれるらしい。
「彼女、お前が仕事ばっかしてるから寂しいんじゃないの? もうちょっと一緒にいてやれば良いんじゃないか」
「……デート、とか」
「それは……うーん、難しい問題だね。まずはきちんと君の気持ちを伝えることが重要じゃないかな」
『彼女』の意味を若干取り違えている気もしたが、返ってきた三者三様の答えに首を捻る。納得していない様子に、一人が身を乗り出しながら口を開いた。
「そもそもお前、どれくらいの頻度で彼女と会ってるわけ?」
一瞬答えに困り、それから、一緒に住んでいるからそういう問題ではない、と答えると、一人は手から昼食を取り落とし、一人は目を見開いたまま口から水を垂れ流し、一人は今度こそ完全に車輪を壊した。
「同棲……だと……?」
「驚きだ」
「そっか。……け、結構進んでるんだね」
思い思いの反応を受け流しながら、先程聞いた二つ目と三つ目の案は、参考にしても良いかもしれないと思った。
予備の車輪を付け替えるのに多少時間がかかり、帰りは少し遅くなった。宿に戻ると、机に向かった彼女が、伏し目がちに何かを書いていた。手に括りつけたペンでは、上手く文字が書けないらしい。少し眉間に皺がよっている。
ただいま、と扉を数回叩くと、彼女はぱっと振り返った。その手はすぐさまノートを閉じ、彼女は車椅子を不器用に操りながら近付いてくる。
「おかえり」
見上げてきた彼女に頷き返すと、彼女は黙って、口角を上げた。
旅に行こう、と伝えたのは、今度は自分からだった。きょとんとした顔をする彼女が、首を傾げる。
「もう次の街に行くの?」
ずっと同じ街にいると、彼女が宝石になり、動かせなくなる範囲が広くなっていることに気付かれる可能性があった。何せ彼女は目を引く。
けれどまだ、この街に来てから、もう発たねばならないほど彼女の宝石化が進行している訳でもない。迷いなく首を横に振って、旅行だ、と応えると、それを理解したかしてないかのうちに、彼女は虚を突かれた顔をする。
「うっそぉ」
彼女は面妖な表情をした。ので、本当だ、と、おずおずと微笑んでやった。すると彼女は更に驚いた顔をして、目に見えて動揺した。
「笑……った」
その反応に、何とか辛うじて浮かべた笑みは雲散霧消する。せっかく人が笑ってみせたというのに、その反応は何だ、まるで化け物でも見たような顔をして。
「頬の筋肉あったんだね。てっきり頬が石にでもなっているのかと思ってたよ」
それでも数秒後には、人の悪い笑みを浮かべて、揶揄うように顔をつついてくるのだから、彼女には敵わないとしか言いようがない。
***
車椅子を押して、街を出た。乗り合い馬車を待っていると、隣に立っていた親子が話しかけてくる。
「どちらまで行かれるんですか?」
母親が訊くと、彼女が威勢よく「ちょっと離れたところの湖まで」と答えた。すると母親に手を繋がれていた、幼い少年が、ぱっと顔を輝かせて彼女を見上げる。
「僕たちもね、そっちに行くんだよ」
そちらに祖父母の家があるらしい。少し自慢げに、胸を張って言った言葉は、正しく彼女にとっては自慢に聞こえただろう。
「そっか、良いなぁ」
目を細めた彼女が、どこか遠くを見つめるような表情をした。その視線がどこを向いているのかは分からない。きっとどこか彼方――彼女の他には誰も知らない遠くを回想しているのだろう。
「お姉さんは、どうして車椅子に乗ってるの?」
子供特有の遠慮の無さで、少年は訊いてきた。傍らの母親が、慌てたように「こら、」と言いながら口を塞ごうとするが、それを彼女は手で制した。
「私はね、手足が悪いの。手も足も石みたいになっちゃって、ちっとも動かないんだよぉ」
わざとらしく怖い声なんて出して、彼女がにやにやと笑う。それを聞いた少年は顔面蒼白、目を見開いたまま、彼女の顔を見上げて、凍りついている。反面、母親は彼女のそれを冗談と判断したらしい。忍び笑いを漏らしてこちらをちらりと見やる。
ええ、これはほら話ですよ、と言わんばかりに、笑顔を作った。もうずっと浮かべていなかった表情に、顔の筋肉が強ばった。
「う、うそだ!」
「んー? どうかなぁ」
適当に少年を弄ぶ彼女に、思わず笑みが漏れる。こちらを見たままだった母親は、一瞬驚いたような顔をして、それからゆっくりと微笑んだ。
「素敵に笑う方ですね」
まだなお少年で遊んでいる彼女を尻目に、母親はこちらに声をかけてくる。
確かに、彼女は溌剌とした笑顔を浮かべる人である。頷くと、母親はやや困ったように苦笑いして、「あなたのことです」と続けた。
この言葉には驚いた。生まれてこの方、笑顔を褒められたこともなければ、存在自体を褒められたこともあまりない。
やっとの思いで、ありがとうございます、と返した。
「いえ、ただ思ったことを口に出しただけですから」
……それがどれほど難しいことか、この人は知らないのだ。
馬車に乗り込んでからも、二人は明るい声で言葉を交わしている。
「……それでね、悪ーい魔女の呪いにかかっちゃったのよ。その呪いとは、身体を石にしてしまう呪い! 私は命からがら逃げ出して、ここまで来たってわけ」
「えー! すごいすごい! じゃあ、手足は呪いの影響なの? 元に戻せないの?」
「そんなもんかなぁ。実はね、ここにいる彼は、超! 有名な魔術師さまなの。今は、解呪の方法を見つけるために、二人で旅をしているとこなんだぁ」
ごっこ遊びにいきなり巻き込んできた彼女に、思わず渋い顔をしてしまった。彼女がこちらを横目で見るなり、愉快そうに笑う。
「魔術師様なの? 僕もなれるかなぁ」
「いやー駄目駄目、この人愛想悪いし返事なんてしやしないよ。何より、秘技は他の人には教えられないんだって」
「けちぃ」
「だよね、けちだよねぇ」
適当なことを言いやがって、と、自然と顔が苦った。不機嫌な顔になったのが自分でも分かったが、それがむしろ、少年にとっては信憑性があったらしい。
「ま……魔術師……」
目を輝かせて見つめてくるので、つつ、と視線が反対側を向いた。そうすると今度は、反対の隣にいた知らない男性と目が合って、気まずい思いをしながら視線をまた元の向きに戻す。すると彼女がこちらを見て、楽しげににやにやとしているのだ。
ガキ二人。
気付かれないように毒づいたつもりだったが、数秒後に彼女の肩が、些か偶然にしては強すぎる勢いでぶつかってきたので、やはりバレていたようだった。
馬車を降りるとき、若干手こずった。上げるときは車椅子ごと抱きかかえて馬車の床に乗せれば良かったのだが、降りるときに抱えるとなると、彼女が座面から滑り落ちてしまう。かと言って自分が先に降りて彼女を降ろそうにも、自分の身体が邪魔になって降ろせなかった。
同じ街で降りた親子も、まごまごと様子を伺うだけである。力仕事であるだけに手助けを頼むこともできず、弱りきって頭を掻いてしまう。
「おい兄ちゃん、前の方支えろ」
不意に馬車の中から声がしたと思って見上げれば、特に覚えのない男性が、車椅子の後ろに手を掛けながらこちらを見ていた。慌てて言われた通りに、車椅子を前から持ち上げると、そのまま車椅子を降ろす。
何の衝撃もなく地面に車椅子を降ろし終え、どうすれば良いかと立ち竦んだ。その数秒の間に、彼女はくるりと身体を捻って馬車を見上げ、満面の笑みで「ありがとう、おじさん」と手を振る。
結局、小さく頭を下げることしかできなかった。
「旅行、楽しめよ!」
彼が親指を立てるのと同時に、馬車は再び走り出し、道の向こうへと消えていった。
「じゃあね、早く呪い解けると良いね!」
大きく手を振って、少年と母親は細い路地へと入っていき、彼女と二人きりで街の入り口に取り残された。そこはかとなく途方に暮れた様子に気付いたのか、彼女が顎を反らして逆さまに見上げてくる。
「さ、行こ」
不遜な態度は彼女だから許されるのだ。軽くため息を付きながら頷いた。
***
「湖ももちろんなんだけどね、その側にある滝もなかなか見どころなんだって」
下調べは万全らしく、地図を開きながら彼女は明るい声で言う。車椅子を押しながら、彼女の持つ地図を覗き込むと、気配を察知した彼女が、地図を上に上げて見えるようにしてきた。
「湖の周りを一周するルートがあるみたい。途中で食事をできる場所もあるみたいだから、その道で行こうよ」
地図を見てみると、色のついた線が、ぐるりと湖を一周していた。どうやらこれらしい。山に登るわけでもなし、複雑な道でもない。
頷くと、彼女は少し笑って、地図を下ろした。
他の客の姿は疎らで、緩やかに下る坂道を、彼女は機嫌よく鼻歌を歌いながら眺めていた。湖は森林に囲まれているというが、木々に視界を遮られてまだ見えない。
道の左右には木が立ち並び、どこか籠ったような、張り詰めた湿気で冷えていた。時折、陽だまりをくぐり抜けるときだけ空気が緩やかに綻び、底冷えしていた地面は柔らかく車輪を受け止める。
「もうじき湖が見えるはずだよ」
地図を、もう二度と動かない指でなぞりながら、彼女は頬を緩ませる。顔を上げる、その動きに応じて、彼女の髪が揺れた。そよぐ風を受けて、彼女は目を細める。
「湖に行ったら、何をしようか。魚でも釣れるのかな、ボートに乗ったりとかできるのかな」
……要するに、これは要求だろう。
他愛もない、と、思わず笑ってしまった。
「笑わなくたっていいじゃない」
分かりやすく不貞腐れた声で、彼女が呟く。その頬が緩んでいるのには気付かないふりをした。それを指摘するのは、やや野暮かとも思えたのだ。
それからもうしばらく歩き続け、不意に、空気が変わったのを感じた。それまで、重く湿気った空気だったのが、急激に、涼やかな風に打ち消される。
「見て!」
彼女が身を乗り出して、腕を伸ばした。きっと指さしたかったのだろう手は動かず、手袋に包まれたままの腕だけが空を切る。
その声に釣られて、顔を上げた。彼女が差し伸べた右腕の向こうに、青く滑らかな水面が見えた。
「すごい、本当に綺麗」
惚れ惚れしたように、頬に手を当てて、彼女が呟く。それまで木に遮られていたのか、一気に風が吹き抜けた。
「ね、早く畔まで行って」
気が急いた彼女が、湖から目を離さないまま、車椅子を押す手を叩いてくる。自分の手が石になっていることもお忘れらしい。なかなかの力で殴ってくるので、その手首を柔らかく掴んで止めさせた。普通に痛いし、何よりこの手が傷ついたらどうするのだ。
地面を覆う草は、森の中のものより柔らかく、車椅子の車輪に絡んでしまいそうに長かった。慎重に進んでいくのだが、それがまた彼女は気に食わないらしい。
「何よそんなにちんたらして、焦らしてるの?」
わざとらしく唇を尖らせて、これ見よがしに手足をばたつかせる。対抗するように、聞こえるように大きなため息をつく。唇を尖らせた彼女は少し斜め上を見て、思案するように沈黙した。
咳払いひとつ。
「……私、はやく湖が見たいなあ」
少し眉根を寄せて、上目遣いで、手を合わせて。何ともまあ分かりやすい媚び方だった。
ところが、それを無視できないのが、一番腹立たしい。渋い顔になるのは抑えられず、しかし自然と足は速くなる。決して彼女に害が及ぶことのないよう、それでいて彼女の願いを叶えられるように。
これこそ真性の馬鹿である。
「あはははははは!」
一瞬、呆気に取られたような顔をした彼女はそれから堰を切ったように身体を折って大笑いし、涙を拭った。大層ご機嫌である。お気に召したようで良かった、と顔を顰め、鼻を鳴らす。
「単純だねぇ」
身を捻って振り返り、揶揄うように目を細めて笑った彼女が言う。
……この馬鹿、と内心罵った相手は、果たして自分だったのか、彼女だったのか。
「おー、水辺ってやっぱりひんやりしてるね」
手袋を外しながら車椅子を降りた彼女が、湖畔に座り込んで、眦をだらしなく下げた。車椅子を脇に止めてから、隣に座る。彼女はこちらを見て、軽く笑った。膝を抱えて手を伸ばす。指先が水面に触れる。
水をかき混ぜるように、円を描いたその手を凝視した。透明な手は、水の中に入ってしまえば、境界線を失ったように揺らいだ。
不意に、言いようのない恐怖に襲われた。彼女がそのまま、底知れなく澄んだ水に溶けていくような、そんな錯覚に襲われたのだ。
「……なに、」
目を見開いて、彼女は呆然としたように呟いた。その表情を怪訝に思って下を見ると、いつの間にか自分の手が彼女の腕を掴んでいる。
……ごめん。咄嗟に詫びた。彼女は視線を逸らさないまま、僅かに首を横に振る。その眼窩の中の瞳が、何か言いたげにこちらを見据えた。
「――大丈夫だよ、私は消えないから」
不意に、彼女は気を取り直したように囁いた。手を水から上げ、指先が濡れたまま、腕を差し伸べる。
「私は何より確固たる存在になるんだよ。どこにも行かない」
彼女は、慎重に腕を回して来た。頭を彼女の胸に抱かれたまま、目を伏せる。
彼女の言う通り、確かにダイヤモンドは残るかもしれない。
――でもそこに、彼女はいないのだ。我が儘で自分勝手な彼女は、どこにも。
湖を一周する道のりは、森の端をなぞるように湾曲した一本道だった。大体が木の板を並べて作られた道で、車椅子の車輪がその隙間の上を通る度に、板の反対側が浮き上がってぽこぽこと音を立てる。
「すごいね、森の中にこんなに大きい湖があるんだ」
風が吹く度にさざ波の立つ湖面を眺めながら、彼女が感心したようにため息をついた。日はそろそろ高くなり、気温が上がっているのも感ぜられる。
羽織っていた薄手の上着を脱ごうと、彼女が難儀しているのをすぐに見てとって、その肩からそっと布を持ち上げた。慎重な手つきで右腕を抜き、左腕を抜く。そうして脱がせた上着を軽く畳むと、彼女の膝の上へそっと置いた。
それを当然の事として受け入れた彼女は、そのまま湖を眺め続けていた。彼方に青く霞んだ山並みは、遠景を縁取るように伸びている。
酷く穏やかだった。いっそ不安になるほど、地に足のつかないような平和だった。そんな懸念に駆られていることなど知りもせず、彼女は背もたれに寄りかかったまま、凪いだ眼差しで湖を眺めている。
それでも不安は不安だった。喉元までじりじりと迫るように上がってくるのは、焦燥に似た嘆きだった。――今この瞬間も、彼女は石に近付いている。
彼女は興味深げに、景色をじっくりと舐めるように見た。さざ波に帯を作って揺れる水面や、湖の反対側でボートに乗っている他の観光客、水と地面の境目を見るだけでは飽き足らず、遠くの樹冠、霞んだ稜線、果てには天高く楕円を描く猛禽、蒼穹を横切る小鳥の群れにまで、その目を向ける。
まるでその目に焼き付けるかのようだ。いやに一生懸命な横顔を眺めているうちに、不意にまた切迫したような感情が喉元に突き上げる。対する彼女の眼差しはいやに晴れやかだった。もう金輪際、こんな景色を見ることはない、と言わんばかりの表情だった。
――また今度は別のところに行くか。
そのとき、自分が酷く柔らかい顔をしていることに気付いて、狼狽した。彼女はもう前を向いているから気付かなかったが。
「……良いの?」と彼女は、珍しく控えめな返事をした。その声音が、どこか嘲笑のような色を含んでいる気がして、胸が冷える。彼女の言葉は、何に対しての感情か分からないような曖昧なものが多いが、今は何故か、それが彼女自身に向けられたものであると察することができた。
「私、もうじき石になるのに、思い出なんて残らないのに、そんなに献身したって仕方ないよ」
さっき自分で、『私は消えない』と言わなかったか。
「言ったね、でも」
一度言ったことは貫け。
何故自分がこれほど憤っているのか分からなかった。いつになく厳しい言葉を向けてから、その鋭さに怯んだのは自分の方だった。
「ごめんね」と折れたのは彼女だった。背を丸め、膝の上に丸まるように額をつけて、小さく呟く。
「私、……分からないの。怖いのか怖くないのかも分からなくて、それが何より怖いの」
いつもと様子が異なるのは、彼女も同じようだった。気弱な調子で項垂れ、目を伏せる。
「どうせ死ぬのに、もうじき死ぬのに、私がここにいることに何の意味があるんだろう。あなたがこうして私に優しくして、そこに何が残るの?」
図らずもそれは、自分がたった今この瞬間に抱いている疑問と同じものだった。そう、彼女が物質として残ったとて、それまでの行動にどのような価値があるのか掴み損ねている、それが、曖昧なようで明確な議題だった。
しかしその問いを外から向けられたとき、答えはすぐに出た。
――花はどうせ、いずれ枯れるから芽吹かないのか?
使い古された論調だが、その分だけ説得力は増した。そうだ、単純なことなのだ。
――どうせ死ぬから生まれないのか。そんなことはないだろう。
自分たちは答えを求める必要はなかったのである。生きているこの時間における価値など、求めなくて良いのだ。
死ねば人は勝手に完成するさ。
そう彼女に投げかけてから、自己嫌悪に嘔吐しそうになった。自分が零した言葉が何に基づいているのかは明白だった。
考えれば考えるほど、それは単純な問題だった。するりと糸が、固まってきつく絡まった塊の中から抜け出る。
罪状、放火と殺人。容疑者は否認。判決、――死刑。
かつて自分がこの手で絶った命の一つである。恨み言を口にしながら呆気なく死んだ。
罪状、不法侵入と器物破損、殺人未遂。容疑者は是認。判決、――死刑。
かつて自分が手を下した男である。最期に少女の名を愛おしげに呟き、ただ一言詫びて死んだ。
どの命も明確だった。その行動、死に様、言葉までも、疑いの余地もなく存在している。何故なら死んだ人間に揺らぎはない。もうそこで立ち止まり、二度と歩き出さないからだ。
その輪郭線のなんと鮮やかなことか、――まるで石のようだ! それも、きっと、磨き抜かれた宝石のように輝かしい。
変わらないんだ、そう伝えると、彼女はきょとんとした顔をした。
そんなことを気にしても仕方ない。生きている間に得たものの価値は、死んでからでないと比べられない。けれど死んだときにはもうそれを比べる当人はいない。だから何も気にする必要はない。何も不安がる必要はない。
生きていることは、ただそれだけで、何にも替えがたい。
彼女はしばらく飲み込めないように眉をひそめていたが、しばらくしてから薄く微笑んだ。
「難しいことを考える人だね」
それでも彼女は、否定はしないのだ。
道半ばの休憩所で、一度止まることにした。車椅子を木彫りのベンチの横につけてやる。持参してきた軽食を彼女の膝に置いてやって、その隣のベンチに腰掛けた。
食べられるか、と訊くと、彼女は少し躊躇ってから、「包み紙が開けられないや」と呟いて目を伏せる。その顔がやけに申し訳なさそうで、別にそんなことを気に病む必要なんてない、と上手に伝えるだけの言葉も持ち合わせていないのだ。
そういう訳で、食事は無言のうちに始まった。黙々と食べ進める傍ら、時折彼女の食事を手伝ってやる。その度に彼女は少し眦を下げた。
食事を終えても、そこには沈黙ばかりが広がっていた。
湖を少し小高い位置から見渡すことのできる展望台だった。他に人気はなく、どこか湿ったような、柔らかい風が流れている。望洋とした眼差しで広い遠景を見渡す彼女の横で、しばらくその視線を追った。
……もしも、お前が宝石にならなくても。
おもむろに言葉を発すると、彼女は目線だけをこちらに向けた。その唇が一度開きかけ、思い直したように閉じる。彼女に遮られる前にと続きの言葉を探す。のに、上手い言い方が見つからなかい。
……もしもお前が死ぬことなどないとしても……俺はお前と一緒に旅をしたいと、そう思っただろう。
それが、自分に告げられる精一杯だった。案の定、彼女は面妖な顔をした。「意味が分かんないよ」と不満げに唇を尖らせた、彼女の言葉に仏頂面をする。言葉はみっともなくぶっきらぼうになった。美しい婉曲な言葉は、今はこの世で一番遠いところにあった。
綺麗な死体になんてならなくていい。
何とか絞り出し、深く項垂れる。「何それ」と苦笑した、彼女の声が揺れていた。膝の上に置いた自分の手が、強く握り締められ震えているのが視界に入る。唇を噛んだ。
どんなに短い日々だって構わない。何も残らなくたって構わない。……死という枠に嵌る為に歩くお前と、一日を、一刻を、一秒を慈しみながら生きていきたい。隣で生きたいんだよ、
もう認めないわけにはいかなかった。彼女が来てからというものの、それはいつだって最良の日々だった。ずっとそうだった。
掌に爪が突き刺さり、血が滲むのを感じた。そんなとき、手の甲に硬い感触が重なった。顔を上げれば、彼女はぎゅっと眉根を狭め、目頭に力を寄せるような顔をして、静かに微笑んでいた。吸い寄せられるように彼女と目線を重ねた瞬間、言葉はいとも容易く口からこぼれ落ちていた。
――――君のことが好きなんだ。
……触れた唇は、泣きそうなくらいに硬かった。
***
砂糖をたっぷり入れた、温くて甘いミルク。
使いすぎて毛羽立った、柔らかい毛布。
淡い色をした飴玉、あるいは金平糖。
可愛らしいぬいぐるみ。
使い道のない繊細なリボン。
――そういうのが、彼女の好きなものだった。
寝台に横になったまま、彼女は天井を見上げていた。顔の脇に、柔らかい兎のぬいぐるみ、首に水色のリボンを巻いたぬいぐるみを置いて、腹から足の上に、ずっと前から使っている毛布をかけて、口の中でそっと飴玉を転がして、彼女は横たわっていた。
その脇で、静かに、音も立てないように、カップをかき混ぜた。優美に曲線を描いて立ち上った湯気が、甘い香りをさせた。
「……良いよ、作らなくて」
不意に、彼女が身体を僅かに捻り、呟いた。
馬鹿みたいだ、そう内心呟いた。
違う、本物の馬鹿だ、と目を伏せた。
どうやら、恋が人を馬鹿にするのは本当らしい。
「もう飲めないもん」
そう零す彼女の口の奥に、輝かしい宝石が覗いていた。もうまともに動かない四肢が、ときどき軋むような音を立てる。
別れのときは、着実に近付いていた。
***
車椅子ではなく、寝台に横になる生活を選んだのは彼女だった。
「まずい、このままいくと私の死体、椅子に座った状態になっちゃう」
あるとき、深刻な顔をして彼女が言うので、椅子に座った形の彼女がそのままダイヤモンドになる様子を想像した。……確かに、変かもしれない。
「仰向けに寝てる状態って、立ってるのと大体同じ? 同じだよね」
うーん、と考え込むが、何とも言えない。座っているよりは、と曖昧な返事をよこせば、彼女も軽く頷いた。
彼女も、寝ている状態と立っている状態が全く同じとは思っていないようで、納得いかない態度で首を捻っている。
「死ぬまでずっと立って待つのはちょっと大変だしねぇ」
ある程度固まるまでは寝ておこうか、と勝手に決断して、彼女は寝たきり生活を開始した。
***
柔らかな風の吹く、春の夜のことだった。部屋に入ると、彼女は体全体で寝返りを打つようにしてこちらを振り返る。
「頃合、かな」
短い一言のみが、全てを告げていた。その言葉を、噛み締めるように受け止めた。視線が重なった。首筋に煌めく宝石の光を見てとって、顔を歪める。彼女は黙って微笑んだ。
「ねえ、外……出たい」
上手く喋ることができないのか、その発音はどこかぎこちなく、声も軋むような掠れ方をしている。酷く億劫そうな動きで腕を持ち上げ、彼女は指先で口元に触れてきた。その手にそっと頬を寄せた。決して彼女の指先を欠けさせないように、決して彼女の体に傷を付けないように、……決して彼女を損なわないように。
彼女の小さな体を、まるで霞でも持ち上げるかのように、慎重に持ち上げた。背と足の下に両腕を差し入れても、体は真っ直ぐに硬直したまま動かない。彼女は「へへ」と声を漏らして笑った。その振動が手に伝わってきて、思わず動くなと叱りつけてしまう。
「ええー、やだ」
落ちて割れても良いのか。
「そりゃ駄目だよ。でもあなたは落とさない、でしょ?」
唇を尖らせて不満げな顔をしてから、彼女はにこりと微笑んだ。
「……それに、こうして何とか動けるのも、あと少しだから」
不意に声を低めて囁くので、心臓が嫌な感じに跳ねた。見下ろせば、彼女は眉根を寄せていた。
裏口を足で開けて外に出ると、柔らかく撫でるような生暖かい風が頬を出迎えた。彼女は目を細めた。
そのとき借りていたのは小さくて老朽化しているものの、独立した一軒家で、裏口は猫の額ほどの庭に繋がっていた。七歩もあれば一周できるような小さな庭で、それでいて身長ほどの高さがある白木の柵に囲われているのが、やや息苦しさを感じさせる。それでも、今はその柵がありがたかった。そこはまるで箱庭のようだった。自分と彼女しか存在しない世界のようだった。
そんな庭の中央に、彼女をそっと下ろした。彼女は二本の足ですっくと立った。久しぶりに正対した彼女は、何だか記憶にあるより小さく思えて、それがどうしようもなく切なかった。
「手袋、外して」
言われるがままに、彼女の両手を覆う布を取り払う。果たしてそこには完全な石と化した指先があった。それは明らかに手の形をしているのに、どう見たって透明な石でできている。
氷が擦れるような音を立てながら、彼女は顕になった両腕を差し伸べた。それに応えるように彼女の体を胸に抱き留めれば、彼女はくすぐったそうに息を漏らした。
「……どんな風に石になるのか分からないんだ。だって死んだことないし」
彼女の背に腕を回せば、生き物とは思えないような硬質な感触が手に触れる。
「でも、お母さんが石になったとき、着ていた服も一緒に石になってた。不思議だよね。でもそもそも私たちという生き物が不思議なものだから、そんなのも変じゃないか」
独り言のように、小さな声で囁く彼女の腕は、自分の背には触れなかった。
「もう大きな声が出せないから、このまま聞いてよ」
そんな風に微笑む彼女を見下ろして、つと息が詰まった。
「あなたの大切なものを踏みにじってやりたかった。でもあなたには好きなものも愛するものも何もなかった」
その通りだ。相槌は馬鹿みたいに震えていた。
「それなのに……死んだように生きていたあなたに、生きることを説かれる日が来るなんて思ってもみなかった」
彼女はゆっくりと瞬きをした。まつ毛の先がきらめく。
「……兄を殺した人を愛する日が来るなんて、」
その言葉に、自分の喉がぐぅっと音を立ててせり上がるのを感じた。彼女は目を伏せて微笑んでいた。
彼女の名を呼んでしまいたくなった。けれど自分は彼女の名前を知らない。……知らないということになっている。
頭上では星空が広がっていた。夜風がどこか遠くで葉擦れの音を立てる。彼女の背に指先を触れるような、抱き締めているのかいないのか、滑稽な体勢のまま、ずっと動けないでいた。この手を離したら彼女が消えてしまいそうだ。
部屋から漏れる灯りと月の影。いずれもささやかな光を受けて、彼女の体はますます硬質に、ますます凄絶な美しさを放ち始める。
そのとき、躊躇いがちに、彼女の指先が、背に触れた。まだ幾分か柔らかさを残した頬が胸に押し当てられた。くぐもった声が呟く。
「……今ここで、あなたを強く……きつく抱き締めて、ずっと放さないでいてやりたい。きっとあなたは私の腕を砕けないだろうから」
……君の腕の中で朽ちたって構わない。
呻くように応じれば、彼女は快活な笑い声を上げた。
「あはは、嬉しいことを言ってくれるね。――お互いにそんなことしないって、分かっているくせに」
その言葉は的確だった。あんまり的確なもので、咄嗟に胸が突かれて息が止まるような心地がした。動揺を隠すように顔を伏せ、彼女の頭頂に額を乗せた。柔らかい髪が触れる。
「……もうすぐ分かたれるって知っている人を慈しむのは簡単なことだよ」
彼女は顔を上げた。額を合わせ、間近で瞳が重なる。息がかかりそうな距離だった。
「もう変わることのない人を愛するのも簡単なことだ」
彼女が瞬きをした。深い青色の双眸が煌めいた。
「歩いてゆく人を……移ろいゆく人を大切にして、その命が内包するすべてを受け入れることは、とても難しいことだよね。生きるものと魂を触れ合わせていれば、ときに足元が抜けるほどに恐ろしい思いをする」
……その人が自分をどのように瞳に映すか分からない。その人が、その人との関係が、取り巻く環境がどのように変化していくのかも分からない。……いつ別れるかも分からない。身が竦むような恐怖だ。
「目を閉じないで。私の目を見て」
彼女は甘えるように囁いた。それで仕方なく瞼を上げれば、彼女は眉根を寄せて微笑んでいる。
「ねえ、こんなに恐ろしくて辛いのに、それでもやめられないのはどうしてかな、」
その答えは分かっているのに、うまい答えが見つからなかった。途方に暮れて視線を彷徨わせる間、彼女は残り少ない時間を費やしてまで、じっと黙って答えを待ってくれた。
――それが生きるということだから。
ようやっと絞り出した結論は、情けなく掠れて震えていた。彼女は目を細めた。
「……お母さんもお兄ちゃんも、最期に『ごめん』と言っていた。きっと二人とも、残された側が心配だったんだんだよね」
いきなり何の話なのか。怪訝な視線を向けると、彼女はそっと、背に触れさせていた指先を離した。その手を放した。
「でも私、きっとその言葉は選ばないよ」
その言葉を聞きながら、きつく目をつぶった。……温もりの抜けた彼女の体が、腕の中で変質してゆくのを、ただ黙って待ち据えることでしか。
***
彼女の向かいに椅子を置いて、色々な話をした。こんな段階になって話すことなんて何もないと思っていたのに、自分が思いのほか饒舌に語っていることに気づいて驚いた。それでも彼女は口数が少ないと不満げだったが。
「本当はあの花畑で死ぬつもりだったんだよ。花畑にダイヤモンドの石像が佇立していたら面白いと思って……」
見つけた人は腰を抜かすだろうな。
「あはは」
穏やかな月夜に彼女の笑い声が響く。常のような明朗な表情を浮かべてはいるものの、その声はどこか引き連れたような、苦しげな音を伴っていた。ひゅ、と息を吸った拍子に怪しい音が喉を通る。
彼女と交わす思い出話は尽きなかった。そのことを自覚して、変に息が詰まった。……思えば長いこと彼女と一緒に時間を過ごしてきた。そのくせして、彼女としっかり向かい合って話をしたことなど数えるほどなのだ。それが口惜しく、そして情けないような心地がした。
……もっと彼女とたくさん話がしたかった。もっと色々な想いを交わしたかった。自然と頭が垂れ、俯いてしまう。
そのとき、彼女の涼やかな声が明るい色を放った。
「あなたと一緒に、たくさんの綺麗なものを見ることができて幸せだったよ」
仰ぎ見れば、彼女は透明になりつつある歯をちらつかせて笑っていた。
「あなたと観たもの、聴いたもの、食べたもの、嗅いだもの、触れたもの、交わした言葉、そのすべてが私の中にある。同じように、あなたの中には私がいる。あなたの知る私がいる。それは何人たりとも揺るがすことができないものだ。私自身でも」
そんなのは気休めだ。吐き捨てるように応じれば、彼女は不満げに唇を尖らせてから、柔らかく眦を下げた。
「……私はたまたま、変化が分かりやすくて、別れがいつになるかが目に見えて、死んでもこの場に形として留まり続けるけどさ、でも別に形として残らなくたって同じことだよ」
彼女が、ふと遠くの空に視線を向けた。視線を追えば、空の端はいつしか明らみ始めていた。
何の根拠もない直感が、胸の内で厳かに告げる。――時間だ。
緩く十指を組み合わせて、彼女の双眸を振り仰いだ。
……死刑執行人なんかと一緒にいて、本当に良かったのか?
「良かったよ」
問えば、彼女は柔らかい笑顔を浮かべて即答した。そこに憂いの色は見つけられない。けれどそれでも胸の内に気がかりな澱みが残る。
綺麗に死にたかったんだろう。それなのに、俺みたいに薄汚れた人間の手を取って旅なんかして、……。
――光が射した。金色を帯びた朝日が、雲ひとつない早朝を照らし出した。その光は彼女の四肢を突き刺すように透過し、彼女をますます明るく、人智を超えたもののように浮かび上がらせる。
目の前で、彼女が変質してゆく。よろよろと、たたらを踏みながら立ち上がった。視線が交わる。
「あなたと生きることができて本当に幸せだった。毎日ずっと楽しかった。安らかに眠ることを初めて知った。たくさん綺麗なものを見た。ありったけの幸福はぜんぶ私の中にある」
彼女は凛と背筋を伸ばした。彼女はこちらに向かって両腕を差し伸べた。彼女の眼差しに湛えられているのは、驚くほど晴れやかな表情だった。
その唇が弧を描く。
「――――私は、完璧な死体だよ」
音のない風が吹いた。彼女の髪が浮き上がり、簡素なワンピースの裾が波打つようにはためく。
……ありがとう、フェルロ!
それは声ではなかった。けれど確かに彼女はそう言った、そんな気がした。
呆然と立ち尽くしたまま、目の前にある彼女の姿を見た。彼女はそこにいた。何かが決定的に変わっているのを感じた、けれど何も……何も欠けてはいない。何も損なわれてなどいない。彼女はここにいる。
全身を透き通る宝石に変えて、彼女は幸せそうな笑みを浮かべて立っていた。だから姿勢を正して目線を合わせて、どんな硝子細工を触るときよりも丁寧に、彼女の手を取った。もはや動くことはない両腕は、しかし、まるで自分を受け入れるかのように開かれている。
「……ありがとう、リレット」
囁いて、額にそっと口付けた。何より硬い、物言わぬ岩石が、唇を黙って受け入れた。
***
完璧な死体、と彼女が表したのは、彼女がひとえに通常とは異なる死を持っていたからだろう。そして、それはなかなか理解されづらい形のものだったし、自分でもわざわざ周囲に知らしめようとは思わなかった。
そういう訳で、『それ』は詳細不明の類まれなる石像として、あるいは真偽不明の伝説の残滓として、多くの人間の関心を集め続け、そして衆目を引き付け続けている。
――それが彼女の死体だと、自分だけが知っている。
嘘のような、白昼夢のような、ひとつの秘密。それを唯一共有している彼女は、今日も悪戯めいた、どこか得意げなような、……綺麗な眼差しで、静かに笑っている。
***
「院長先生!」
「先生、おねむなの?」
「フェルロさん、容態はいかがですか」
「せんせーい!」
「院長せんせ、起きて!」
「こら、病院で大声出さないの」
「院長先生、」
数々の声に囲まれながら、うっすらと目を開けた。布団の上の皺だらけの両手が、温かく柔らかい、小さな手に包まれている。
思わず、笑みこぼれるように頬を緩めていた。
……目を閉じるのは少しも怖くなかった。