51♪ 父娘
「お父さん」
夕食を食べているお父さんの前にあたしは座った。
「うん? どうした?」
「あたし……進路、決めたの」
「ほう? まだ4月なのに、もう決めたのか!」
「うん……」
「それで? どこにしたんだ?」
「島根大学」
お父さんが持っていたお茶碗をテーブルに落としてしまった。入っていたご飯がこぼれてしまう。お母さんも、食器を洗うのに使っていたスポンジを床に落としていた。夏樹は夏樹で、食べていたポテトチップスの袋を落とすし、おばあちゃんはおばあちゃんで編んでいた服をパサリと落としてしまった。
「お前……島根大学って、わかってるのか?」
「わかってる。国立大学」
「わかってるなら……自分が何言ってるのかも、わかってるだろう?」
「わかってる。かなり」
無謀。
あたしが受けるつもりでいる法文学部は、センターは英語が100点分、地歴、公民、国語、数学から2つ選択で100点×2で300点満点。二次試験は総合問題200点満点。センターでは七割くらいとれば受かる。ぶっちゃけ、あたしは数学嫌いなので……とりあえず、地歴と国語を選択するつもり。もちろん、センター試験を通過しないとお話にならないので、まずはセンターの勉強を必死でしないといけない。
「しかし陽乃……お前、私立大学を受けるんじゃなかったのか? 都内の……」
「そのつもりだったけど……」
その先の言葉が出なかった。理由は、翔が夢を目指して頑張るから。あたしも彼を支えてあげたい。その一心だった。だけど、お父さんにそんなことを言って、理解してもらえるはずがない。それが怖くて言えなかった。
だけど、お父さんを騙しとおすなんてできなかったんだね。
「翔くんか?」
その言葉にドキッとした。お父さんは俯いたまま、茶碗を取り直してお箸を再び動かし始めた。
「いいんだぞ」
「え?」
「正直に言いなさい」
「……うん」
そうなんだ。
あたし……ね……。
「ふぅ……」
風呂からがあると、もう夏樹も陽乃も布団に入ったそうだ。
「落ち着いた? 少しは」
「落ち着いたって……何も初めから怒ったりしてないよ」
「そう? まぁ……あなたにしては、落ち着いてたわね」
由利がお酒を注いでくれる。
「ありがとう」
「いいえ。飲み過ぎないようにね」
正直、自分でも冷静さに驚いている。普段なら興ってしまいそうなシチュエーションだったのに、思いのほか冷静に娘の言葉を受け入れることができた。
(あたし……ね……。翔の夢を、支えてあげたい)
正直、まだ18歳になっていない娘だ。付き合って確かに、あの佐野くんとは長いだろう。だけれども、夢を支えてあげたい、というような、それこそ夢のような話を、親としてはすんなり受け入れられるわけがない。
そう思っていた。
しかし、私はなぜかすぐにこう、答えた。
「わかった。頑張りなさい」
そうとしか言えなかった。なぜだろう。自分でも理解ができなかった。
「……。」
しばらく酒を飲んでいてわかった。
娘の瞳が、もう、子供ではなかった。私はそれを感じ取ったのかもしれない。息子の夏樹が、当時親しくしていた少女のところへ(彼女は入院していた)通っていた頃も、子供だと思っていた夏樹の目つきが変わったのを、よく覚えている。
子供は親が思うほど、子供ではない。
どこで聞いた言葉だったかは、忘れてしまった。
「お父さん?」
「ん?」
「私、そろそろ寝ますよ?」
「あぁ……僕ももう少ししたら寝るよ」
「電気だけは消し忘れないでくださいね」
「あぁ」
そう言うと由利は台所の電気を消して、寝室へ上がって行った。
「……。」
しばらくすると、ペタペタと足音が2階から聞こえてきた。
「どうした? お茶か?」
由利だと思って振り返ると、陽乃が立っていた。
「……どうしたんだ。もう12時過ぎてるぞ?」
「うん……眠れなくて……」
「眠れなくても布団に入ってなさい。お父さんも、もうそろそろ寝るから」
「……。」
「ほら。お茶でも飲んで」
「はい」
陽乃はコップに入ったお茶を軽く含んで、私と一緒に2階へ上がった。
「おやすみ」
「おやすみなさい……」
部屋に入ろうとした寸前だった。
「どうした?」
陽乃が私のパジャマを引っ張ったのだ。
「ごめんね」
「何を謝ってるんだ?」
私はまったく意味がわからなかった。
「ワガママばかりで……ゴメンなさい」
「……。」
「部活始めたときも、お父さん……反対してたのに、押し切ってゴメンなさい。進路決めるのも相談無しで……決めちゃって、ゴメンなさい」
「……。」
私は陽乃の頭を撫でた。
「陽乃」
「……。」
「もう、陽乃も今年で18歳になるんだろう?」
「うん……」
「四捨五入してごらん。もう、20歳じゃないか」
「……。」
「15歳を越えたら、もう自分である程度のことはしっかり判断していかないと。いつまでも、お父さんお母さんを頼ってばかりじゃ、ダメなんだ」
「……。」
「わかったね?」
「……はい」
「よし。それじゃ、もう寝よう」
「うん」
私は今度こそと思い、陽乃から離れた。
「でもね」
陽乃がまた喋り始めた。
「あたしにとっては、お父さんもお母さんも、ずっとお父さんお母さんだよ!」
「……。」
「20歳になっても、30歳になっても、結婚して子供ができても……お父さんはお父さんだからね」
思わず笑顔になる。
「そういうわけだから……」
陽乃の顔が赤くなる。
「おっ、おやすみなさい!」
バタン!と慌てて陽乃はドアを閉めてしまった。
「……おやすみ」
私はそっとドアを閉めた。
あと何回、君とおやすみやおはようを言えるだろうか。
指で数えられる数だろうか。
数えられないくらいあると、嬉しいけどな。