58 得心
三廻部遍は裏返った声を出した。
「東京に住むって? うちを出るのか!」
廊下に出て鞄を持った胡桃子が、少し呆れたように応じる。
「今日出るわけじゃないよ。引っ越しシーズンが終わってからだから、何ヶ月か先だよ」
「ちょっと待てって。大学卒業してから、あれだ、考えればいいじゃないか……」
「それじゃタイミングが合わないかなって、改めて考えて決めたんだ」
「タイミング?」
「文恵と付き合うんでしょ? 実を言うと、あたしは居づらかったんだよね。二人のこと大好きだけど、こればっかりはお邪魔虫になっちゃうから。文恵は年の差があるから妙に焦ってるし、お兄ちゃんもそろそろ落ち着いたらいいと思うし」
それを聞くと、玄関先まで妹についてきた遍は言葉に詰まって立ち尽くした。靴を履いて振り向いた胡桃子は、兄を見上げて優しい笑みを浮かべる。
「あたしはお父さんとお母さんがいなかったけど、おばあちゃん、おじいちゃん、お兄ちゃんが守っててくれたんだなって。最近、あれこれあってやっと気づいた。改まって言うのも変かもだけど、本当にありがとう」
「……い、いやいやいや、ちょっと待って」
その時、玄関の引き戸がガラリと勢いよく引かれ、話題の江間文恵が飛び込んできた。
「ミコ! あの小説、録論社の一次選考通った!」
「ほんと? すごい!」
小柄な二人は手を取り合って喜び、やがて一通の封書を仲良く見始める。江間の声はどこまでも弾んでいる。
「今朝になってママが取り出してきて、『忘れてた』って。それでいて『朝から騒ぐな』って怒るし」
と、ここで遍に気づく。
「あれ? 遍さん、どうかした?」
鞄を肩にかけた胡桃子が、にっこり笑って友人の手を取る。
「文恵。お兄ちゃんを宜しくね」
「え……どういうこと?」
そう言いながらも、江間の顔がみるみる赤らんでいく。
「あとはお兄ちゃんに聞いて。じゃ、いってきます」
◇
ディスプレイ上に何枚も表示されたエディタ画面を、何度も行き来しつつ読み解いていく。プリントアウトされた紙には、赤文字が乱雑に書き散らされている。キーボードを打つ手が止められ、実行コマンドを受けたプログラムが稼働した。
「くそ、また失敗だ、ちくしょう!」
エラーコードは相変わらず。思わず悪態をついて、削除キーを連打する。一向に直らないバグだけが残された。
「……やっぱり無理」
椅子に背を預けて、軸屋はボサボサの頭をかきむしった。
「はーい、焦っちゃ駄目よ」
と、須走がうしろから声をかけた。
「でも、これ急ぎですよね。それなのに、プロセスが何ですっぽ抜けるのか全く判らない」
軸屋はこめかみを両手で押さえながら、うなだれてしまった。
「やっぱり、向いてないんですよ……俺」
ついつい出てくる弱音に、須走は少し厳しい言葉を告げる。
「一々悩まない。とにかく、焦らないで」
「……でも」
今日の須走は外回りに備えた格好で、白いブラウスを勇ましく腕まくりしている。
「どうせあのことをまだ引きずっているんでしょう? でもね、もういいんだよ。軸屋くんにはプログラムの才能がある。でも、その才能を活かすための環境構築には失敗して、学んだ。それ、ちゃんと判ってね」
「人付き合いがうまくたって、肝心のプログラミングができないと」
「まだ判ってないかなあ……ま、クライアントさんとの関係性はすごくよくなってるから、そこは自信を持って!」
須走がテンションも高めに励ました時、電話が鳴った。
「オフィスハルノでございます。あ、お世話になっております。この度はお騒がせして申しわけござ……え……そうですか……はい……ああ、なるほど……はい……ありがとうございます。本人にも伝えますので……ええ……かしこまりました……では、失礼いたします」
軸屋は耳を塞ぐように頭を抱えていた。肩を叩かれて恐る恐る振り返ると、須走が恐ろしいほどの笑みを浮かべている。その視線に耐えられず、軸屋は再び下を向いてしまう。
「何ぼーっとしてんの、すぐにメールを確認して」
そう命じられ、軸屋はのろのろと操作していく。メールは案の定クライアントの担当者からだったが、そこには、先方のプログラム自体に不具合があったこと。それが原因で彼のプログラムに影響が出ていたことが書かれていた。「助かった」と、思わず口から言葉が漏れる。
「この間の打ち合わせで気になったんでしょうね。わざわざ時間をさいて調べてくれたんだって」
軸屋の肩越しに画面を見ながら須走が説明する。
「さっきの電話でも心配そうにしてたよ。ね、ちょっと判った? プログラミングの才能がどれだけあったって、こういうことができないといけないんだよ」
「はい……」
「さあて、これで急場はしのげた。今日は胡桃子ちゃん大学だっけ。なら向こうで待ち合わせでしょ。さっさと行きなさい」
「うーん。大丈夫ですかね」
「次の案件はデータの組み方がポイントだから、集中してやってくれないと困るの。こっちはいいから」
「毎回思いますけど、社外作業でいいんですかね?」
「君が集中できるなら、どこだっていいのよ。うちのスーパー経理がちゃんと単価見積もって準備万端整ってるんだから、気合入れなさいよ。ほら、行った行った!」
軸屋が事務所の扉を開けると、ちょうどやってきた直原と出くわす。大柄なこの男は眠そうな表情を一転させて破顔すると、
「おう、お疲れ。調子よくトラブってるらしいじゃないか」
と気安い挨拶を投げてきた。軸屋も応じる。
「力任せのハードコーディングじゃないんでね」
「言ったな、構造化信者が。インクルードばっかしてんじゃねえよ」
二人の応酬を聞きつけて、部屋の奥から須走が声をかける。
「直原くん、人のこと言ってられないわよ。アンカープロジェクト、デスマーチ手前だからね! ちゃっちゃと進めて」
その発破に肩をすくめた直原は、すれ違いざまに同僚の背中をぽんと押し、笑いながら室内に入っていった。
軸屋がビルのエントランスを出て外を見ると、四月の風が雲をゆるゆると運んでいる。彼は一瞬目を閉じてから「善し!」と呟き、一歩を踏み出した。
◇
大学内の大通りでは、ほとんど終わってしまった桜が、それでもちらほらと花弁を忍ばせて佇んでいる。風はまだまだ冷たいが、陽光は力強さを帯びていた。ベンチにもたれてぐったりした様子の大森は、背後から何者かに肩を掴まれる。
「ミサ!」
「あっと、クルミンか! びっくりしたー」
「たまにはあたしが驚かそうかなって。あれ、何か疲れてる?」
ベンチの隣に回り込んで座った三廻部が首を傾げた。大森はげんなりした顔でため息をつく。
「うー。履修どうしようかなあって……クルミンはいいよねえ、成績いいし」
「そうでもないかな。明日のガイダンス一緒に行こうよ」
「クルミン、元気になってよかったよー。旦那とは順調みたいだし」
「だから彼氏じゃ……って、な、何言ってるの!」
「本格的なバイトまで見つけちゃってるしさ。こないだ報告受けてから、かなり凹んだわ。あー、あたしも簿記ちゃんとやろ」
「参考書とか一式あるよ。あ、でも書き込みとかしちゃってるから……」
「むしろ書き込みを見たい。ぜひに、それを貸してくだされ!」
三廻部が快諾し、やっと大森が笑顔を見せる。
「クルミンはこれからバイト?」
「うん、図書館でね。今度の週末ゆっくり会おうよ」
「押忍! 土曜でも日曜でも空けとく!」
気合を入れて立ち上がり、三廻部と連れ立って正門に向かった大森は、向こうからやって来る手足のひょろ長い男を見つけて手を振る。
「あ! クゼユー来た。おーい!」
声をかけられた途端、子犬のように駆けてくる知人を見た三廻部が目を丸くする。
「久瀬くん? 何でここに?」
「あっちのサークルと合同で花見をするんだよねー」
「花見って、もう散っちゃってるよ」
二人が言い合っている間に久瀬が到着して会話に加わる。
「ミサちゃんと何パターンも出し物を考えてるうちに、『葉っぱ見会』になっちまった」
そう言いつつも、久瀬は満面の笑みだった。
「クゼユーが入れた居合道の演武とタイミング合わないからじゃん」
「そっちが声かけたマジック同好会があれこれ言うからだろ」
テンションが高すぎて一見言い争いに見えるほどだが、二人とも楽しんでいるのは明らかだった。三廻部はじりじりと下がってフェードアウトしようとしたが、大森に見咎められる。
「おっとクルミン、そろそろデートだね。いってらっしゃーい」
久瀬が即座に反応する。
「あ、そうか。候哉に宜しくな。今度押しかけるからって」
「クゼユー、それは野暮」
◇
直原は席に着くと珈琲を片手に須走に問いかける。
「三廻部さんって、何というか、不思議な感じの子ですよね」
「何、いきなり?」
と、プレゼン用のスライドシートを組みながら須走が睨む。その様子に怯みながら、角張った肩をすくめて直原は弁明する。
「だって、あれだけ他人を無視してきた軸屋が、ねえ。……三廻部さんは優秀でいい子だと思うけど、そんなに影響力あるのかなあって」
「うちのスーパー経理に難癖つけるなら、今度の営業で条件厳しくするわよ」
「難癖じゃないですよ。単純に不思議に思っただけです。それに、今の軸屋が駄目ってわけじゃないですけど……昔のあいつって、どんな文句を言われたって、フルコードを実装して何も言わせなかったじゃないですか。あれ、かっこよかったんだけどなあって」
「あのね。軸屋くんはそれで潰されたんだからね!」
「でも……妥協するのに慣れてないでしょ。あいつ、何だか急にガキっぽくなっちゃって」
「忘れてるだろうけど、同期とはいえ直原くんの四つ下なんだよ。彼はここから始めなきゃいけないの」
「そんなもんですかね……ただまあ、三廻部さんが経費管理してくれてよかったです。会社の経営が健全なのって、すっごい安心できますから」
「今日はやけに突っかかるけど、喧嘩でもしたいのかな?」
須走が勢いよく立ち上がると、直原はキーボードにかじりつき一心不乱に作業を開始した。
◇
漠とした面持ちで駅の改札を抜けたところで、彼は横から呼び止められる。
「候哉くん、ビルトマネージさんの案件、大丈夫だった?」
少し鼻にかかったような、妙にたどたどしいところはあるが、よく通る美しい女声だった。ビジネスリュックを左肩にかけた彼は立ち止まり、声の方向を見やった。
三廻部が券売機の前にいるのが見える。小柄な肩に洒落た革製のボストンバッグをさげて、そこにかかるくらいに伸びた巻き毛を揺らしながら、軸屋に手を振っている。丸い面貌を改めて見ると、ほんの少し大人びたような印象がある一方で、不思議な愛嬌はそのままだった。彼の元に駆け寄りながら、彼女は微笑みかける。
「よかったー。不具合がこじれたのかもと思って焦ってた」
少し垂れ気味のつぶらな瞳が細められ、睫毛が目立って優しそうな弧を描いた。その淡やかな笑顔はどこかぎこちなさも漂う独特のもので、かすかな稚気が仄見える。
軸屋は険のある目付きを和らげて微笑むと、照れくさそうに目をそらす。
「あっちの手違いだったって」
「ああ、あそこのシステム担当ってそそっかしいところあるらしいよ。でも真面目で親切な人だって」
「よく知ってるな」
「経理同士の情報網をなめちゃいけません」
「さすが」
「春乃さんの雰囲気作りが上手なのが大きいけどね」
そう言いながら、三廻部は手を差し出す。
「じゃあ、行こっか!」
軸屋は、ややためらったもののその手を取った。
「ああ。急がないと、閉館までそんなに時間がないから」
「そんなに焦らなくても、まだ午後イチだよ」
苦笑する彼女に、真面目な顔で問いかける。
「今度は何を調べてるんだ?」
「北条氏政の謎書状。弟の氏邦に宛てたものなんだけど、書いてることが奇妙なの。氏政は弟には方言っぽい変な言葉を使うことがあって……」
手をつなぎ、足取りも軽く歩んでいく彼らのうしろを、どこからか紛れ込んできた桜の花びらがひらひらと追いかけていった。
これにて完結します。お読みいただきありがとうございました。後半改変に当たって、元々のプロットはあったものの、題材と展開がどうもしっくりこなくて長考してしまいました。これをきっかけに古文書の解釈に興味を持っていただけたら、作者としてとても嬉しく思います。
一つ心残りがあるとすれば、檜原村の綾滝への取材が間に合わず取り上げられなかったことです。台風の影響で12月現在でも立入禁止になっていますが、この滝、御まつが逃避行で隠棲した場所ではないかと見込んでいます。その他の檜原村伝承でも「これは御まつと関係するのでは」と思われる記載部分がありましたが、物語がさらに複雑になりそうなので投入を見送っています。
せめてということで、第五章の参考文献・引用史料の末尾に「参考記述」として引用しました。これらは伝承に過ぎませんが、なかなかに興味深い内容です。




