57 肝煎
窓の外にあった弱々しい冬の夕日はすっかり去り、寒々しい漆黒が暗い部屋を覗き込んでいた。三廻部はカーテンをさっと引くと明かりを点け、
「色々と言わせてもらうね」
と、ベッドの横に椅子を持ってきて座り、居住まいを正して話す。
「黄梅院について候哉くんがムキになったのって、彼女の抵抗が無駄じゃなかったって思いたかったからでしょ。何か意味のある行動を起こして死んだんだって。でもね、それが無駄かなんて、結局誰にも判らないんだよ。先が見えない限り、できるだけたくさんの方法を試すしかない。最後はうまくいった氏真にしても、自分を犠牲にした黄梅院も、そうやって力いっぱい戦ったんだよ」
「そうは言っても、結局無駄なんだろ……」
「あのね!」
顔をしかめた軸屋が言いかけるのを、三廻部が強く遮った。そしてぐいと顔を寄せて訴える。
「言わせてもらうけど、あたしだって、候哉くんに悪い影響を与えてるからね」
驚いた顔の軸屋を見て、ほんの一瞬彼女は言い淀む。しかしそれを乗り越えて言葉を発していく。
「あたしが、候哉くんを歴史の話に引き込んじゃったから、結果から振り返って先に絶望するのに拍車がかかったんだと思う。歴史を調べてるとそういう発想になりやすいって、高校の頃にも話したけど、これは本当に気をつけなきゃいけないの」
軸屋は唖然としたまま動かない。彼女はさらに言葉を紡ぎ出す。
「だからもう一度言うよ。あたし達は結果を知ってるけど、氏真も黄梅院も未来なんて知らなかったんだよ。だから、できることは何でも試した。政治力がなくても全力で取り組んだし、子供達を守るために危険な脱出もしたの。
「候哉くんがプログラムを書けなくなったのって、未来予測したつもりになって、完全なものにこだわりすぎたからだと思う。でも、候哉くんが前に言ってたことだよ。完全なものは作れないって。バグは完全に取り切れないのが常識だって」
「確かに……言った」
「それを忘れちゃったのは、批評家連中にたくさん攻撃されたからでしょ。歴史を語る人達にもいるんだよね。あとづけの結果論で『自分にはそれが判ってた』とか『何でそっちを選んだんだ』って、絶対勝てる立ち位置から託宣を下すの。そいつらに対応してるうちに、錯覚しちゃったんだよ。だから、前みたいに順序立てて判断できなかったと思う」
「ああ……」
感嘆の声が漏れると、軸屋の体中から張り詰めたものが抜けていくように、身にまとった雰囲気が和らいでいった。三廻部はさらに続けていく。
「あたしが偉そうにいえることじゃないけど……それって、初めて社会に出て、焦って状況が見えなくなったからじゃないかな。でも、焦らなくていいと思うよ。あたし達から見たら、候哉くんは充分先を行ってるから。あとね、前に言われた言葉をそのまま返すよ。『最後は思考停止して、変な迷路に入っちまうぞ』って。ちゃんと食べて寝ないと駄目って、あたしを説得したのを忘れたの?」
それを聞いて、もはや抵抗することもなくなっていた軸屋の顔が嫌そうに歪んだが、三廻部はどこか得意そうに微笑んでいる。
「言っちゃった。でもほんとのことでしょ」
すっきりした顔になった三廻部は、そのあとすぐに帰っていった。
部屋の中をしばらくうろうろしていた軸屋は、不意に電話機を取り上げる。そして何度かためらったのちに、見知った相手に連絡する。
「もしもし、軸屋です。春乃さん、俺でよければ仕事を下さい。……できるかはまだ判りませんが、できる限り挑戦してみます。はい……宜しくお願いします」
◇
都心から少し外れた駅前。渋い外装の甘味処に三廻部が入ると、奥のテーブルにいた須走が手を振っているのが見えた。慌ててコートを脱ぎながら三廻部が席に着くと、須走は店員を呼ぶ。
「ここは栗ぜんざいが絶品なのよ。それでいい?」
「あ、ぜひ!」
「この仕事、男連中の相手ばっかりでね。こういう時間が貴重なの」
出されたほうじ茶で一息入れながら、須走が「ふいー」と脱力する。空気が一旦落ち着いたのを見て、三廻部はまず詫びる。
「須走さんのほうがお忙しいのに、お待たせしてすみません。それに、あたしからの相談なのに……」
「気にしないで。ちょっと早めに来て仕事をやっつけてたから」
テーブルに置かれたノートPCを閉じると、須走は興味深そうな視線を向ける。
「私のことは春乃って呼んでね。……で、軸屋くんがやっと仕事してくれることになって、よかったんだけど……どうやって説得したの? いきなりで驚いたわ」
「とりあえずご飯を食べてもらって、あとは色々と話し合いました」
「そっか。三廻部さんにしか見せない部分があるんだろうねえ」
にっこり笑っている須走に戸惑っていると、大きめの椀に盛られたぜんざいが到着して三廻部の視線が釘付けになる。
「おいしそう! 栗のいい香りがします」
「でしょ! 熱いうちに食べよう」
何度も息を吹きかけてから一口啜ると、三廻部が満ち足りた笑顔になる。
「あんこが絶品ですね! そんなに甘ったるくないけど、味わいがあって」
「でしょでしょ。もうね、いくらでも入っちゃう」
二人で夢中になって食べていると、あっという間に器が空になった。
食後のお茶で一息ついていると、須走が軽く咳払いして本題に触れてくる。
「それで、聞きたいのは軸屋くんの仕事ぶりよね?」
須走が落ち着いた声で尋ねると、三廻部は表情を引き締めて頷く。
「信用してないわけじゃないんですけど……心配になって」
「うん。電話では伝えるのが難しくて呼んじゃったけど、ちょっと問題ありってこと」
「お仕事は頑張ってみるって言ってますけど、うまく行ってませんか?」
「うーんと。そうだなあ。入社したての頃にあった集中力がないっていうか、段取りとかを見ててもぎこちないのよねえ。いや、無駄に『俺は万能』とか思い込まれても困るんだけど、もうちょっと踏み出してほしいんだよなあ。でも、彼なりに頑張ろうとしてると思うのよ」
言葉を選びながら話す須走に、三廻部が視線を落として弱々しく答える。
「あたしが力になれればいいんですけど……プログラムは全く判らないので。高校の頃に候哉くんから『正規表現』を習ってますけど、それぐらいです」
「へえ。意外なものをマスターしてるのね」
「それと、ヒントになるかは全然判らないんですけど、候哉くんは一緒に図書館に行ってた時にはものすごい集中してました。ああ見えて結構、場所に影響されるみたいですね」
そして、巨大図書館に二人で通ったことを説明した。須走はじっと三廻部を見ていたが、ぽんと手を打つ。
「三廻部さんってさ、バイトしてる?」
「え……えーと、夏休み中に本屋さんでちょっとしてましたけど。今は何も」
「じゃあ、うちでちょっとバイトしない? 優秀だけど不器用で無愛想なプログラマを、図書館で館詰めにして業務に専念させるお仕事」
「え?」
「試してみようよ。それで軸屋くんが集中できるなら儲けもんだし」
「あたしで役に立つなら、勿論ご協力します。でも……そんなのでおカネはもらえないですよ。というか、貸出枠が増えるのでむしろお支払いしなきゃいけないです」
「そうなの? 遠慮しなくていいのに。それにさ、やっぱり月曜の軸屋くんのあの笑顔が思い浮かんじゃうんだよね。三廻部さんと仕事でも接点があると、彼も安定してくれるんじゃないかなって思ったんだけど……」
「いえ、ですからご協力は喜んでします! でもおカネはいただけません」
「ふーん。あ、そういえば、三廻部さんって経営学科だっけ? 私は経理が苦手だから、一緒にやってくれると助かるかな」
「簿記でしたら二級を去年とりました」
「わお! 軸屋くん抜きでもぜひお願いしたいわ。じゃあ、これ判る? 減価償却なんだけど……」
須走はノートPCを広げ、覆いかぶさるように身を乗り出した。
「……ええと、ソフトウェアは無形固定資産なので、法定耐用年数が三年か五年なんですよ。これの用途って何ですか?」
「開発支援用のフレームワーク。これ自体を売るわけじゃないわ」
「だとすると三年ですね。除却をどう想定するかがポイントかなと」
「素敵! 今日からお願いできる?」




