56 鬱憤
枯れ草の上に座り込んだまま、軸屋は左手首をじっと見ていた。
「ごめんね、痛かった?」
三廻部の握力が優れていたことは、赤く鬱血していることから判る。彼は軽く首を振った。
「……俺……何やってるんだろう」
そして斜面から首を出して見下ろす。寒風をはらんだ虚空の彼方に、鈍い光を放つ川面があった。その奥で、微かに赤い点が揺らめいている。
「鞄……取りに行かなきゃ」
そう言う軸屋の上着を引っ張って、三廻部は首を振る。
「あれは、無理だよ。もういいから」
源五郎の岩を断念し、二人は山道を引き返していった。三廻部は、軸屋のうしろから慎重に歩を進めつつ、少し大きな声で尋ねる。
「候哉くん、氏真って覚えてる?」
「ああ、義元の息子で貧乏だったやつだろ。さすがに覚えた」
「氏真がそのあとどうなったかって、話してみようか」
その言葉に軸屋がわずかに振り向き、興味を示す。
「そのあとって? 滅亡して終わりじゃないのか?」
「一旦はね。奥さんの実家に逃げ込んで頑張ったけど駄目で、今度は自分を裏切った徳川家康のところに行くんだ。でもそこもクビになって、京都で暮らしてたの。その間も奥さんはついていって、子供が五人になるんだ」
「貧乏人の子沢山だな」
「ところが、江戸時代になると今川家は旗本の中でも位が高い『高家』になる。収入も旗本では上のほうの一千石」
ここで軸屋は足を少し滑らせる。さっと腕を掴んで支える三廻部に、振り向いて礼を言いながら、彼は目で続きを促してきた。彼女は微笑んで続ける。
「今川家自体が旧家で格式が高いというのもあるけど、元々は家康が仕えていた家だから『格式が高いんだぞ』ってしておかないとバランスがとれなかったんじゃないかな。ただ、これって氏真の能力じゃないんだよね」
「親父が死んだあとに悪戦苦闘して駄目だったのに、皮肉なもんだな」
「そうなんだよね。後北条・徳川でも、やることが全部裏目に出てたし、能力を疑われることもあったみたい」
「むしろ何もしなくなってから安定したってことか……」
「人それぞれだと思うけど、そういうこともあるんだよ」
「どうやっても無駄ってことか」
「じゃなくて、黄梅院みたいに先を読みすぎて独りで頑張っても、周りが予測どおりに動くわけじゃないってこと。だから、先に先にって思い詰め過ぎてもよくないと思う」
「……」
二人はやがて舗装された路面に辿り着き、バス停に向かって歩き出した。降り切ったところで、軸屋が左足を引きずり出した。三廻部がすぐに腕を掴む。
「さっき捻っちゃったんだろうね。少し休む?」
「いや、大丈夫。少し遅くなるから先に行っててくれ。あ、財布ごと川に落ちたのか……これ使って」
そう言って財布を取り出した軸屋を睨むと、三廻部は掴んだ腕をぐいと自分の肩に置く。
「馬鹿言わないで。ゆっくりでいいからね」
足を引きずりながらも憮然としている彼に並んで、彼女は淡々と語りかける。
「お財布とかはポケットだから。鞄に入ってたのはPCと水筒だけだよ」
「それでも……今まで入力したデータが……」
それを聞くと三廻部は笑い出す。
「また入れればいいじゃない。大したことないよ」
「そんなことないだろ。大事なデータだ」
「古文書入力はストレス解消になるから、気にしないで。それに、候哉くんと話せるから、史料を読むのが楽しいんだよ。『あ、これは謎ありだ。話してみよう』って調べていくから、面白いの」
「何件くらい入力してたんだ?」
「んー、かれこ四千件くらいかなあ。まあ大体の内容は覚えてるから」
「そんなに苦労して作ったデータを……本当にごめん」
「だから、いいって!」
途中の駅で湿布を買って応急手当をしつつ、二人が軸屋のアパートに辿り着いたのは宵の口だった。
データロストをしきりに詫びる軸屋に、三廻部が段々と本気で怒り、喧嘩でもしたかのような気まずさで道中はほとんど話すこともなかった。途上立ち寄ったファミレスでも最小限の会話のみだった。
ところが、ベッドに腰掛けてようやく腰を落ち着けた軸屋は、しばらくの間を置いてから唐突に語りだす。
「……俺は、自分の家族が嫌いだった」
掠れた小さな声を聞いて、冷蔵庫からタッパーウェアを取り出してチェックしていた三廻部の手が止まる。しかし、彼女が反応を示すことはなかった。嗄れ声はゆっくりと続く。
「中学までは憎んでいたけど、徐々にどうでもよくなって、とにかく家から出てあいつらの顔を見ないで済むようにしなきゃって思うようになった。今じゃ、接触がなければきれいさっぱり快適なくらいだから、負の感情すらなくなるくらいになってるんだろうな。
「最大の原因は親父だ。外面は謹厳実直、まじめが取り柄なだけの小心者。だけど、酒が入ると家の中で怒鳴り散らして暴れる。感情表現が下手で、元々無口だから余計判らない。気がついたら顔が紫色に染まって睨んでる。極限まで溜めてから怒りだすから、もう話にもならない。溜め込むのは本人もつらいらしくて、酒の助けで吐き出す」
語りだした軸屋は言葉が止まらなくなり、ベッドに横になって段々と声量を上げていく。
「それに対応する周囲の人間も嫌だった。親父の酒乱をひたすら我慢して、なかったことにしている家族。近所や親戚の連中も、たまに外で暴発しても助けちゃくれない。気まずそうにして、いつの間にか座を外すか、お袋がどうにか親父を引き離したりしてた。おかしい、何で振り回されなきゃいけないんだって思ってた。だから、俺の目標は二つ。あの環境に戻らなくて済むように自立することと、自分がああならないようにすること。
「とはいえ、俺はいつでも運が悪くてさ。不運を予測して対処できるプログラミングでしか、状況をコントロールできなかった。それなのに、仕事に就いてからは、とてつもなく理不尽なことが多くて。ああこれが親父の酒乱の原因かと思い知らされた。結局は俺も、自立なんてできてないし、親父みたいになるんだろうなって思ったら、もうどうでもよくなった」
声を軋らせて言ったあと、ここで一旦静まる。彼は自らが発する次の言葉を恐れているように押し黙っていたが、やがて告白を再開する。
「この際だから言っちゃうけど……高三の最後に、三廻部さんが進路で揺れたの、あれ、見ていて本当はつらかった。自分の血縁の影響から逃げられないかもって話はさ、俺にとっては『お前もその血からは逃げられないぞ』って言われてるみたいで、否定したかった。俺は、あんな家族とは違うって思わないとやってられない。それで、口を挟んじまった」
「……」
「悪かったよ。言うだけ言った挙げ句、最後にふてくされたみたいな別れ方になって。三廻部さんが自分の道を行くって決めたら決めたで、俺が余計なことをしたんじゃないかってさ。冷静に話せない気がして、逃げたんだ。何だか妙に罪悪感が出てきて」
これを聞いた三廻部が控えめな口調で異議を唱える。
「でも、ずっと毎週、話をしてくれたじゃない」
「そこまでは断ち切れなかった。情けないことに」
「そんな。情けないなんて……」
「考えてみると、一番揺れてるのは俺なのかもな。……プログラムが書けるからって、それだけじゃ何となく行き詰まるだろうなって、そんな予感はしてたんだよなあ。不思議なことに」
天井を見て訥々と言葉を投げていた軸屋は気づかなかったが、三廻部は小さな流しの前で俯き、何かをこらえるようにじっとしていた。そして、彼が話を締めくくると、そっと振り向いて微笑みかける。
「候哉くんは大丈夫だと思うよ。『そうなりたくない』って思っている間は、そうはならないでしょ」
彼女の視線を避けるように、軸屋は向こうに寝返りを打った。そして小さな声で切り返す。
「いつか無自覚に……親父と同じになってるかもしれない」
「だったら、その時にあたしが言ってあげる」
三廻部が強い口調で言い切ると、彼は振り向き、口をぽかんと開けて固まった。彼女は意に介さず言葉をつなげていく。
「じゃあ早速第一弾。そもそも、こうやってあれこれ溜め込んじゃってる段階で『親父と同じ』だからね」




