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55 越度

 それから二人は、北秋川の渓谷を見下ろすベンチを見つけて腰を据え、事前にコンビニで調達してきた握り飯とサラダで昼食に取り掛かる。清冽で硬い山の空気を味わいながら、二人は黙って食事を進めていく。


 ややあって、三廻部がゆっくりと話を振る。

「データにしてないからうろ覚えなんだけどね。あの松姫の手鏡があった民家には、錦の袋に入った笛も預けられていたって言い伝えがあるんだって。それと、偽物の墓もあったらしいよ」

「偽の墓? それってどういうこと?」

真剣に聞き返す軸屋に気圧されながら、三廻部は答える。

「えっと、追手が家に来た時『滞在中に死んだ』と言わせるためらしいよ。これが伝えられたのは、小河内峠から大菩薩峠を越えて、黄梅院の実家がある甲斐に向かうルートなんだよね」

「つまり、囮だったってことか……追手が墓を見て納得するとも思えないが、手鏡や笛があるってことは『ここを通った』って判断するよな。そして、峠を越えて実家に向かったと誤認する」

「あー、そう考えるのも可能だね」

「例の、子供やお姫様が出てくる伝承も広い檜原村全体に散っているだろ。内緒で行動した割に広まってるなって不思議だった。でも、追手を迷わせるために自分達の滞在情報をばら撒いたって考えれば納得がいく……しかし、そこまでするなら、実家に戻ればいいのに」

珍しく饒舌に仮説を連ねていく軸屋にお茶を注ぎながら、のんびりと三廻部が説明する。

「黄梅院が里帰りって、実際にはどうかなあ。母親がいるとはいえ、長兄は死んでしまって今回の騒乱になっちゃったでしょ。次の兄は盲目で実権はない。母親違いの兄の勝頼が後継者になりつつあって、とてもじゃないけど居られないと思うよ。子供達を連れていったら、逃げ出した状況より悪化するでしょう」

「なるほど。ただ、追手側からしたら、彼女が武田に行きたくない心境までは判らないし、何よりそっちに逃げられたら困るよな。だから、黄梅院は甲斐へ逃げたように見せかけたんだ。運命に翻弄された、悲しいだけの女性じゃなくて、あらゆる手段を使って戦ってるように見える」


 二人が資料館を出ると、冬にしては穏やかな日差しがそそり立つ山肌を照らしてた。ただそれでも、深い峡谷になっているため、谷の下には日が差さない。帰りのバスまで時間があったので、停留所一つ分を歩いてみようと、二人は並んで川を見ながら歩いていった。


 三廻部は悲しそうに俯きながら、

「でもさ。黄梅院は頑張りすぎたのかもね……何だかんだで結局、国王・国増はそのまま家に留まっているし、三年後には武田と後北条はまた同盟を結んでるんだよ。死ななければ『あの時は大変だった』って笑い話にできたかもしれない」

と独り言のように話す。隣で川を見下ろしていた軸屋がそれに突っかかる。

「じゃ、無駄なことをしたのか」

「厳しい見方をすると、そうだね……」

いつものような半ば困ったように見える笑顔で、三廻部はさらに話し続ける。

「氏政が『国増は手放さない』って拒絶するのは、黄梅院が亡くなって四ヶ月後。だからちょっと間が空いてるし、氏政が態度を硬化させた主な要因は、さっぱり動かない輝虎への不信感から養子を断ったみたい。だから、奥さんの死が関係したっていう証拠はないんだよ」

軸屋がそれを聞いて小石を蹴り飛ばした。彼女はその肩にぽんと手を置く。

「でもね、全くの無駄死にじゃないと思うよ。国増がキャンセルされても越後への養子入りがなくなったわけじゃなくて、揉めた挙げ句に、氏康の末息子が行ったの。何となく話が流れた氏真への養子とは違っててね。だから、氏政が強く断らなければ、国増が越後へ養子に行った可能性は高いよ。氏政がなりふり構わず拒絶したのは、やっぱり奥さんの死があったからかなって」

「……」

「この二人、考えてる方向は似てるんだよ。でも、ちゃんと話せてなかった。話し合ってたら、こんな悲劇は起きなかったと思う。お互いがそれぞれ一人で解決しようとして、破綻しちゃった……ってあたしは思うよ」


 話し込んでいるうちにかなり進んでしまったようで、下り坂が大きく曲がっている箇所に二人は到達する。視界には、深い渓谷の向こう側に切り立った山が現れた。地図と山肌を見比べながら、三廻部が声を挙げる。

「あ、あれかな。『源五郎の岩』」

指をさす先を軸屋が見ると、崖のような斜面に、ほとんど木に覆われた岩が見えた。

「何かいわれがあるのか?」

「おじいちゃんが持ってた『檜原村史』に書いてあったけど、『源五郎の岩』と『隠れ岩』という伝承があるんだって。檜原城主の平山氏重が、落城後に隠れたのが『隠れ岩』、氏重の居場所を村人の源五郎が敵に知らせ、それを見咎めた氏重の眼光で源五郎が転がり落ちたっていうのが『源五郎の岩』って言われてる」

「源五郎……? 聞いたことがある名前だな」

「『源五郎』は国増が元服したあとの名前。ただ、これは偶然だと思うよ。だってこの時は国増という名前だから。源五郎って名乗ったのは元服してから」

「ふむ。しかし、妙な符号だな……」


 そのあと、どうしても源五郎の岩に行きたいという軸屋に付き合って、さらに歩を進めて北秋川を渡り、急な山道を三廻部は登っていた。地元の人も通らないのか、踏み跡がほとんど消えている。体調はかなり戻ってきているものの、時折バランスを崩す軸屋。その足元を、彼女は不安そうに見守る。


 徐々に息を荒げながら、軸屋は推理を飛躍させていく。口調が妙に急き込んだ感じになっていた。

「母親と子供達が追手に捕まって無理やり連行されてた時か……追手に追われて慌てて逃げてる時か……そういう状況で、国増が沢に落ちた事件があったんじゃないか。それで、その子供がのちのち源五郎と名乗ったのを知って名付けたって可能性もあるだろ」

対する三廻部は論旨よりも足元が気になっているようで、曖昧に答えている。

「まあ、そうとも読み取れるね……」

それに構わず、軸屋は伝承からの推測を口にする。

「子供はうしろ向きに足を踏み外し……そして川に落ちた」

気もそぞろだった三廻部が、その暗合を聞いて話に追随していく。

「候哉くんの言いたいことが判ってきたよ。子供が落ちて、母親はそれを追って川に飛び込んだ……この斜面の感じだと、結構下まで落ちちゃうから、怪我もするだろうね。で、どっちの血か判らないけど、川面が赤く染まった。伝承のあちこちに『赤』が出てくるのはここからってこと?」

「部下達も助けようと竿を差し出す。何人かは飛び込んだか。でも、子供は助かったけど、母親は沈んでしまった。淵の姫はここから来たのか」

「あ……もしかして。源五郎って、天正十年に初陣で活躍するんだけどそのすぐあとに亡くなっちゃうんだよ。もしかしたらこの騒ぎで体に障害が残ってて、それでも無理をして戦場に行ったのかも……」

「ああ、何だかつながった。伝承ばかりで何の証拠もないけど、この結末が一番納得がいく」

「そうだね。史料の裏付けはないけど、あたしもそう思う。これなら、黄梅院が亡くなった経緯に誰も語らなかったことも、それでいて国母に準じたことも説明できるから」

小さな折り返しに到達したところで、二人は立ち止まった。どちらも戸惑ったような表情だったものの、そのうちにどちらも笑い出す。軸屋は特におかしそうだった。

「不思議なもんだ。正確な史料でなきゃ納得いかないぞってところから始めたのにな」

「そうだね、ぐるっと回って今度は、伝承から組み立てた仮説のほうに納得してる」

「まあ、確実な史料からの合理的解釈とはとても言えないけどな」

「いいんじゃない? あたし達が納得できれば。……てことで、そろそろ降りない? 岩はまだまだ上だし、ここから先は道がほとんどないよ」

「もうちょっとだけ。行けるところまで行ってみたい」

息はもうとっくに上がっているくせに、目だけ爛々と輝かせた軸屋は再び歩き出す。



 快晴の空から降り注ぐ陽光を仰いだ時、彼の右足が滑った。枯れ草に隠されていた窪みに足を取られ、平衡が瞬時に失われる。ぐらりと傾いた先には、遥か下に見える北秋川の渓谷があった。と、左手を強く掴まれる。彼が首をひねると、真剣な顔の彼女がいた。放り出された赤い鞄が視界をかすめ、彼は咄嗟に手を振りほどこうとするが、彼女の腕は微動だにしない。丸く見開かれた彼の目と、眇められ強い光を放つ彼女の目が互いを捉える。次の瞬間、彼女の左手が路肩の太い木を掴み、枝が空を切ってしなる音がした。



 遠い下方で鈍い音、続いて水音が響く。



 山の音が戻ってきた。谷を渡る風が飄々と吹き抜け、遠くで鳥の鳴き声が響く。

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