54 闕落
その翌朝、二人は檜原村の郷土資料館に向かっていた。電車を乗り継いでの長旅ののち、バスに乗り換えて山道を揺られている。東京とは到底思えない深い山々の奥への移動に、三廻部は目を輝かせて車窓の外を眺めつつ、隣に座っている軸屋へ説明する。
「黄梅院は、お嫁さんで来る時も山を抜けて途中で引き渡されてて、何だか因縁を感じちゃう。嫁入りはとっても豪華なものだったらしいよ」
そう言って赤い鞄からPCを取り出してテキストを表示する。
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『勝山記』天文廿三甲寅
●原文
此年極月 武田晴信様ノ御息女様ヲ相州氏康ノ御息新九郎殿ノ御前ニ被成候。去程ニ甲州一家国人色々様々ノキラメキ、或ハ熨斗付、或ハカヒラケ、或ハカタ熨斗付、或ハ金覆輪鞍。輿ハ十二挺、米岐女ノ役ハ小山田弥三郎殿被成候。御供ノ騎馬甲州ヨリ三千騎、人数ハ一万人、長持四挺二挺。請取渡ハ上野原ニテ御座候。相州ヨリ御迎ニハ遠山殿、桑原殿、松田殿、是モ五千計ニテ罷越候。去程甲州人数ハ悉皆小田原ニテ越年被食候。小山田弥三郎殿ノ御内ニハ小林尾張守殿、氏康ノ御座ヘ参候。加様成儀ハ末代有間鋪候間書付申候。
○解釈
この年十二月、武田晴信様のご息女を相模国の北条氏康の息子新九郎殿の御前(奥さん)になされました。ということで甲斐国の武田一族とその部下達は様々なきらめく服装をして、あるいは熨斗をつけ、あるいは袴を広げ、あるいは肩熨斗をつけ、あるいは金覆輪の鞍を置きました。輿は十二挺で、蟇目の役は小山田弥三郎殿がなされました。お伴の騎馬は甲斐国より三千騎で、人数は一万人。長持は四挺と二挺。引き渡しは上野原でございました。相模国からは遠山殿・桑原殿・松田殿が、こちらも五千ばかりでお越しになりました。そして甲斐国の人々は全員が小田原で年を越されました。小山田弥三郎殿の部下、小林尾張殿は氏康の所へ参上しました。このようなことは末代までないだろうと思うので、ここに書き残します。
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読み終えると、軸屋の眉間にしわが寄る。
「そっちのコースもあるのか」
「うん。甲府盆地から上野原に行って、津久井から相模原に抜ける道だよ」
「なるほど……だったら、嫁入りしたのと同じコースで逃げるんじゃないか?」
「それは違うと思う。上野原経由の千木良口だと、津久井の内藤、大月の小山田っていう百戦錬磨の人達の領地を通らなきゃいけないんだよ。あっという間に通報されるか、うまく利用されると思う」
「ふーん。それでこの檜原か。ここよりもっと遠くなったら、追手に追いつかれて武田領に近づけないだろうしな」
「それもそうだけど、秩父から向こうは北条氏邦という別の兄弟がいてね、彼は父や兄に従順なんだよ。だから、黄梅院が脱出するなら、氏照の支配が及ぶここしかなかったと思う」
やがてバスが到着し、降り立った二人は館内で松姫の手鏡を見る。持ち手を入れても二〇センチ足らずの金属製で、『武田菱』と呼ばれる家紋が刻まれていた。居宅内の地下に埋められていたのを偶然掘り当てたという、ツルハシか何かで開けられた穴があって生々しい。
じっと凝視する軸屋をよそに、三廻部は農耕具をあれこれ見ている。平日の午後ということもあって館内は二人きりだった。
やがて一区切りついた軸屋を見て、三廻部は彼を休憩所のような場所へ連れていき、巨大鞄から出した水筒で温かいお茶を注ぐ。そして、PCを取り出してテキストファイルを見せる。
「こういう伝承もあるよ。黄梅院が逃げた状況と妙にかぶるような感じがするでしょ?」
そこには、自宅で入力したらしい文字列が表示されている。
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『復刻版檜原村史研究一』(檜原村村史編纂委員会)六十二ページ「桧原村の伝説一」
■お姫が淵
数馬の太平にある。姫様が、いつも深い淵の中で機を織っていた。淵の端に立ってみると、機あしのうしろにいつも、きれいな布がうず高くたまっていた。或時、炭焼きが、布をとろうとして、長い竿を淵の中につっこんでかきまわしたが、何一つ採れなかった。明治の頃、学校へ行く途中の子が、お姫が淵のそばで友だちを待っていたら「バシャ」と大きな水音が淵の方でした。見ると、淵の中に真赤なものがいた。びっくりして大声を出した。村人が集まってみると、岸まで水が跳ね上がっていたが、怖物はいなくなっていたという。
藤原のかぶや沢にも姫淵がある。深い淵である。昔、姫様がお嫁に行くのを嫌がり、ここに身を投げた。近所の者が助けようとして長い竿を入れたが、姫様には届かなかったという。
■忠兵衛子淵
かぶや沢にある。深い淵である。昔、飢饉の時、忠兵衛が、子どもを養えなくなり、淵にすてたのでこの名があるという。子どもをうしろ向きに捨てたとも伝えられる。
■赤びら淵
湯久保沢にある。一名赤子淵。まわりの石がみな赤いので赤びら淵の名が出たというが、一説には、昔飢饉の時、某が口べらしのため赤子をここに捨てたので、赤子淵というのが本当だという。
■子ども淵
泉沢にある。昔、平山伊賀守氏重が、戦争に負けてのがれる時、子どもを淵に投げ込んだという。
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「こういう話を見てると、黄梅院は息子三人と一緒に川に身を投げた、みたいに見えるな」
横から覗き込みながら、軸屋が感想を言うと、
「それは現実と食い違ってるなあ。息子達は生きてるし、のちのち黄梅院は高待遇で祀られてるの。これちょっと見て」
三廻部は別のファイルを表示させる。
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古文書四十七
○原文
黄梅院住持職并寺領之事、奉任候、急度可有御入院候、仍状如件、
天正三年乙亥
七月十日 氏政(花押)
養珠院
衣鉢禅師
戦国遺文後北条氏編一七九一「北条氏政判物」(早雲寺文書)
●解釈
黄梅院の住職と寺の領地のこと。お任せいたします。取り急ぎご入院(就任)下さい。
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「『養珠院殿』は北条氏康の生母で、国の母みたいな待遇の女性なのね。そして、その国母と同じ住職によって、氏政の奥さんが『黄梅院殿』として祀られるってことなの。大切な跡取りごと心中しようとしてたら、こういう待遇にはならないと思う」
三廻部のその解説に頷きながら、軸屋はじっと考え込んでいた。
「大事な跡取り息子達を武田に連れ去ろうとしていたのに?」
「そうだね。そこはこの仮説の弱点だと思う。それに、黄梅院っていう、氏政の奥さんで、武田晴信の娘だった人が亡くなっても、それを上杉に報告してないんだよ。これも、改めて考えると変かも」
「不自然なのか?」
「はっきり不自然ってわけじゃないけど……この時に上杉に送ってた報告書って、ものすごい細かいんだよ。ここで攻撃されたとか、こういう噂があるとか、誰を討ち取ったとか。でも、この女性の死は完全に情報を隠してる」
「何か、もっと複雑な事情があるってことか」
軸屋は心ここにあらずという感じで呟く。その覚束ない様子を、三廻部がじっと見つめていた。