52 御まつ
話が曖昧に終わったまま、二人は三廻部家に到着した。すでに江間と遍が宴席を準備している。軸屋を迎えた二人は好対照だった。笑みをこぼして両手を広げる遍は、心から再開を喜んでいる。
「軸屋くん、元気そうじゃないか。胡桃子がちゃんとお役に立てているようで何よりだよ」
その一方で、痩せこけたその外見で若干怯んだものの、江間はいつも通りでいくことにしたようだ。
「軸屋くん、あの倉庫は本当に駄目人間だからね。ロボ以前だから」
と叱りつけて、ふと軸屋が手ぶらであることに気づく。
「え……本体……じゃなかった、パソコン持ってない?」
軸屋は大きく肩をすくめる。
「遍さんも、江間さんも、本当にお世話になりました」
そして深々と頭を下げた。
久瀬は少し遅れて駆けつけるとのことだった。食事が始まると、湯豆腐やサラダが強制的に軸屋に押し付けられる。
「文恵、ちょっと待って。候哉くんはまだ胃が本調子じゃないから、野菜ばっかりは無理」
胡桃子が注意する横で、遍がビールを注いでいる。
「お兄ちゃんも、ちょっと考えてよ。駄目だよお酒なんか!」
「えー、軸屋くんお酒弱い?」
「いえいえ。血統的には強いほうだと思いますよ。じゃあお付き合いだけでも」
「いいね、話が判る。酒は百薬の長だから」
調子に乗った遍が他のグラスにも注いで回っていると、玄関先で久瀬の声がした。
友人の気楽さで久瀬が軸屋を罵倒するくだりが演じられたあと、乾杯の音頭をということで、年長の遍がグラスを掲げる。
「軸屋くんの体調回復と、皆さんのこれからの健康を祝して……って、いいなあ。みんな大人になったんだなあ。いやもう、感無量だなあ」
「遍さん、それはあとでいいから、早く『乾杯』って言ってよ」
いきなり感情がこみ上げてしまった遍を、江間がたしなめる。
「いやあ、歳をとるとついつい」
「まだ三十手前なんだから、年寄りにならないで」
いきなり機嫌が悪くなった江間に向かって、おどけたようにグラスを掲げて遍は静かに言う。
「ではシンプルに、乾杯」
食事が始まると、胡桃子が江間に今日の成果を報告し始めた。双子の息子をどちらも養子に送られる決定があり、その直後に亡くなったという辺りで江間の目が輝き出した。しかし、死の真相が不明なままだと聞くと落胆する。
「うーん……残念。ねえ、氏政と奥さんとの間の手紙とか残ってないの?」
すがるように問われるが、胡桃子は首を振るしかなかった。
「弟達に送ったものとかはあるけど……そもそも女性宛てって一通しか心当たりがないんだよ」
「誰宛て?」
「多分、母親じゃないかって言われてるやつ。新年の挨拶で、今でいう年賀状みたいなの」
「それでいいから見せて」
江間の勢いに、胡桃子は中座して自室に戻った。やがて、コピーした紙を江間に渡す。
「『上書』ってあるのは、今の葉書の表と一緒。ここでしか宛名と差出人が書かれてないの。本当は本文のうしろにも宛名や署名は入れるんだけど、ごく親しい間柄だと何も書かなかったりするんだ」
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古文書四十六
○原文
ことしよりの御よろこひ、まいり候ても申あくへく候へとも、ちん中の事にて候まゝ、なんてううきやうのすけをまいらせ候、さてハ三色二かしん上致し候、めてたくことしはさうゝゝほんいつかまつり候てまかりかへり、よろつ申あけ候へく候、かしく、御ひろう申候へ、
(切封上書)
正月
一日 玉なはより
御まつ御かた御申 うち政
小田原市史資料編小田原北条二一七二「北条氏政書状」(弘文荘名家真蹟図録)
●解釈
今年のお喜び、会って申し上げようとしたのですが、陣中にいますので、南条右京亮を伺わせました。さて、三色二荷を進呈します。めでたくも、今年は早々に本意を成し遂げて帰って、すべて申し上げましょう。かしこ。ご披露をお願いします。
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江間はこれに食いつく。
「これ、いいじゃん。いい! でも『三色二荷』って何?」
「普通は三種二荷って書くから、これは書き違いだね。『種』が肴、『荷』がお酒で、差し入れによく使われるやつ。この場合は年賀の贈答品っぽい」
「じゃあ、氏政の母親が『まつ』って言うの?」
「そうとは限らないけど……」
胡桃子が口ごもるのを見て、それまでは画面を黙って見ていた久瀬が口を挟む。
「これってさ、氏政が戦地に行ってるから正月の挨拶ができなかったんでしょ? いつのものか判るの?」
「どの史料集でも年未詳ってしてるけど……ちょっと待ってて。うーん」
と胡桃子が考え出した。その隙に、遍がビールを注ぎまくる。やがて、意識が戻ってきた胡桃子が「永禄四年!」と断言し、兄の手からビール瓶を取り上げつつ補足する。
「年越しで出陣しているのは何回かあるけど、この手紙は出した場所が『玉なは』ってあるでしょう。玉縄は今の鎌倉市北部で、後北条の城があったところ。ここで合戦の準備をしているのは、上杉輝虎が大軍を率いて南下してきたこの年だけ」
そう言いながら睨んでいる妹をなだめるように、遍が話をつなぐ。
「それ、何歳くらいのこと?」
「満年齢だと二十歳か、もうちょい上ぐらい。父親が引退して当主になってから一年ぐらいだから、張り切った感じの文章になってるよね」
聞いていた江間が大きく頷く。
「これさあ、奥さんへの手紙じゃない?」
「それ、江間さんの願望だろ?」
と、久瀬が呆れたようにたしなめるが、江間はめげない。
「だって、私達と同じ年頃って考えたら、何だか奥さんへのラブレターみたいに思えて。情熱を感じるのよね」
目を輝かせて語る友人に、胡桃子も同調する。
「そうだね。文恵の仮説も一理あるよ。『かしこ』で一旦文を閉じてから『ご披露をお願いします』って書いてるのって、父と母への挨拶を妻に頼んだって考えると自然だし。ただ、一つ難点があるかな」
「一つなら何とかしてやろうじゃない。言ってみて」
「『まつ』っていう名前」
「また名前? 何で?」
「氏政の奥さんは武田晴信の長女なのね。そして、晴信の五女に『松』という女性がいるんだよ。ちょうどこの永禄四年に生まれているらしいけど、長女と同じ名前をつけるかなって」
それを聞くと江間はしばらく黙り込んだ。その隙に遍が語りだす。
「いやー、議論なんて、久しぶりに聞くね。いいことだ、若人よ、もっと言い争いたまえ!」
女性達が話している間に、空き瓶が増えていた。野郎軍団はぐいぐい飲み散らかしていたらしい。遍も久瀬も顔が赤くなっていた。ただ、軸屋はほとんど酔った形跡が見られなかった。胡桃子が冷たい声で宣告する。
「はい、お酒はもう終了!」
「えええ、胡桃子、それはないよ。軸屋くんは今日このまま泊まってもらうんだろ?」
この懇願に胡桃子が頷くのを見て、遍は調子に乗ってみる。
「よし。じゃあ、これからウィスキーに移ろうか」
「水以外は禁止」
妹の叱責にうちのめされ、兄はそのまま炬燵にもぐり込んでしまった。それを見て、少しふらつきながら久瀬が立ち上がる。
「さて、俺らは帰るか。送ってくよ」
そう言ってコートを着つつ江間を見やった。柱の時計を見て慌てた江間は、立ち上がってこちらも上着をまといつつ、軸屋を見据える。
「軸屋くん、出番よ」
それまで大人しく引っ込んでいた軸屋は、何事かと視線を上げる。慌ただしく身支度を整えつつ、江間が指示を出してきた。
「五女のほうの『松』がいるかどうか検証してちょうだい。できれば、いない方向で!」
「ちょっと文恵、何言ってるの? 候哉くんは病み上がりなんだから」
「ミコが独り占めなんておかしいでしょ。ここで『軸屋抹殺モード』を使わせてもらうわ」
胡桃子がぐっと返答に詰まる一方で、軸屋は淡々と応じる。
「判った。色々世話になったからな。ただ、結果を江間さんが気に入るかは知らないぞ」
すっかり帰り支度を終えた江間は、久瀬のあとを追って廊下に向かいつつ応じる。
「いいわ。納得できればそれで」




