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50 養子

 ある日曜日、すでに日が傾いて空気が堅く引き締まっていく時刻。この日は三廻部の家で軸屋の快気祝いを行なうことになっていた。


 入院騒ぎから半月ほど経っている。大学が休暇に入った三廻部は退院からほぼ毎日通い、不精な無職男の食事を指導していった。おかげで軸屋の頬にはやや膨らみが出てきて、血色も人並みになってきている。


 久しぶりの電車で隣に座りながら、軸屋は尋ねる。

「三廻部さんちに集まるんだから、今日うちに来る必要なかったのでは?」

それに対して三廻部は、赤い鞄を膝に置いて少し口を尖らせる。

「いいでしょ。久しぶりに電車でお話したかったんだから」

その口調に彼は苦笑いする。

「ああ、この構図は懐かしいな……。そういえば、今って何を調べてるの?」

「文恵が築山殿の小説を書いてるって話したでしょ。その参考になればと思って、ああいうのに近い女性の話をまとめてるんだ」

「へえ。悲劇の女性系とか?」

「今調べてるのは、北条氏政の奥さん。三国同盟が崩壊した話って覚えてる?」

軸屋はちょっと考え込みながら応答する。

「ええと、氏真が貧乏で、武田だっけ? に攻め込まれたんだろ?」

「うん。まず、武田晴信の息子、義信が失脚して死んでしまうのね」

「さらっと言うけど、ほんと怖い時代だよな」

「まあね。義信は奥さんが氏真の妹だったから、今川から離れて織田と結ぼうとしていた父親に反発したみたいなの」

「思い出してきた。それで、嫁にやった妹を返せって辺りで本格的に揉めたんだよな」

「そうそう。で、そのあと晴信が駿河に攻め込んじゃう。籠城もできなかった氏真とその奥さんは駿府から逃げ出すのね」

「あっけないな……」

「ところが、氏真の奥さんは北条氏康の娘だったから、氏康が激怒して武田と戦い出すわけ」

「まあ、そうなるよな」

「そんな状態の中、氏康の息子の氏政の奥さんが亡くなってしまう」

「何で?」

「武田晴信の娘だったから実家に返されて、その悲しさで亡くなった。通説だとそう書かれてるね。結局のところ、晴信は同盟を破棄したことで、自分の長男と長女を失っちゃうんだよね」

「皮肉だな」

「でもね、あたしはちょっと引っかかって。敵対したからって実家に返されるのかなって」

「ああ……まあ考えてみればそうか。いちいち奥さんを返してたら切りがないよなあ。この時代って同盟したり敵対したりを繰り返してたんだろ?」

「そうそう、そこなの。他の例をちょっと比較してみたんだけどね……」

鞄から取り出したPCでテキストファイルを表示する。


■実家に戻らず


北条氏康室 父:今川氏親 息子:北条氏政ほか 敵対時に夫は健在

今川氏真室 父:北条氏康 息子:今川範以ほか 敵対時に夫は健在

浅井長政室 父;織田信秀 息子:大福丸?   敵対時に夫は健在

武田勝頼室 父:北条氏康 息子:なし     敵対時に夫は健在

細川忠興室 父:明智光秀 息子:細川忠利ほか 敵対時に夫は健在


■実家に戻る


武田義信室 父:今川義元 息子:なし     同盟中に夫が死去

徳川信康室 父:織田信長 息子:なし     同盟中に夫が死去


画面を見て軸屋が考え始める。

「なるほど、実家に戻った例だと、夫が亡くなって、なおかつ息子がいなかった場合だけか。そして、同盟は継続されると」

「そう。そして逆に、敵対した場合は夫が健在なら、むしろ実家には戻っていないの。跡継ぎの息子がいるかどうかはあまり関係ないような感じ」

そう言って三廻部は『実家に戻らず』の項目に追記する。


北条氏政室 父:武田晴信 息子:北条氏直ほか 敵対時に夫は健在


「だとすると、その奥さん、実家の父親がやらかしたのを気に病んで体を壊した?」

画面から目を離した軸屋は、考えながら推測する。三廻部はそれを受けて、

「でも、他の例を見ても、それぞれ奥さんはたくましく生き抜いてるからねえ。そこが不思議で調べてるんだ」

と、画面にデータを表示した。

「確実な情報から追うとね、氏政室の史料はあんまりないんだけど、これは一番確実だよ。高野山の高室院に伝えられた北条家過去帳に、彼女の命日と戒名が伝わってる」


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■高室院過去帳


   相州太守氏政公御前 取次同院

黄梅院殿春林宗芳大禅定尼

   永禄十二己巳六月十七日

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「ここで『取次同院』ってあるのは、過去帳の前の項目で西光院というお寺が仲介していたことを指すんだよ。ここは小田原のお寺で、他の人達の供養も仲介してるの。この奥さんの戒名『大禅定尼』はランクが高いから、扱いに奇妙なところはないかな。とりあえず、死去した日付はこれで確定」

「この人の死の前後って、どんな出来事があったんだ?」

「史料を見ると、この前日の六月十六日に、一旦は甲斐に撤退していた武田晴信が駿河にまた侵攻を始めたってことで、氏康・氏政の親子が慌ててるね」

「ふーん。その前から戦ってたんだから、まあ今更だよなあ。もっと前は?」

「直接彼女に関係しそうなところだと、六月九日に、後北条家の主な人達が一斉に上杉輝虎に起請文を出してる。武田と戦うためには上杉との同盟が必要で、その交渉の最終局面なんだ。で、その中で氏政が『輝虎の養子として次男の国増丸を送ることに決まった』って書いてるね」


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古文書四十一


●原文


為御養子、氏政次男国増丸可被定由候、雖斟酌候、任先約之旨、落着申候、越相御甚深歓喜満足候、猶御両使へ申候、恐ゝ謹言、

    六月九日      氏政(花押)

              氏康(花押)

   山内殿

戦国遺文後北条氏編一二五三「北条氏康・同氏政連署書状」(上杉文書)


◯解釈


ご養子として、氏政の次男である国増丸をお定めいただこうということ。熟考しておりましたが、先の約束の通りに落着しました。越後・相模の縁が深まることに歓喜し満足しています。さらに二人の使者へ申しました。

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その文面を覗き込みつつ、軸屋が確認する。

「次男ってことは、長男が別にいたのか?」

「氏政の息子でこの時すでに生まれてたのが判るのは、国王丸・国増丸・菊王丸だね。というのが、この十一年後に出された記録では、氏直・源五郎・菊王が並んで書かれてるのね。で、この直後に菊王は元服して氏房って名乗るから、菊王くんは当時三〜四歳ぐらいかな」


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古文書四十二


○解釈


五貫文、お屋形様より遣わされた。

一貫文、源五郎殿より遣わされた。

一貫文、菊王殿より遣わされた。

一貫文、ご隠居様より遣わされた。

以上。右は、大井宮がお鷹狩のご休憩所になったので、遣わされた。このほか伊勢殿・小笠原殿をはじめ、大井宮でお食事する者から今年中早々に徴収して受け取り、正月のお鷹狩では、(わら)(むしろ)でもいいので綺麗に敷いておくように。さらに、大井宮でのお供衆以外から徴収してはならない。

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軸屋が考えながら話をつなぐ。

「ということは、真ん中の次男を養子に送られるのを悲観して亡くなった?」

「ところが、長男と思われる国王も養子に決まってるんだよね」

三廻部がそう指摘すると、軸屋は驚く。

「え、何で? 長男って普通跡取りじゃないの?」

「それが、この一ヶ月ちょっと前に、いきなり今川氏真の養子に国王が決定してる」

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