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49 表裏

 軸屋が入院した翌日の昼頃。頭にバンダナを巻き、古びたトレーナーとジーンズ、使い捨てスリッパで完全武装した江間がアパートの一室でたじろいでいた。

「すりガラスでもないのにカーテンがない、もしかして、立て掛けてあるダンボールがカーテン代わり? 辛うじてコンロはあるのにヤカンすらない、食器はもちろんない、玄関マットもない、ミニサイズの冷蔵庫は空っぽ、布団もなくて寝袋? どういうこと? 昨日引っ越したの?」

所在なげにトイレのドアを開けていた久瀬が答える。

「いや、高校卒業からずっとここだよ。俺、二回くらい遊びに来た」

「あいつ、本当にロボだわ。あー、もうしょうがない」

江間は苛立ちながら、持参したバッグから巻き尺を取り出す。

「掃除道具を買ってきて! ないんでしょ?」

憮然とした表情で久瀬が切り返す。

「ミニ掃除機はあるよ、ほら。何かの景品でもらったやつ」

「まあいいか。じゃあ、バケツと雑巾。あとは台所・浴室・トイレの洗剤、ゴミ袋。さっさと買ってきて」

久瀬が直立して敬礼する。

「ラジャー! カーテンも買うのでありますか?」

佑佐(ゆうすけ)が買ったらろくでもないことになるから、やめて。あと、レシートは全部もらって。ミコがチェックするって言ってるから」

「かしこまりましたー」

「ついでに、ホームセンターか何かでカーテンと布団とベッドがあるか確認、ついでに配送も聞いておいて。あぁもう! 倉庫か、この部屋!」

そう言いながら小さなシャワールームを開けた江間が絶叫する。その声に、一旦出ていた久瀬が引き返してきた。

「どうしたのでありますか?」

「ゴキブリ……」

江間が指さす先には、排水溝でひっくり返った黒い物体があった。

「餓死してるな」


 ◇


 退院すると、軸屋と三廻部は真っ先に大家の元に行く。騒がせたことを詫びると、平岩は豪快に笑って軸屋の肩を叩いた。

「とにかく、無事でよかった。最初は死んでるかと思ったぞ」

そう言って肩を揺さぶるので、病み上がりの軸屋がフラフラになる。

「彼女に感謝しなよ。すごい必死になって飛び込んでったんだから」

言われた三廻部が赤面する。

「あの時は失礼しました……とにかく慌ててたので」

「いいって。おじさんは感心したよ。また何かあったらいつでも言って」

その言葉に感謝を示しつつ、彼女は紙袋に入った手土産を渡す。

「これ、大したものじゃないですが、宜しかったらお召し上がりください」


 頭が揺れてめまいがするのか、目元を押さえた軸屋はアパートに向かいながら、

「あの手土産って?」

と訊く。三廻部は涼しい顔をして鍵を軸屋に渡しながら答える。

「お兄ちゃんから。すぐに挨拶しておけって言って。あの人、こういうのは気が利くんだよね」

「何から何まで申し訳ない」

「いやいや、これでもあたし、セーブさせたから。退院したら静養するためにうちへ泊まってもらえってうるさかったんだよ」

「いや、いくらなんでもそこまでは……」

「ああ、そういうんじゃないよ。多分、パソコンの相談役と買い出しの仲間がほしかっただけだと思う」

「そうなの?」

「多分ね。でも、今度会ってくれる? 元気な顔を見たら安心すると思うから」

「うーん、元気? 俺、元気になるのか?」

「候哉くんってさ、ほんと、時々お馬鹿ちゃんになるよね」

浴びせられる三廻部の冷たい視線を避けるように、軸屋は部屋のドアを開けた。

「ん? やばい、部屋間違えた」

慌てて飛び出すが、部屋番号は一〇二で合っている。挙動不審になる軸屋を尻目に、三廻部はさっさと部屋に上がる。

「お邪魔しまーす」

「え? ちょっと、三廻部さん、部屋違うよ」

「久瀬くんと文恵に頼んで最適化してもらいました。あの二人にもちゃんとお礼を言ってね」

どこかの倉庫か廃墟にしか見えなかった軸屋宅が、カーテンからベッド、電子レンジ、スリッパ置きに至るまで、必要充分な備品が全て装備されている普通の住居空間になっていた。呆然と三和土に立ち尽くす軸屋を促してベッドに座らせると、三廻部は支出明細を書き出した紙を渡す。

「あまりに何もなくて、ちょっとかかっちゃったけど」

「これがおねだりってことか?」

「元気でいてくれないと、史料の話をする相手がいなくなっちゃうから」

「俺じゃなくてもいいだろ」

「駄目! 候哉くん以外は無理だよ」

「判った。これだけ迷惑をかけたら、俺は何も言えない。というか、ノートPCの最新型でもプレゼントしようかと思ったけど」

「え、いいよ。ずっと借りっぱなしのやつが元気に動いてるし」

「あの重いやつをまだ使ってくれてるのは嬉しいような気もするが……」

「電池がもたなくなってるから、それを直してほしいなあ」

「判った、取り寄せておく。ほかに何かない? 今のうちに言っておいてくれ」

「『今のうち』って? 何かいやな言い方」

「あ……そんなに深刻な意味じゃないって」


 ◇


 その翌日の午前中、三廻部は大学にいた。春休みに突入した構内は閑散として人影はない。大きな鞄を抱えて図書館に行くと、すぐに出てくる。しかし、そこまでは足早に動いていたものの、ふいに足を止めると、街路樹のそばのベンチに座ってしまった。

「……」

鈍い冬の日差しが敷石を弱々しく撫でている。時折舞う枯れ葉をぼんやり眺めていると、肩先をちょいちょいと突かれた。

「クルミン、何で来てるの?」

「わー! 何! 誰?」

いつの間にか、ベンチのうしろに大森が立っていた。飛び上がった三廻部に驚きながら、にっこり微笑みかける。

「驚きすぎだよー。あたしはサークルのミーティング帰りだけど、クルミンはどこにも所属してないよね、どうしたの?」

「ああ、図書館にね。借りた本を返しに来た。今はちょっと古文書どころじゃない、かな」

「何かあった?」

隣に座って手を握ってきた友人の顔を見ていると、三廻部の瞳に涙が浮かんできた。

「……実は」


 三廻部は、先日の救出劇から始まる一連の騒動を、ぽつりぽつりと呟くように話した。いつもはからかう口調の大森が、ひたすら黙って聞き役に徹する。


「今日も、お弁当と材料の差し入れに行くんだけど……何だか怖いんだ。あの人の目に光がないの。でも受け答えは前と変わらないの。何かが噛み合ってなくて」


 それを聞くと大森は真顔になってしばらく考え込んだ。そして、今までに聞いたことがない低い声で告げる。

「それは厄介だね。多分、クルミンの言葉は届いてない……外側の鎧が強すぎるんだと思う。追い込まれた状況のわりに、受け答えはスムーズなのって、悩んでいる姿を絶対出さないって決めてるからでしょ。その人、もう他人を信じないことに決めたのかもね」

ここで大森は言葉を止める。そして、相手の目を覗いて真意を確かめるようにしつつ、言葉を重ねていく。

「本気で変えたいなら、行動で安心させないと駄目。あたしの妹にもそういうことがあったから……中学の頃によく家出してさ、話すと素直で聞き分けがいいんだけど、連れ戻されてしばらくしたらまたいなくなる。何度もやってるうちに『ああこれは届いてない』って気づいた」

その先を語るのにためらったのか一旦沈黙しながらも、大森は言葉を連ね続ける。

「……たまたま、家出に付き合ったことがあるんだ。半日一緒にうろうろしてるうちに、妹は少し本音を言ってくるようになった。『こんな家族じゃ友達も呼べない』とか『学校にも居場所がない』とかさ。あたしはそれで、一緒にいる時間をとにかく増やしたんだ。今じゃ仲良し姉妹で、親と絶縁してもそれは変わらないくらい」

希望を見つけたのか、三廻部が目を上げる。その様子をじっと見つめながら、大森は話を締めくくる。

「『一緒にいるよ』ってことは、言葉じゃ納得できないんだと思う。相手の人生に踏み込まないと駄目なんだよ。でも、途中で引き返すと相手にはかえって残酷なことになると思う。だから、ここから先はちゃんと考えたほうがいいよ」

そして大森はここで立ち上がり、三廻部を引っ張り上げて立たせた。

「どっちにしろ、あたしはクルミンを応援する!」

「ありがとう。考えてみるよ」

「うし! じゃあとにかく悩みたまえ!」

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