05 尋出
病室に入ると、いつものように笑顔で祖父は迎えてくれた。しかし、痩せたその首や肩も同時に目に入って、胡桃子は胸がいっぱいになる。それでも、今日あった衝撃の展開を相談せずにはいられなかった。
「それで、何も言い返せなかったんだな。うん、なるほど面白い」
苦しさを隠せない呼吸ながら、好奇心丸出しで祖父が老眼鏡を取り出し、紙束の裏書きを眺めた。
「面白くないよ。何であたし言い返せないんだろう……文恵はともかく、候哉くんなんて、全く知識がないのに」
胡桃子は着替えや備品を片付けながら祖父を睨む。帰宅後すぐやってきたが、面会時間はもう一時間も残されていない。
「おじいちゃん、古文書の師匠としてどう思う? 歴史のこと何にも知らない人に、言いたい放題言われちゃったんだから」
「お前の知識がその程度のものだったってことだ。まあとにかく、お友達の言ってることは鋭い。いわゆる『信長公記』の首巻は、時系列もないから、独特なんだ」
「え、そうなの? 首巻って、桶狭間が載っているとこも?」
「そう。あの前後は、織田信長を裏切って、今川に寝返った山口……えーと、左馬助が殺されたっていう話になってるし、その、山口を殺したから、今川義元は、負けたってことになってる」
「それ、関係ないよね、山口殺しと桶狭間って」
「だからちょっと変だろう。お前が指摘したように、年も間違ってるし。首巻には年が書かれていない記事ばかりなのに、あそこは三回も書いている。その上で『天文廿一年壬子五月十九日』だからな。干支まで一々、入れているのに、何度も間違えるなんてちょっと異様だよ」
老人の言葉に頷きかけて、途中で首を捻る動作に変えた胡桃子は、枕元に座って祖父の顔をじっと見ながら尋ねる。
「でも、どの本を読んでもそういう指摘はないよ。どうして?」
「書いた人間の知識が古いんだろう。新しく出た本を見れば書かれていることだが、実は、この首巻はね、江戸時代に『信長公記』と合流したもので、太田牛一が書いたかどうかは不明なんだ。他の巻と違って、自筆本が見つけられていない。まあそもそも『信長公記』自体、初期とはいえ江戸時代に書かれたもので、太田牛一が書いたにしたって、時代が違っている」
老人は、ゆっくりとだが、語気を保って話し続ける。
「通俗的な歴史の本なんかだと『桶狭間の謎』など、煽っているだろう。謎も何も、作者のいい加減な記述を真に受けたって、答えなんてない。もう一つの『信長公記』を書いた小瀬甫庵は、少数の織田軍を勝たせるために、信長に迂回・奇襲をさせている。じゃないと辻褄が合わないって、もう気がついていたんだ」
祖父は少し疲れたようで発音が途切れがちになってきた。胡桃子は気遣うように病人の肩を撫でて立ち上がった。
「ちゃんと調べてみる。ありがとう、おじいちゃん。また相談に乗ってね」
「お前はもう、ちゃんと文書が読めるはずだし、どこを当たればいいかもすぐに判るだろう。そのお友達と、議論したほうがいい。いいヒントを言っている」
◇
その翌日、軸屋は昼休みにうしろから小突かれた。背中に感じた衝撃と、ぐらりと揺れた視界に驚いていると、彼の前のいる久瀬が、例によって明るく声を掛ける。
「おっと江間さん、コイツが何かした?」
軸屋が振り向くと、江間のしかめっ面があった。
「いやー、いつもながら迫力あるねえ」
という能天気な久瀬を無視して、彼女は軸屋を睨みながら妙に低音で語りかける。
「ミコが変なんだけど、どうすればいい?」
「三廻部さんが? まあ昨日はちょっとショックだったみたいだけど」
「私も一緒になって、あの子の言ってることを変だ変だって言っちゃったじゃない。あのあと謝ったんだけど……ずーっと、心ここにあらずって感じで」
「なになに? 三角関係か?」
久瀬が興味津々でくちばしを入れようとするが、江間がはねつける。
「うるさい。ややこしくなるから黙ってて」
目を見開いて口を閉じた久瀬。一方で軸屋は、本人の問題だから放置するしかないと説明したが、なぜか江間は引き下がらなかった。「どうする?」「どうしようもない」の押し問答を繰り返すうちに、昼休みが終わり、彼女は渋々帰っていった。
その後は江間も三廻部も音信なしだった。妙に気になったらしい久瀬が翌日の昼休みに偵察したところ、分厚い本を熱心に読んでいる三廻部と、それを呆れたように眺めている江間がいたとのことだった。
◇
その週の金曜日。放課後、軸屋がいつものように階段でPCを開いていると、三廻部がやってきた。彼女は顔面蒼白で、髪もうしろに引っ詰めて縛っていた。軸屋が尋ねる。
「大丈夫か? 体調悪そうだけど」
「ちょっとフラフラするけど、睡眠不足なだけ。気分はいいよ」
「とてもそうは見えないが……」
「宿題、どうすればいいか判ったよ」
「宿題?」
「この間、信頼性の高いデータなら見たいって言ってたよね」
「え? ああ、歴史の話か。いやまあ、あれは『あれば』っていう意味で、そんなに深刻なもんじゃない」
「自信満々に薦めちゃったけど、ちゃんと吟味してなかった。『信長公記』が一級史料と言われているのは確かだけど、同時代の史料じゃない。ずっと後の時代になって作られたもので、しかも、桶狭間のところは作者不明だったの」
「ああ、そうなんだ。まあそうだろうな」
迫力に押された軸屋がうしろに引きながら答えるのに対して、三廻部は段上の彼に顔を近づけてニヤリと笑ってみせた。
「ということで、今川義元がどうやって殺されたか、もっと確度の高いデータで調べるよ」
「え、じゃあ今週も図書館に?」
「決まってるでしょ。もう見当はつけたから」
ちょうどこの頃。部室棟の前では、久瀬が呼び止められていた。
「佑佐」
彼が振り向くと、江間が立っていた。
「ちょっと話せる?」
「今からバレー部の助っ人に行くとこで、そんなに時間はないぞ」
「ずっと助っ人ばっかだよね。どこかに正式に入ればよかったのに」
「俺にはこっちが性に合ってるさ。色んな部活を体験できるし」
「ほんと器用貧乏だよね」
「人のこと言えるのか? 江間さんだって、本当は文芸部なのに、小説の材料とかいってうろついてるじゃん。で、何か用だろ。ちょっとなら聞くぞ」
「あの二人、引き離したほうがよくない?」
少しイライラした口調で彼女が尋ねる。
「ん、候哉と三廻部さんか」
「ミコが独りで遠出するのは確かに心配だったんだけど、何だかかえって変な方向にいってない?」
「うーん。どうかな。どっちも変わってるから、意外と合うんじゃないか」
「それでも、高校生が桶狭間に夢中になるのって変だよ。のめり込み具合もちょっと……まあ私も煽っちゃったんだけど、あれは行き過ぎ」
「小学生の自由研究みたいじゃん。俺はいいと思うけどな」
「あの子、放っておくとおじさん化するから心配なの。髪も説得して伸ばさせたのに、今日なんて、寝癖ごまかすためにちょんまげみたいに縛るし」
話しているうちに興奮したようで、江間の声が唐突に甲高くなる。
「ああもう、相手が何であの変人なの!」
「誕生日が早くて、進学しないのって言ったら、あいつしかいないって」
「もっと常識のある人だったらよかったのに」
まくし立てる江間。静かに微笑んで見つめていた久瀬は、肩をすくめて話を締めくくった。
「ま、それもこの夏までだ。秋になったら、余裕があるといったって三廻部さんも受験態勢に入るだろ。卒業したら候哉は就職だからな。もう接点もないさ」