46 妻女
その声は唐突に聞こえてきた。男にしてはやや甲高い特徴的なもので、すぐにその主が判る。
「三廻部さん? 久しぶり!」
八月も半ばの繁華街で、これから大森と夕食にでも行こうかと話していたところだった。振り向くと、懐かしい顔がある。
「びっくりした……ほんと、久しぶりだね」
そこに、久瀬佑佐が満面の笑みで立っていた。高校時代には少々野暮ったかったくせっ毛は短く整えられ、上背も伸びている。一方で、ひょろ長い手足と濃い顔立ちはそのままだった。邪気のない笑顔でにこやかに語りかけてくる。
「また図書館に行ってたの?」
「うん。友達と簿記の勉強やってたんだ」
そう言って三廻部が大森を見やると、久瀬が少し慌てて、
「あ、どうも。割り込んでごめんね」
と謝った。それまで黙っていた大森は、三廻部に耳打ちした。
「これが例の彼氏?」
ぎょっとした三廻部は大きく手を振って否定する。
「ち、違う違う! 久瀬くんは違う!」
「ふーん。想像してた彼氏と何かちょっと違うねー」
一向に話を聞かない大森に、三廻部がさらに反論しようとしたところ、
「『彼氏』? やっと候哉と付き合うことになったか。うんうん」
と久瀬が頷き「じゃ!」と立ち去ろうとする。三廻部は慌ててそれを引き止め、大森ともども近くの喫茶店に押し込んだ。
事情を聞くと、久瀬は呆れたようにぼやく。
「パソコンだけでやり取りって。あいつ……馬鹿か。じゃあ住所も知らないの?」
「うん」
久瀬は口をへの字にしてポケットから手帳を取り出すと、メモ欄にざっと記入して渡してくる。
「候哉の住所と電話番号。俺は一度遊びに行ったから」
「え……でも、本人に言わないと」
「いいよ。俺が押し付けたって言えばいい……というか、むしろ言ってくれ」
改めて紹介された大森は、久瀬が説明する高校時代の軸屋・三廻部の歴史調査を、淡々と聞いていた。興味が薄いのではなく、整合性を考えながら話を追っていることが、時々投げる的確な質問から感じられる。
「というわけで、三廻部嬢と軸屋氏の清すぎる交際が続いているんだな」
久瀬が話を締めくくる。三廻部は焦ったように話を変えようと試みる。
「いやいや、最近は文恵……えっと、彼女も高校時代の友達なんだけと……文恵だって色々調べてるんだよ」
と、江間と一緒に築山殿を調べていることを話した。すると、久瀬が首をかしげる。
「相変わらず濃いなあ。でもさ、最後のほうの築山殿が連座したとかって、本当にそうかな?」
「ん? どういうこと?」
「江戸時代とごっちゃかもだけど、昔の女性って立場が弱かったんでしょ? でも、息子の騒動に巻き込まれるってことは、多少は影響力があったってことじゃない? そんなに活動できたのかな」
大森が感心したように手を叩く。
「クゼユー、鋭い。さすが」
その早速のあだ名呼びに苦笑しながら、三廻部が切り返す。
「それが、記録に残ってないだけで戦国時代だと女性にもあれこれ影響力はあったみたい。今川義元っていう人は、お家騒動で兄を押しのけて当主の座に就いたんだけど、その時に『寿桂』という女性が妨害してるの。今川家の相続書類を、相続争いをしていた兄のほうに渡しちゃう。最終的には義元が勝つんだけど、これには困ったらしいよ」
「おお、積極的だねー!」
身を乗り出して、大森が喜んだ。三廻部は調子に乗って語り続ける。
「このほかにも結構あるよ。甲斐の中津森御大方と呼ばれた女性は、物資が来なくて困った時に、他国の姉のところに交渉に行って解決してる。松平家の『しんさう』は、書状の盗難事件の時に活躍してる。大体は男性が行き詰まった時に現れてる感じ」
「かっこいい! 『男じゃ駄目か、しょーがねーなー』って登場するんだー。いいじゃん!」
「当時の女性は財産の相続も可能だったし、家の代表にもなれてる。ただ、できないことが二つあって、それで表向きの記録に出てこないんだよ」
三廻部は、話す速度を調整しながらさらに続ける。
「一つ目は『花押』、今でいうサインだけど、これが書けなかった。代わりに印判、今でいう判子を押したりはしてるけど、花押のほうが重みがあったから、男性に発行してもらったほうが効力が期待できた」
「何それー、不公平じゃん。ひどい」
口をとがらす大森に、三廻部はなだめるような視線を送りながらさらに続ける。
「というのは、もう一つのできなかったことが絡んでくるんだけど、それが『合戦に参加できなかった』こと。武士は基本的に軍人だから、戦争に参加できないと立場がとても弱くなるの」
久瀬がここでようやく口を挟む。
「でも、代役とか頼めばいいだろ?」
「うん。代役は可能だったみたい。男性でも子供は戦えなかったしね。でも、どうしても戦闘での活躍評価が高くなっちゃうから、あまり一般的じゃなかったみたい」
「というのは?」
「代役の覚えがめでたくなると、いつの間にかその家を乗っ取っちゃうんだよ。だったら、男の子だったら成人を待ったほうがいいし、女の子だったらお婿さんをもらうまで待ちたいでしょ。だから、代役を立てるにしてもあんまり活躍させてないっぽい」
静かに話を聞いていた大森がのけぞる。
「ぐはー、世知辛い。昔も大変だったんだねー」
「そうだね、ほんと。ただ、そうはいっても女性の影響力が全くなかったわけじゃないよ。たとえば、今川家は滅亡しちゃうけど、さっき言った寿桂が亡くなるま敵は手を出せなかった。それと、北条氏政という人は、母親の病気が重いからといって遠征を見合わせたりもしてる。こういう例を見ると、城を守る時に女性が活躍してたんだろうなって思えるんだよ」
「クルミンすごい! 面白いねー。日本史の授業がこんなだったら、得意科目になったのに」
それを聞いた三廻部は、もう止まらなくなって、いそいそとノートPCを取り出して画面を見せる。
「これ見て。誰のものかは判らないんだけど、金町の百姓達に対して女性がお触れを出したものがあるんだ」
「『金町』って、東京の?」
と久瀬が驚く。三廻部は得意そうに頷いた。
「うん。身近な地名が意外とよく出てくるんだよね」
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古文書三十九
○原文
かなまちのこうおくかた御なかいりやうになり候間、これよりのちハ、こなたへねんくおさめ候へく候よし、おほせられ事候、なおきむら・いなかきさくはいいたすへく候もの也、以上、
きのへさる
十一月廿九日/(黒印「重宝ヵ」) つほね
かなまち
なぬしすゝき
百姓中
戦国遺文後北条氏編二七四三「某黒印状」(鈴木肇氏所蔵文書)
●解釈
金町の郷は、奥方の中入り領になりましたので、これからあとはこちらへ年貢を納めるようにと仰せられました。さらに木村・稲垣が差配するでしょう。
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古文書四十
○原文
かへすゝゝよこうのものをもひきうつし、ふさくをもひらかせへく候、以上、
とのよりかなまちのこうふにうにたまハり候間、せんゝゝのことく、なに事もよこあひあるましく候、もし、とのよりいかやうの事おほせつけられ候とも、わか身かたより申つけす候ハゝ、いたすましく候、そのうへ、おたハらすちへよふのおりふし、おしたてむまいけうめしつかふへく候、なお■■■■さつをハ御かひちんのうへとりいたすへく候もの也、以上、
きのへさる
十二月廿■■■/(朱印「重宝ヵ」) ■■ね
かなまち
すゝきむまのすけ
たかたに次郎さへもん
同百やうしゆ
戦国遺文後北条氏編二七六〇「某黒印状」(鈴木肇氏所蔵文書)
●解釈
殿より、金町の郷を不入として賜りましたので、既に決めた通りに何事も横槍があってはなりません。もし殿から何をご指示されたとしても、私のほうから指示がなければ従わないで下さい。その上で小田原筋へ用の折は、徴発した馬を以降使用するように。なおこの書面は御開陣の上で取り出して下さい。
追伸:他郷の者でも招致して休耕地も開かせるように。
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画面を凝視していた久瀬が、ちょっと引き気味になる。
「何かこれ、ひらがなばっかりで怖いな。ホラーの呪文みたい」
「女性が書くものと、女性宛てのものはひらがななんだよね。黒印を使ったってことは、それなりに身分が高かったと思うんだけど、『殿から何を指示されたとしても、私のほうから指示がなければ従わないで下さい』って明言してるのは迫力があるよ」
三廻部の説明に、大森が大きく頷く。
「そーだよねー。その前に、金町の権利を奥方がゲットって宣言してるし。それでも亭主が割り込んだから、追加で『あいつの言うことは聞くな』って出したのかー。よっぽど甲斐性なしだったんだ」
久瀬が感心する。
「そんなことがあるんだな。確かに何か、すごい怒ってるのが伝わってくる……」
「クゼユーは認識しておいたほうがいいよー。女の覚悟はレベルが違うからね」
◇
*:久瀬と会った? 元気だったか?
@:うん。何かおしゃれになってたよ。今度押しかけるからなって言ってた。
*:あいつ、前に来た時連泊しやがったからなあ。気をつけよう。
@:あたしも一緒に遊びにいこうかな。
@:あれ?
@:候哉くん?
@:黙っちゃったけど、怒った?
*:怒ってない。じゃあ、いずれ時間ができたらな。
@:え、いいの?
*:今は、ちょっと手が離せないんだよ。
@:うん。お仕事大変だもんね。




