44 堺目
@:候哉くん、ちょっとドキドキしてきたよ。
*:具合が悪いのか?
@:違う違う。来週、出版社に行くんだよ。
*:ああ、前に言ってたっけ。原稿を読んでくれたところか。
@:今から緊張してきた。
*:時間が空いてたら江間さんに一緒に行ってもらえば?
@:文恵に? 何で?
*:江間さんは人あしらいがうまいし、意見をはっきり言うだろ。
@:確かに、あたし一人だと処理しきれないかも。
@:そうだね。ありがとう。
◇
五月の連休を控えたある日のこと。よそ行きの服装に身を固めた二人の若い女が、都心の路地裏にある古びた雑居ビルの前で立ちすくんでいた。
「本当にここ?」
「うん。住所は合ってる。ここの五階」
二人は覚悟を決めたように頷き合うと、重いガラス戸を押し、ガタついた鉄製のエレベータに乗り込む。
武並と名乗った編集者は、べっ甲ぶちの眼鏡と四角い顎、うっすら生やした髭が特徴的だった。
「初めまして。三廻部さんはどちら?」
彼の向かいに座っていた女性のうち、肩先まで髪を伸ばした幼い顔のほうが手を挙げる。
「あたしです。宜しくお願いします」
武並は頷き視線を横に向ける。三廻部の隣にいるのは涼し気な目元が印象的な女性で、短く切り揃えた髪と整った輪郭もまた目を引いた。三廻部が慌てて紹介する。
「えーと、友人の江間さんです。うまく説明できるか自信がなかったので一緒に来てもらいました」
「江間文恵です。宜しくお願いします」
それに応えて武並が名刺を差し出す。
「超史パブリッシングで編集をやっております武並旬です。さて、早速ですが例の原稿の話にかかりましょうか」
彼は鞄から紙束を取り出し、言葉を続ける。
「公募には惜しくも落選となりましたが、着想がとても面白かったので声をかけさせていただきました。有名な桶狭間の合戦を、こういう切り口で推理しているのは初めて見ました。素晴らしいと思います」
その言葉に、三廻部は笑顔になってペコリとお辞儀をする。
「ありがとうございます! 嬉しいです」
しかしそれに続く武並の口調はシビアなものだった。
「ただ、このままだと内容が難しすぎますね」
一瞬目を丸くした三廻部だったが、すぐに気持ちを切り替えて反省の弁を述べる。
「はい、そうかなとは思っていました。もっと言葉の注釈や説明を足そうかと思います」
「いやいや、そうじゃなくて」
武並の声が少し低くなり、口調がくだけた感じに変わる。
「漢字を減らそうね。とにかく、この『史料』とかいう部分は全然要らないから」
「え……でも、その解釈がポイントなんですよ」
「読まれなきゃ、ポイントも何もないでしょう」
「きちんと判りやすく説明を入れれば……」
「そうしたらまた文章が長くなるだけだよ。あと、一番最後におまけみたいに書かれてる徳川家康真犯人のところ、ここを一番派手にいきましょう」
「ええと、そこは証拠がないのであくまで参考部分なんです」
「いやいやいや、ここが一番の肝だよ。学者連中や世間をあっと言わせるのはこれだよ」
「でも……」
「いいからいいから。あと、江間さんにもちょっと書いてもらうのはどうかな。美人女子大生コンビが、専門家を打ちのめす!」
ぐいと拳を握る武並は、自らの着想に興が乗ってきたようで言葉を溢れさせる。
「これは行けるなあ。いいぞ。いい感じになってきたぞ。帯には『真相をついに解明!』とかね。来週の企画会議にかけてみるか」
「あの……江間さんに迷惑をかけるのは駄目だと思います」
ようやく三廻部が声を挟むと、武並は驚いたように口を開けたあとで説得に移る。
「いやいや、迷惑なんかじゃないでしょ。サイン会やったり、テレビの日本史特番とかに出たりできるかもよ。『作家先生』だよ。ほら、江間さんも興味ありそう」
期待のこもった目で見られた江間は、澄ました顔で三廻部を見る。
「どうする? その路線で行くの?」
それに対して三廻部は悲しげに目を伏せて頭を振った。江間はそれを見届けると微笑んで武並を見て、
「では、残念ですがお断りします。また機会があったら宜しくお願いします」
と言い放つ。
絶句した武並を残して、挨拶もそこそこに二人は古いビルをあとにした。
◇
前期試験明けを待って開催されたクラスコンパは大いに盛り上がり、そのまま二次会になだれ込んでいく。盛り上がる流れについていけない三廻部は、独り帰路につこうとしていた。
「疲れたなあ」
そう呟いてしまった時、不意に肩を指で突かれる。振り向くと、明るい色のくせっ毛をポニーテールにした大森がいた。派手めの口紅を施した口角を上げ、
「クルミンも抜けたんだ! 奇遇だね」
と、じゃれつくように三廻部の腕を掴んでくる。大森のほうが背が高いので若干威圧感がある。
「ミサは盛り上げ役だったじゃない。どうしたの?」
「あたしなんざ、所詮はピエロですよ。野郎連中、小山さん達が目当てだし」
「ああ。ちょっと、変な雰囲気だったよね」
「ねー。小山さん、クイーンだよ。下僕に競い合わせてご機嫌とらせる能力はすげーなーって思うけど、あれは方向性が違うかなー」
二人は途中まで同じ電車だと判り、一緒に帰ることとなった。大森は先に乗り込むと、小柄な三廻部のため柱を掴める位置をキープしてくれる。
「クルミンちのほうが遠いんだね。あたしは無理言って一人暮らしにしてもらったから、ちょっと遠いなーって思ってたけど、贅沢だったわ」
「一人で頑張ってるほうがえらいと思うよ。友達で、高校出てすぐに家を出て働いてる人がいるけど、すごいって思うもん」
「おっとー、この間の彼氏かなー?」
「そういうんじゃない……」
「ふーん。ま、いっか。一人で頑張るとか言ってもさ、あたしの場合、親が嫌いでね。それで出ちゃっただけだよ」
「え、ミサも?」
「あらら、彼氏もそうなの?」
間髪入れずに突っ込まれた三廻部は硬直する。
「え……」
「だって、クルミンは一人暮らしじゃないでしょ」
さらりと急所を指摘され目が泳ぐ三廻部を横目に、大森はニヤニヤ笑いながら言葉を続ける。
「ほほう。しかも高卒で就職なんて、ガッツあるねー、完全に親と縁を切る気満々じゃない」
「あー、彼氏じゃないけど。その人自身は何も言わなくて、その友達から聞いたんだ」
「ふーん。まあ考え方の違いだろうけどさー、あたしはスネをかじるだけかじってからでいいかなって。大学出てれば就職もいいだろうしさ。少しぐらいはリターンがほしいじゃん」
明るく言い切る大森を見ながら、三廻部は困ったような表情を浮かべていた。そんな様子をちらりと見てから、大森は車窓を眺める。
「うちの家族事情も結構複雑だけど、彼氏のほうも大変そうだねー。忙しいの?」
「うん。ほとんどの時間仕事をしてるみたい。彼氏じゃないけど」
「ええー、じゃ会ってないの?」
「高校卒業してから一回も」
「はあ? それ、ほかに女がいるんじゃないのー?」
「彼氏じゃないから!」
と、大きめの声で言ってから慌てて三廻部は顔を伏せる。それなりに混んでいる車内では、ちらちらとこちらを見ている人がいた。大森は一切気にせず話を続ける。
「いやまあそれはいいんだけど。今度強引にでも会っといたほうがいいよー。ちゃんと生活してないこともあるしさ。サークルの先輩で、あまりにも不摂生で倒れた人がいたよ」
◇
@:候哉くん、ちゃんと生活できてる?
*:何だいきなり。給料は毎月出てるよ。
@:そっちじゃなくて。食事とか睡眠とか。
*:おいおい、子供扱いか?
@:そうじゃないけど……おばあちゃんが亡くなったあと、うちはひどい状態だったの。文恵が見かねてちゃんとしてくれたけど。
*:鬼軍曹っぽいな。
@:その時に思ったんだけど、崩れた生活してても本人はあまり気づかないんだよ。
*:仕事に穴は開けられないから、気をつけてるよ。心配無用。
@:気をつけてね。
@:くれぐれも!
*:そっちこそ、調べすぎて体調崩すなよ。




