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43 幸便

 日曜午後十時の少し前になると、彼女は自室の小さな座卓にノートPCを広げる。寝間着姿で、座椅子代わりの巨大なクッションにもたれかかりつつ、軽快な指さばきでキーを叩いた。


@:候哉くん、いる?


 ウィンドウの中に文字を打ち込んだが、反応はない。


@:待機中……。


こうしたことには慣れているらしく、落ち着いた様子で彼女は大きな黒縁の眼鏡をかけ、傍らに積んでいる大判の本から何冊かを選び出す。そして、楽しげに微笑みながらページを手繰り始めた。たっぷり十分以上経過して、ウィンドウ内に文字列が表示され小さな電子音が鳴る。


*:待たせた。遅れてすまん。

@:来た! いつもありがとうね!

*:毎週時間を決めてるのに、なかなか守れなくて申し訳ない。

@:こっちこそ、忙しいのにごめん……。

@:お仕事はどう?

*:常駐先の会議が多すぎて、うんざりしてる。

@:プログラムを書くだけじゃないんだね。

*:システムって、思ったより政治色が強い。派閥とかさ。

@:おおお! 派閥!

@:戦国っぽい!

*:しかも複雑なんだよな。きっちり派閥が分けられてるんじゃなくて、グラデーションみたいな感じ。

@:ファジーだね。すごい、ますますそれっぽい!

*:意外とあるのが、人事上の組織と実際の組織が合ってないやつ。だから見た目と違う。

@:そうなの? 確かにややこしいね。

*:会議のメンバー構成とか出欠を見てると、実態が判るな。あと、何であの人達が派閥組んでるんだろって思ってたら、意外と「若い頃に一緒のチームだった」ってのが多い。

@:あー、人間関係ってそこで決まっちゃうのかもね。面白い。

*:面白くないよ。こっちからしたら人事上の立場で動いてくれないと、訳が判らん。

@:こういう文書があって……。


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古文書三十四


○原文


今度右馬允殿就死去、跡職異儀有茂間敷之一札、家康被出候、任其判形、拙夫達而承候間如此候、若此上世上被申懸様共、岡崎任一札其旨可申候、此等之趣各江茂可被仰候、同右馬允殿御息涯分御上候様馳走可申候、一両年駿州ニ雖被留置候、跡等之事、異儀有間敷候、縦岡崎兎角之儀若被申候共、一札之上者、懸身上可申候間、不可有疎略候、家康へ達而可被申候、是又可被任置候、為其如件、

             水野下野守

 永禄九丙寅十一月日     信元(花押)

  牧野山城守殿

  能勢丹波守殿

  嘉竹斎

  真木越中守殿

  稲垣平右衛門尉殿

  山本帯刀左衛門尉殿

  同美濃守殿

       参

戦国遺文今川氏編二一一五「水野信元判物」(牧野文書)


○解釈


この度右馬允殿が死去したことについて、跡目として異議があってはならないとの一筆を家康がお出しになりました。その証文の通りにせよと、私がきつく指示されたので、このようにします。この上で皆の意見として表明しても、岡崎は一筆の内容に合わせるべきでしょう。これらの趣旨を各自へも通達しておいて下さい。同じく、右馬允殿が三河にやってくるように、奔走して下さい。一両年は駿河国に滞在したからといって、跡目相続に異議を唱えてはなりません。たとえ岡崎がとやかく言ってきたとしても、一筆がある上は、命をかけて連れてくるべきなので、粗末な扱いをしてはなりません。家康へ必ず申しましょう。これもまた、お任せ下さい。

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*:久しぶりに見ると漢字の羅列がすごいな……。

@:牧野右馬允(うめのじょう)という人が亡くなって、その跡継ぎとして息子が徳川家康から指名されるのね。でもその息子が駿府の今川氏真のところにいるってことで、部下達に反対されたみたいなの。

*:家康と氏真が戦争中の時の話?

@:うん。右馬允は最初氏真のほうについてたのね。その頃に息子が駿府に行った。で、そのあとで家康についたけど放置したままで、亡くなってから引き取ろうとしたらしい。だけど、岡崎にいた家康の部下達は「駿府に滞在してるやつを跡取りにしていいのか」って問題にしてたみたい。

*:あ、そういうことか。氏真と親しくしてただろうから、信用ならんってことだな。

@:そう。だから「人質を取り返そう」というよりは「敵方に染まったやつは要らない」って考え方だね。

@:それで、家康の伯父さんで後見人みたいな立場の水野信元(のぶもと)が仲裁してるの。

*:子供の頃にあれこれ教えられたら、染まるよなあ。

@:そういう理由で、相手の実の息子を人質にしたがるんだよね。それに、待遇もそんなに悪くないんだよ。ほら。ここは解釈だけにしておくね。


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古文書三十五


●解釈


長尾鳥坊丸の母親が病気なので、鳥坊丸と矢野の人質を入れ替える。相違がないように。

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古文書三十六


●解釈


人質を申し付けたところ、五歳になる息子と父の入道を交互に差し出すとのこと。もっともで大切なことだ。最初に五歳になる実子を、明後日の十二日に出されるように決定した。幼少であるから、坂下の御大方へ預け置くこととする。安心して差し出すように。よってこれ以降は、佐野昌綱・宗綱の時代と変わらず、忠信に抜きん出て活躍するのが、肝要である。

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@:長尾鳥坊丸って子は、母親が病気だからって帰されてる。次の文書で人質にされている子の場合、五歳で幼かったからって、坂下の御大方っていう年配の女性のところに預けられてるんだよ。

*:なるほど。こうやって大事に育てておけば、父親が地元で反乱しても息子は追随しないだろうな。よく考えられてる。

@:ね、若い頃の体験共有が派閥を生むってのを、この時代の人も判っていてあれこれ立ち回ってるんだよ。

*:そうか。俺は人付き合いが苦手だから判らなかったけど、参考になるよ。

@:そういえば、鳴海原の現場検証に行ったのって去年の今ぐらいだったよね。

*:あ、そうか。早いな。あっという間だ。

@:あたしはそんなに早いって思わないかな。お仕事してると違うのかな。

*:じゃあ俺のほうが老けるの早そうだな。


 ◇


 十月に入って学内のイチョウが色づくのに合わせるかのように、準備期間から盛り上がりを見せる学園祭。


 喧騒に包まれる雰囲気も気にせず、三廻部は大学の図書館に籠もっていた。今日もまた閉館時刻ぎりぎりで外に出ると、秋の夕暮れがほんのりと漂っている。おなじみの赤い鞄を担ぎ直して首をぐりぐり回していると、うしろから不意に声をかけられた。聞き覚えのない声色に首をかしげながら振り向けば、大きなショルダーバッグを肩からさげている男子学生がいた。

「いきなりですみません。さっき、史料集をたくさん読んでいたみたいですが……レポートですか?」

頭をかきながら尋ねてくるその彼は、少し長めの髪と小ぎれいな面立ちで、かなりの長身だった。照れているのか、その視線は小柄な彼女のかなりうしろに向けられている。三廻部は面食らったように切り返す。

「あー、ええと、単なる趣味ですよ」

「そうなんだ。ふーん。ぼくも日本史は好きでさ、話が合うかなあって思って」

「え、史料を読むんですか? どの時代ですか?」

「戦国時代、かな。幕末とかも好きだけどね」

「あたしは戦国時代を調べてるんです。後北条と今川が中心なんですよ」

「ゴホージョー? 北条早雲?」

「あー、うん。正しくは『伊勢宗瑞(いせそうずい)』ですね。息子の氏綱になってから『北条』に名字を変えてるから」

「……へえ、そうなんだ」

「もうちょっと突っ込むと、伊勢宗瑞は、伊勢盛時(もりとき)でほぼ完全に比定されてます。幕府のエリートだった盛時が、出家して宗瑞になったってことです」

「……ねえ、それって……」

「あ、ごめんなさい。『比定根拠は?』ですよね。それがほぼ確実なのは、宗瑞の部下に『松田盛秀(まつだもりひで)』とか『大道寺盛昌(だいどうじもりまさ)』とか『桑原盛正(くわはらもりまさ)』っていう『盛』を使った人がいるからですね。偏諱(へんき)っていう仕組みで、上司が部下に自分の名前の一部を上げたりするやつで……ちょっと待って、他に『盛』がついた人もいたと思うんですけど」

そう言いながら彼女が鞄を探り、家臣団辞典を取り出す。しかし目を上げると、声をかけてきた男はいなくなっていた。

「……伊奈盛泰(いなもりやす)がいたのに……」


 その時、ぽんと肩を叩かれた。

「クルミン、あんなんじゃ駄目だよ。そりゃ逃げるよー」

振り向くと、肩先までの髪を明るい色に染めた女が呆れている。失敗したのか意図的なのか判らない濃い化粧を施した顔を、大仰にしかめつつ笑いかけていた。

「あ、大森さん」

「もー、名字はやめてよ。ミサって呼んで」

「ごめん。名字が素敵だからつい」

「素敵? どこが? ご飯の大盛りと引っ掛けて、いつもからかわれてたんだから」

「そうなんだ。じゃあちゃんとミサって呼ぶね」

「どうせあれでしょ、歴史上の誰かと同じ名前とかでしょ?」

「大森信濃守っていう人がいてね、関東公方の足利持氏がピンチの時に……」

「あーちょっと待って待って。そういうところが駄目だぞ。さっきだって、男が歴史の話をダラダラしてきたら、調子を合わせて『そーなのーすごーい』ってヨイショしとかないと」

「情報が合ってれば、あたしだってそう言うけど……」

「うん、クルミンの言いたいことも判るよ。興味があって話しかけてきたくせに、自分のほうが知識が上じゃないと我慢できないお子ちゃまが多すぎるわ。とはいえ、クルミンに合わせられる奴なんていないでしょ?」

「……そんなこと、ないよ」

「む? 今ちょっと思い出し笑いしたな! そんな男いるの? ちょっと聞かせて」

ぐいと腕を掴まれた三廻部は、急に気恥ずかしくなったように俯きながら、それを振りほどいて全力で逃げた。


 ◇


@:ねえ、偏諱って覚えてる?

*:何だそれ、画数多いな。

@:部下とかに、自分の名前の一部を授けるやつ。今川義元だったら「元」の字を授けてて、元信・元康・元時・元政とかがいるんだ。

*:そんなようなことを話してたような気がしなくもない……。

@:覚えてないでしょ!

*:一々説明させて申し訳ない。

@:いいの、話を聞いてくれるだけでありがたいから。

*:まあこっちもありがたいよ。この間の人質の話、参考にしたら常駐先の相関図が何となく把握できた。

@:そうなの? よかった!

*:特にあれだ、修羅場を一緒に過ごした時間が長いと、仲が悪いにしても変な連帯感があるみたい。

*:「あのデスマーチに比べれば大したことない」みたいなのを話す時は、割と仲間意識が強いよ。

@:今メモってる。参考になる。

*:こんなんで?

@:うん。武功覚書(ぶこうおぼえがき)っていうものがあってね、「この合戦で私はこういう手柄を挙げました」って並べたものなんだけど、そこに必ず「証人は誰々です」って書くんだよ。

*:じゃないと嘘を書くやつがいるからか。

@:多分。でもその証人として、戦っていた敵方の人を書いたりもしてるんだよ。一緒に戦った仲間意識があるみたい。

*:ああ、こっちもそういう感じだった。プロジェクトで大喧嘩して掴み合いしたって、本人達は笑顔で言うんだ。普段はギスギスした雰囲気なんだけど、そういう時は独特な一体感があってさ。

@:へえ。その雰囲気を肌で感じられるのって羨ましいなあ。

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