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第五章 参考文献・引用史料

この章以降での引用文書を掲示します。本文での原文表記は少なくして、読みやすさを向上させる意図です。原文や全体の文章が気になる場合はここを閲覧して、推理の材料にしていただければと思います。

□参考文献


「戦国人名辞典」戦国人名辞典編集委員会(吉川弘文館・2005年)

「後北条氏家臣団人名辞典 」下山治久(東京堂出版・2006年)

「新編武蔵風土記稿」編集/補訂:蘆田伊人 ・根本誠二 (雄山閣出版 ・1996年)

「新編武蔵風土記稿索引 : 多摩の部」三多摩郷土資料研究会編(多摩歴史叢書・1997年)

「檜原村史」桧原村史編さん委員会(檜原村・1981年)

「郷土史檜原村」檜原村文化財専門委員会(檜原村教育委員会・1996年)

「檜原・ふるさとの覚書」小泉輝三朗(武蔵野郷土史刊行会・1980年)

「武田史料集」校注:清水茂夫・服部治則(新人物往来社・1967年)


「北条氏政正室黄梅院殿と北条氏直」朝倉直美(武田氏研究第59号(2019年)


□引用文書


古文書三十四-------------------------------------------------


●1566(永禄9)年11月日


今度右馬允殿就死去、跡職異儀有茂間敷之一札、家康被出候、任其判形、拙夫達而承候間如此候、若此上世上被申懸様共、岡崎任一札其旨可申候、此等之趣各江茂可被仰候、同右馬允殿御息涯分御上候様馳走可申候、一両年駿州ニ雖被留置候、跡等之事、異儀有間敷候、縦岡崎兎角之儀若被申候共、一札之上者、懸身上可申候間、不可有疎略候、家康へ達而可被申候、是又可被任置候、為其如件、

             水野下野守

 永禄九丙寅十一月日     信元(花押)

  牧野山城守殿

  能勢丹波守殿

  嘉竹斎

  真木越中守殿

  稲垣平右衛門尉殿

  山本帯刀左衛門尉殿

  同美濃守殿

       参

戦国遺文今川氏編二一一五「水野信元判物」(牧野文書)


この度右馬允殿が死去したことについて、跡目として異議があってはならないとの一筆を家康がお出しになりました。その証文の通りにせよと、私がきつく指示されたので、このようにします。この上で皆の意見として表明しても、岡崎は一筆の内容に合わせるべきでしょう。これらの趣旨を各自へも通達しておいて下さい。同じく、右馬允殿が三河にやってくるように、奔走して下さい。一両年は駿河国に滞在したからといって、跡目相続に異議を唱えてはなりません。たとえ岡崎がとやかく言ってきたとしても、一筆がある上は、命をかけて連れてくるべきなので、粗末な扱いをしてはなりません。家康へ必ず申しましょう。これもまた、お任せ下さい。


※この書状で「岡崎」とあるのは、徳川家康の被官(部下)達を指す。跡取りを駿府に預けたままだった牧野家が、当主死去に伴って息子を引き取ろうとしたところ、家康の被官達が反対した経緯があったものと思われる。家康は水野信元に依頼してその相続がうまくいくよう通達している。


古文書三十五-------------------------------------------------


○1583(天正11)年10月9日 比定


長尾鳥坊老母煩ニ付、鳥坊丸ニ矢野証人替相達有間敷者也、仍如件、

   未

    十月九日(虎朱印)     垪和伯耆守奉之

     安房守殿

戦国遺文後北条氏編二五八〇「北条家朱印状写」(上杉文書十一)


長尾鳥坊丸の母親が病気なので、鳥坊丸と矢野の人質を入れ替える。相違がないように。


※上野国の白井長尾氏は、後北条氏に帰属する際に鳥坊丸を証人(人質)として小田原に送った。その後、母の病気を受けて鳥坊丸は一旦帰郷し、代わりに被官の矢野某が証人になった。


古文書三十六-------------------------------------------------


●1586(天正14)年11月10日


証人之儀申懸処、五才ニ成候息并父之入道與替ゝニ進上可申由、尤肝要候、先五ニ成候実子、明後十二日可被出ニ落着候、幼少之儀候間、坂下之御大方へ預ケ置可申、心安存可被出、仍自今以後之儀者、昌綱・宗綱御代ニ不相替、抽忠信可被走廻処、可為肝要者也、仍如件、

  天正十四年丙戌

    十一月十日          氏忠(花押)

     大蘆雅楽助殿

戦国遺文後北条氏編三〇二三「北条氏忠判物」(小曽戸文書)


人質を申し付けたところ、五歳になる息子、並びに父の入道を交互に差し出すとのこと。もっともで大切なことだ。最初に五歳になる実子を、明後日の十二日に出されるように決定した。幼少であるから、坂下の御大方へ預け置くこととする。安心して差し出すように。よってこれ以降は、佐野昌綱・宗綱の時代と変わらず、忠信に抜きん出て活躍するのが、肝要である。


※羽柴秀吉との決戦体制に入った後北条氏は一律で証人(人質)を集める。その際に五歳児の証人は「坂下御大方」に預けた。「御大方」は当主の母を指し、家中女性のトップを意味する。幼児の場合、女性が面倒を見たことになる。


古文書三十七-------------------------------------------------


○1575(天正3)年6月20日 比定


廿五日折紙今日廿八到来披見候、仍武節落居候段、誠以早速入手候事、感悦無極候、併無由断情を入如此候条珍重候、殊即至岩村出陣事、尤以可然候、旁祝着不斜候、度々如申菅九郎若年之間、万々肝煎専一候、就其松平三郎出張事、於此上者不入事候、被相留候由近比可然候、我々昨日廿七京着候、岩村表事節々注進簡要候、恐々謹言、

 猶々炎天之時分、方々辛労ニ候、

   六月廿八日       信長(黒印)

     佐久間右衛門殿

愛知県史資料編11 一一一四「織田信長黒印状」(野崎達三氏所蔵文書)


二十五日の手紙が今日二十八日に到着し、拝見した。武節が落居し、本当に早く入手したことは感悦極まりない。それは油断なく注意したからだろうと思う。珍しいことだし重要なことだ。そして岩村にすぐ出陣することは、もっともで然るべきことだ。とても嬉しく思う。度々送っているように勘九郎は若いから、万事支援することに専念してほしい。それについて、松平三郎が出張することは、こうなった上では不要だ。ご遠慮申し上げるというのが現状では然るべきだろう。我々は昨日二十七日に京都へ着いた。岩村方面は折々に報告するのが大切だ。追伸:暑い時期で、皆には苦労をかける。


※織田信長が若年の長男を心配するのは七年後の天正十年でも変わっておらず、この場合も戦況が心配というより親馬鹿であれこれ気にかけているのだろう。また、婿の松平三郎(信康)にも気配りしており、三郎の介入をやめさせるように告げる際も「被相留候由近比可然候=お留めなさるのが、近頃では然るべきだろう」という婉曲な表現になっている。


古文書三十八-------------------------------------------------


○1579(天正7)年8月8日 比定


今度、左衛門尉を以申上候処、種々御懇之儀、其段御取成故候、忝意存候、仍三郎不覚悟付而、去四日岡崎を追出申候、猶其趣小栗大六・成瀬藤八可申入候、恐々謹言、

   八月八日      家康公御判

    堀久太郎殿

愛知県史資料編11 一三三六「徳川家康書状写」(信光明寺文書)


この度左衛門尉によって申し上げたところ、色々と親切にしていただいたこと。その段取りをご調整いただいたからでしょう。本当にありがたく思います。三郎は覚悟がなかったので、去る四日に岡崎を追い出しました。さらにその内容は小栗大六・成瀬藤八が申し上げるでしょう。


※「左衛門尉」は酒井忠次。水野信元と並んで徳川家康最初期から活躍した被官。「堀久太郎」は堀秀政で、織田信長の被官。三郎(信康)追放理由に「不覚悟=覚悟がない」とあるのはこの時代の慣用句に近く、当主として取り立てられる心構えができていないと「覚悟がない」と表現された。


古文書三十九-------------------------------------------------


○年月日未詳


かなまちのこうおくかた御なかいりやうになり候間、これよりのちハ、こなたへねんくおさめ候へく候よし、おほせられ事候、なおきむら・いなかきさくはいいたすへく候もの也、以上、

  きのへさる

   十一月廿九日/(黒印「重宝ヵ」)   つほね

     かなまち

      なぬしすゝき

      百姓中

戦国遺文後北条氏編二七四三「某黒印状」(鈴木肇氏所蔵文書)


金町の郷は、奥方の中入り領になりましたので、これからあとはこちらへ年貢を納めるようにと仰せられました。さらに木村・稲垣が差配するでしょう。


古文書四十-------------------------------------------------


○年月日未詳


  かへすゝゝよこうのものをもひきうつし、ふさくをもひらかせへく候、以上、

とのよりかなまちのこうふにうにたまハり候間、せんゝゝのことく、なに事もよこあひあるましく候、もし、とのよりいかやうの事おほせつけられ候とも、わか身かたより申つけす候ハゝ、いたすましく候、そのうへ、おたハらすちへよふのおりふし、おしたてむまいけうめしつかふへく候、なお■■■■さつをハ御かひちんのうへとりいたすへく候もの也、以上、

 きのへさる

   十二月廿■■■/(朱印「重宝ヵ」)   ■■ね

   かなまち

      すゝきむまのすけ

      たかたに次郎さへもん

      同百やうしゆ

戦国遺文後北条氏編二七六〇「某黒印状」(鈴木肇氏所蔵文書)


殿より、金町の郷を不入として賜りましたので、既に決めた通りに何事も横槍があってはなりません。もし殿から何をご指示されたとしても、私のほうから指示がなければ従わないで下さい。その上で小田原筋へ用の折は、徴発した馬を以降使用するように。なおこの書面は御開陣の上で取り出して下さい。

追伸:他郷の者でも招致して休耕地も開かせるように。


古文書四十一-------------------------------------------------


○1569(永禄12)年6月9日 比定


為御養子、氏政次男国増丸可被定由候、雖斟酌候、任先約之旨、落着申候、越相御甚深歓喜満足候、猶御両使へ申候、恐ゝ謹言、

    六月九日      氏政(花押)

              氏康(花押)

   山内殿

戦国遺文後北条氏編一二五三「北条氏康・同氏政連署書状」(上杉文書)


ご養子として、氏政の次男である国増丸をお定めいただこうということ。熟考しておりましたが、先の約束の通りに落着しました。越後・相模の縁が深まることに歓喜し満足しています。さらに二人の使者へ申しました。


※上杉輝虎とどうしても同盟を結びたい北条氏康・氏政が、次男国増丸を養子に出すことを決断した書状。「斟酌」はあまり使われない言葉で、決定に至るまで調整が難航したことを暗示する。


古文書四十二-------------------------------------------------


○1580(天正8)年12月28日


五貫文 御屋形様より被遣

一貫文 源五郎殿より被遣

一貫文 菊王殿より被遣

一貫文 御陰居様より被遣

  以上

右、大井之宮、御鷹野之御休息所ニ候間、被遣、此外伊勢殿・小笠原殿を始申、於大井宮御壱食ほとの者之前より、早ゝ今年内ニ致勧進、請取、正月之御鷹野ニ者、わら筵にても、きれいニ可敷候、猶大井之宮にて、御相伴衆ニ無之者之前より取事ハ無用ニ候、

  以上

   十二月廿八日      遠山修理(花押)

    大井宮

     別当坊主

戦国遺文後北条氏編二二一四「遠山修理書状」(三島神社文書)


五貫文、お屋形様より遣わされた。

一貫文、源五郎殿より遣わされた。

一貫文、菊王殿より遣わされた。

一貫文、ご隠居様より遣わされた。

以上。右は、大井宮がお鷹狩のご休憩所になったので、遣わされた。このほか伊勢殿・小笠原殿をはじめ、大井宮でお食事する者から今年中早々に徴収して受け取り、正月のお鷹狩では、(わら)(むしろ)でもいいので綺麗に敷いておくように。さらに、大井宮でのお供衆以外から徴収してはならない。


※鷹狩の際の休憩所設営費用の話。この年の八月に、北条氏政は息子の氏直に家督を譲って隠居している。このため、お屋形様は氏直、ご隠居様は氏政を指す。源五郎は次男の国増で、岩付太田氏の家督を継いでいた。菊王は三男の十郎氏房と見られる。二年後に源五郎が死去すると、その後継者として岩付に入る。


古文書四十三-------------------------------------------------


○1569(永禄12)年 比定 月日未詳


     条目

    遠路口上難届存ニ付而、捨思慮、以糊付申入候、

    御存分、糊付之御返答、可為本望事、

一、先年亡父氏綱応 上意令進発、於総州国苻台、遂一戦、稀世 御父子三人討捕申候、依勲功官領職被仰付、 御内書両通頂戴候、此筋目雖可申披所存候、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

一、於河内、年来随氏政下知無二走廻輩、数ヶ所候、只今可離氏政手前事、外聞令折角候、彼所ゝ此方へ於被付者、忝可為芳志候、但、御納得有之間敷付而者、不及是非歟、就中今度松石対遠山左衛門尉・垪和六ヶ所被書立、先年申歳越苻御陣下へ馳参由候、只今越相和融一味之間、申歳之是非不入歟、既悉皆任御作意上者、彼六ヶ所者、武州之内ニ候、於豆相三ヶ国者、不限代戦功相拘候条、被聞召分、可為本望事、

一、公方様 御座移之儀ニ付而、 藤氏様御進退之儀、松石被申候、遠国無其聞歟、去寅歳御他界ニ候、 義氏様へ自 晴氏様御相続無其隠候、既越相御和融之上者、 義氏様御筋目無紛候条、可然歟、不可過御塩味事、

 右条ゝ申合上者、一日も急速、至信州御出張、氏政自身甲州へ可乱入候、此度信玄敗北之砌、不被醒鉾、信甲御退治念願之外、無他候、若ゝ此上御遅ゝ付者(後欠)

戦国遺文後北条氏編一二一一「北条氏康条書」(庄司哲子氏所蔵伊佐早文書)


条項。


遠距離で説明可能な使者を送るのは難しいので、遠慮せずに糊付けの書状でお伝えします。お考えを糊付けの書状でご返答いただければ幸いです。


一、先年は亡き父氏綱が上意に応じ、下総国国府台にて一戦を遂げ、幸運により御父子三人を討ち取りました。この功績によって関東管領職を与えられています。御内書を両通頂戴していて、この筋目によって考えを言うべきところですが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


一、河内において、年来氏政に従い懸命に働いた者達が、数ヶ所の土地を持っています。現在氏政の手元から離れることになりました。外聞が宜しくありません。あの所領はこちらへ付けていただけるとのこと、ご厚情をありがたく思います。但し、ご納得がいかないのでしたら、どうしようもないのでしょうか。とりわけ今度松本石見守が遠山左衛門尉・垪和に対して六ヶ所を書き並べて、先年の申年(永禄三年)に越後府中(上杉輝虎)のご陣下へ馳せ参じたとのこと、現在、越後・相模が同盟して一体となりましたから、申年の事情は加味されないのでしょうか。すでに全てをご意図にお任せした上は、あの六ヶ所は武蔵国内にあります。伊豆国・相模国との三ヶ国は時間を限らない戦功で与えたので、お聞きいただければ本望です。


一、公方様のご移動について、藤氏様のご処遇を松本石見守に申されました。遠国でご存知なかったのでしょうか。去る寅年(永禄九年)にご他界しました。義氏様への晴氏様のご相続はその隠れもありません。すでに越後・相模が和平した上では、義氏様の筋目は紛れもありません。ですからこれで宜しいではないでしょうか。ご考慮下さい。


右の条項で合意した上は、一日も早く信濃国にご出撃下さい。氏政自身も甲斐国へ乱入するでしょう。この機が信玄(武田晴信)敗北の時ですから、鉾を目覚めさせ、信濃国・甲斐国を退治する念願を果たすよりほかに、考えることはありません。もしこの上で遅滞するなら(後欠)


※上杉輝虎との同盟交渉で北条氏康が出した条書。具体的な行動になかなか移らない輝虎に、譲歩を重ねている様子が判る。関東公方からの委任状があって、本当は強く出てもよいと言いつつ、孫が輝虎の後継者になるのだからそこは目をつぶって任せようという言い分。


古文書四十四-------------------------------------------------


○1569(永禄12)年 比定 月日未詳


一、御行之事、付、条ゝ手日記、

一、関東公方様御名代之事、

一、氏康計儀之事、

一、()()()()()()()()

一、書礼之事、

一、晴信計儀之事、

一、小田・佐竹御調之事、

一、八正院殿御連枝御前之事、

一、下総国之事、

一、太田美濃守可被引付、付、扇谷之義、

    以上、

戦国遺文後北条氏編一三七二「北条氏政条書写」(歴代古案三)


一、先方の作戦内容。付けたり、項目の書き出し書類。

一、関東公方様の相続のこと。

一、氏康の計画のこと。

一、()()()()()()()()()()()()

一、書状の礼儀のこと。

一、晴信の計画のこと。

一、小田・佐竹との和平のこと。

一、八正院殿と血縁がある御前のこと。

一、下総国のこと。

一、太田美濃守を引き取るべきこと。付けたり、扇谷のこと。

以上。


※北条氏政が、使者に持たせたと思われるメモ書き。交渉内容が簡潔に記されている。


古文書四十五-------------------------------------------------


○1569(永禄12)年10月16日


一、同陣之儀、度ゝ如申入非別条候、駿豆城ゝニ、同名家老之者共数千人楯籠候、豆相甲境山一ツニ候、武州へ足長ニ出張、更不罷成処、輝虎如何御分別候哉、若構虚説、事を左右ニ寄様ニ御覚悟候哉、虚言ニ無之処、彼如御望身血を可進候、其上御膝下之人、一騎被指越、駿豆城ゝ之様子可被御覧由候哉事、

一、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

一、父子進置誓詞、既身血を染上、争可存表裏候哉、一点成共、後日ニ相違為有之間敷、御両使へ数返相談納得之上書之候、猶此上何分ニも可任筆意候、又給置候御誓詞、心中ニ存有之者、不望申而不叶候、爰元誤ニ被処間敷候、以上、

右条ゝ、猶遠山左衛門尉可有口上候、畢竟被遂塩味、越国へ被申届可給候、恐ゝ謹言、

    十月十六日      氏政(花押)

   由良信濃守殿

   北条長門守殿

戦国遺文後北条氏編一三二三「北条氏政書状」(江口文書)1569(永禄12)年


一、同陣のこと、度々申し込んでいることに変更はない。駿河国・伊豆国の城々に一族と家老の者達、数千人を籠城させている。伊豆国・相模国・甲斐国は、国境が山一つ。武蔵国にはるばる出撃され、さらに成り立たなくなっている。輝虎はどのような考えをお持ちなのか。偽りを言って、あれこれ言い逃れようという覚悟か。嘘ではないと、あの時のように血判状を渡そう。その上で、お膝元の人を一人お寄越しになり、駿河国・伊豆国の様子をご覧になっていただきたい、と伝えればよいのか。


一、ご()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


一、我々父子は起請文を進呈し、すでに血判に及んでいる。その上で裏の意図を疑うべきだろうか。一点なりとも、あとから相違があってはならない。ご両使へ数回ご相談し、納得の上で書状を送っている。さらにこの上で何かあるというなら、何であれ文意の通りにしよう。いただいた起請文ではなく、心中にあったのでは望みが伝わらないので叶いもしない。こちらの誤りで対処しないのではない。


右の条項のほか、さらに遠山左衛門尉が口頭で説明する。きちんと検討してから、越後国へご報告いただきたい。


※この直前、北条氏政は武田晴信に本拠地小田原を攻められる。この段階に至っても全く動かない上杉輝虎への疑問を、仲介役となっている上杉方の被官達にぶつけた内容。ここを分岐点として、氏政は「一緒に武田と戦ってもらう」ということを諦め、「武田と戦っている間は手出ししさせない」路線に切り替える。同盟交渉を打ち切れば、武田・上杉の両方を相手にしなければならない。このため、交渉は維持する。但し、当てにならない相手に息子は渡さないという変更を加えている。


古文書四十六-------------------------------------------------


○1560(永禄3)年1月1日 比定


ことしよりの御よろこひ、まいり候ても申あくへく候へとも、ちん中の事にて候まゝ、なんてううきやうのすけをまいらせ候、さてハ三色二かしん上致し候、めてたくことしはさうゝゝほんいつかまつり候てまかりかへり、よろつ申あけ候へく候、かしく、御ひろう申候へ、

(切封上書)

   正月

     一日    玉なはより

    御まつ御かた御申      うち政

小田原市史資料編小田原北条二一七二「北条氏政書状」(弘文荘名家真蹟図録)


今年のお喜び、会って申し上げようとしたのですが、陣中にいますので、南条右京亮を伺わせました。さて、三色二荷を進呈します。めでたくも、今年は早々に本意を成し遂げて帰って、すべて申し上げましょう。かしこ。ご披露をお願いします。


※文中の「南条右京亮」を1579(天正7)年6月20日虎朱印に登場する人物とする比定もあるが、1543(天文12)年3月15日の大宮大明神棟札で書かれた「平朝臣南条右京亮綱良」も存在している。このため、比定可能年は長期にわたる。


古文書四十七-------------------------------------------------


●1575(天正3)年7月10日


黄梅院住持職并寺領之事、奉任候、急度可有御入院候、仍状如件、

  天正三年乙亥

    七月十日      氏政(花押)

  養珠院

     衣鉢禅師

戦国遺文後北条氏編一七九一「北条氏政判物」(早雲寺文書)


黄梅院の住職と寺の領地のこと。お任せいたします。取り急ぎご入院下さい。



□参考記述


『郷土史檜原村』-------------------------------------------------


p51

数馬大平には落人の姫を祀った墓があり、甲州風の兜造りの家があります。また、各家々は岡部姓が大部分ですが、岡部村の人々が落ち延びたらしいという説があります。

藤原地区内にも、落人の姫を祀った墓があったとか、武田菱のついた銅鏡が屋敷内から発掘されているので、武田に関係しているのだろうとかいわれています。


『檜原村史』  -------------------------------------------------


p362


あや滝の草庵 柳沢の奥に、「日暮らしの滝」とも言い伝えられるほど、水の落下する様が美しい「あや滝」がある。桧原城が落ちた後この滝の近くへ平山氏の奥方が庵を建てて住み、聖観音を安置して拝んでいたと伝えられている。「あや滝観音」と土地の者も言っていたそうである。後に千足山長泉寺へ移されてあったとも伝えられるが、今は在所不明である。


かくれ岩 千足の沖倉電気店の前にある。岩上に小さな社があり、サイの神を祀っている。天正十八年の桧原城落城時に、城主の平山氏重とその子氏久、並びに兵士たちがかくれていたが、最後に氏重父子が自刃した所と伝えられている。


源五郎岩 千足の大向い裏山の中腹にある。桧原落城のとき、城主平山伊賀守父子が、かくれ岩にかくれているのを知っていた、この付近で炭を焼いていた源五郎と言う男が、城主たちを追って来た敵兵にこの岩の上から教えた。今はこれまでと氏重父子は自刃したが、この時、源五郎を憎きやつとにらめつけたら、源五郎はたちどころに立ちすくみ、この岩から落下して死んだと伝えられ、この岩の名を残している。


p367

 腰掛岩と正月の松飾り 人里には”腰掛岩”と呼ばれる岩がある。その昔、人里の先祖という某が、落武者となって、ここまで来たとき、追手から逃れて後方から来る妻を、この岩に腰を掛けて待っていたのでこう呼ばれたという。このほか人里、数馬や神戸等には武田の落武者に関する短い伝説がある。これらの地の古老は、正月飾りの門松代わりに桧を飾るのは”先祖が武田の落人”である旨を語っているが、甲斐武田と桧との関係は伝えがない。現在も、門松として、桧を飾る家の多いのは、神戸部落から白倉、中里、千足、茅倉等で、南谷に比べて北谷のほうがやや多いようである。

 この門松に桧を飾る点は、「風土記」の”神戸組の項”に「桧原の内此組のみいかなる故にや、正月の飾りに松の代として桧の枝を以門戸ごとに立ると云、よりておもふに、これは桧原の名の由て起こる所の古例なるべけれど、そのゆへは知らず」と記されている。甲野勇氏著「東京の秘境」の中で、「松の代わりに桧を使う風は、甲州にもある。」とは述べられているが、これによって甲州武田武士系を語るのは早計かもしれない。村内での門飾りは、松桧の外に、松と竹、松竹梅、榊等と多様であることも一考しておきたい。

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