第四章 補遺
□参考文献
「群雄創世紀―信玄・氏綱・元就・家康」山室恭子(朝日新聞社・1995年)
「戦国大名今川氏と領国支配」久保田昌希(吉川弘文館・2005年)
「今川氏と遠江・駿河の中世」大塚勲(岩田選書・2008年)
「戦国大名今川氏四代」大塚勲(羽衣出版・2010年)
「中世のなかに生まれた近世」山室恭子 (講談社学術文庫・2013年)
「今川氏滅亡」大石泰史(角川選書・2018年)
「永禄末年における駿・越交渉について -駿・甲同盟決裂の前提-」長谷川弘道(武田氏研究第10号・1993年)
「今川領国の宿と流通 -宿と流通を語る「上」と「下」-」大石泰史(馬の博物館研究紀要一八号・2012年)
□引用文書
古文書十三-------------------------------------------------
●1567(永禄10)年8月17日
過書銭之儀、当■殊外上之由申条、三人前急度可納所、塩荷被留候条、只今まて上候荷物之儀可納所、為其小者秋若遣者也、仍如件、
永禄十年卯
八月十七日
(印文「万歳Ⅲ型」)
鈴木若狭守■
武藤新左衛門尉殿
芹澤玄蕃允殿
戦国遺文今川氏編二一四一「葛山氏元朱印状」(御殿場市萩原・芹沢文書)
通行税のこと、今月はことのほか上るので、三人分を取り急ぎ納付せよ。塩荷をお留めになっているので、現在まで上った荷物のことを納付するように。そのために小者の秋若を派遣する。
古文書十四-------------------------------------------------
○1560(永禄3)年10月16日 比定
急度令啓上候、仍今度三河商人、此方山中木綿通申候処、四本衆被押留候、自先規きわたなと被留候事、一切無之儀候、四本衆之儀も此方領中上下被仕候付而、別而入魂儀ニ候、我等も対四本江、雖不存如在候、新儀被申条如此候、被加御分別、於無異■者、可為恐悦候、猶早水勘解由左衛門尉可被得御意候、恐惶謹言、
拾月十六日 有吉(花押)
愛知県史資料編一一―四〇「千草有吉書状」(今堀日吉神社文書)
取り急ぎ申し上げます。今度三河の商人がこちらの山中で木綿を輸送していたところ、四本衆が抑留なさいました。先の規則より木綿などは留められることは一切ありませんでした。四本衆のことも、こちらの領中で上り・下りで通行していますから特別に親しくしております。私も四本へわだかまりはないのですが、新しい規則だと言ってこのように適用させるには、ご分別を加えて異論がないようにしていただけると幸いです。さらに早水勘解由左衛門尉が御意を得るでしょう。
古文書十五-------------------------------------------------
○1569(永禄12)年6月25日 比定
其地無事之由肝要候、仍去廿一夜、出伏兵塩荷通用之者、数多討捕之由、因茲敵往復相留段、誠馳走無是非趣、相州へも可申届候、弥無由断被申付専一候、各へ異見尤候、恐々謹言、
六月廿五日 氏真(花押)
大藤式部少輔殿
戦国遺文今川氏編二四〇四「今川氏真書状」(大藤文書)
その地が無事であるとのこと、大事なことです。去る二一日の夜に、伏兵を出して塩荷を運んでいる者たちを多数討ち取ったとのこと。これによって敵の往復を止めたのは、本当に素晴らしい活躍です。相模国にも報告しておきます。ますます油断のないように指示するのが最も重要です。
古文書十六-------------------------------------------------
○1580(天正8)年12月1日 比定
塩荷可押所定事、
栗崎・五十子・仁手・今井・宮古島・金窪、かんな川境牓示ニ可取之候、然者、深谷御領分榛沢・沓かけ并あなし・十条きつて、しほ荷おさへ候事、かたく無用候、為其、重而申出者也、如件、
猶以、半年者、忍領分ニて少も不可致狼藉候、以上、
辰
十二月朔日
(朱印「翕邦把福」)
長谷部備前守
戦国遺文後北条氏編二二〇二「北条氏邦朱印状」(長谷川文書)
塩荷を押収するように定めたこと。栗崎・五十子・仁手・今井・宮古島・金窪で、神流川を境にして取るように。であれば、深谷ご領分の榛沢・沓かけ・あなし・十条で切って塩荷を押収するのは、堅く禁じる。そのために再度発令するものである。
古文書十七-------------------------------------------------
○1569(永禄12)年9月3日 比定
雖以直書可申入候、両三度不預御返答候、不審之処ニ、書礼慮外之由、於其国御存分之由承及候、更一両年以来相違之儀無之候、但自然御存分有之者、可認置候、[不可有略儀候、]諸事相紛処、[惣別遠路]不可過御計量旨被成取、進退之義、弥御馳走其方任置候、委細当口之模様大石可為口説候、恐々謹言、
永禄十年ノ状也、
九月三日 氏真
山吉孫次郎殿
戦国遺文今川氏編二一四三「今川氏真書状写」(歴代古案一)
A そのまま読んだもの
直接の書状でご連絡したのに、三度にわたってご返答をいただけなかった。不審に思っていたところ、書式がよくないとのこと、その国でお考えと承った。一両年以来さらなる相違はない。もしお考えがあれば連絡いただきたい。粗略に思ってのことではなく、諸事に取り紛れてのところだ。総じて遠距離なのでご推量いただき、取り成しをお願いしたい。進退のこと、ますますのご奔走をあなたにお任せする。こちら方面の詳細は大石が口頭でご説明するだろう。
B 追記されたもの([]内)を除外
直接の書状でご連絡したのに、三度にわたってご返答をいただけなかった。不審に思っていたところ、書式がよくないとのこと、その国でお考えと承った。一両年以来さらなる相違はない。もしお考えがあれば連絡いただきたい。諸事お取り込みのところだが、ご推量いただき、取り成しをお願いしたい。進退のこと、ますますのご奔走をあなたにお任せする。こちら方面の詳細は大石が口頭でご説明するだろう。
古文書十八-------------------------------------------------
○1567(永禄10)年4月24日 比定
御上洛以後不申上候、慮外之至候、仍従屋形以書状被申入候、将又、尾崎かたへ尊書、於当地拝見仕候、彼御縁之儀、於被仰調者、尤存候、依此御返事、家老之仁一両人以書状可被申入候、就中貴国与相甲和与之御扱之旨、風聞候、於事実者、当国を証人仁被成之様、御馳走候者、祝着可被申候、委細様躰永順ニ申含候間、令省略候、此等之趣、可預御披露候、恐惶謹言、
四月廿四日 宗是(花押)
進上
今林寺方丈
衣鉢禅師
戦国遺文今川氏編二一七六「宗是書状」(上杉文書)
ご上洛以後はご連絡せず、思いもかけないことです。さて、屋形より書状を使って申し入れられました。はたまた、尾崎方へのご書状、当地で拝見しました。あのご縁をご調整するようにとの仰せ、もっともに思います。このお返事は、家老の誰か一人が書状で申し入れられるでしょう。とりわけ、貴国と相模国・甲斐国との和睦のご下命があると噂に聞きました。事実なら、当国を証人にするよう、ご奔走いただければ祝着です。詳しい状況は永順に申し含めましたので、省略します。この趣旨をご披露下さい。
古文書十九-------------------------------------------------
○1567(永禄10)年12月21日 比定
親候義元以来之被任筋目、態御使僧、祝着候、殊ニ向後別而可被仰合由、勿論ニ候、猶朝比奈備中守・三浦次郎左衛門尉可申候、恐々謹言、
十二月廿一日 源氏真
謹上 上杉殿
戦国遺文今川氏編二一五八「今川氏真書状写」(上杉家文書)
親である義元以来の筋目により、折り入ってのご使僧、祝着です。特に今後は格別にご協議いただけるとのこと。論ずるまでもありません。さらに朝比奈備中守・三浦次郎左衛門尉が申します。
古文書二十-------------------------------------------------
○1568(永禄11)年4月15日 比定
態可申入之処、此方使ニ被相添使者之間、令啓候、仍甲州新蔵帰国之儀、氏康父子被申扱候処、氏真誓詞無之候者、不及覚悟之由、信玄被申放候条、非可被捨置義之間、被任其意候、要明寺被指越候時分、相互打抜有間鋪之旨、堅被申合候条、有様申候、雖如此申候、信玄表裏候ハゝ、則可申入候、猶委細遊雲斎可申宣候、恐々謹言、
三浦次郎左衛門
(後筆:永禄十一) 氏満
四月十五日
朝比奈備中守
泰朝
直江大和守殿
柿崎和泉守殿 御宿所
戦国遺文今川氏編二一七四「朝比奈泰朝・三浦氏満連署書状案写」(歴代古案二)
折り入って申し入れようとしたところ、こちらの使者にご使者を添えていただいたので、ご挨拶します。甲斐国の新造が帰国する件。氏康父子が仲介を申し出たところ、氏真の起請文がないのは覚悟がないからだ、と信玄が言い放ったので、捨て置くこともできずその要望に応じました。要明寺をお送りいただいた時分に、相互に抜け駆けはしないと堅く合意していますから、ありようのまま申します。このようであるとはいえ、信玄が裏切ったならばすぐにお知らせしましょう。詳しくは遊雲斎が申します。
古文書二十一-------------------------------------------------
○1568(永禄11)年4月15日 比定
旧冬為使罷下候処、種々御懇之儀共忝存候、仍被仰越候趣、則披露申候処、三浦次郎左衛門尉・朝比奈備中守有様被申入候、雖如比候、信玄表裏程有間敷候間、左候ハゝ、如先度之筋目、様躰重而可被申入候、将又貴国へ甲より計策之書状なと御座候ハゝ、急度可被仰越候事尤存候、恐々謹言、
(後筆ヵ:今川氏真家来)
(後筆:永禄十一) 遊雲斎
四月十五日 永順
直江大和守殿
柿崎和泉守殿
貴窓下
戦国遺文今川氏編二一七五「永順書状写」(歴代古案二)
昨年末に使者として下向したところ、色々とご親切なご対応をいただき、かたじけなく思います。お知らせいただいた案件をすぐ披露したところ、三浦次郎左衛門尉・朝比奈備中守がありようをお伝えしました。このようであるとはいえ、信玄の裏切りはもうじきでしょうから、そうなったら、先の筋目の通りに状況をご連絡するでしょう。はたまた、貴国に甲斐から陰謀の書状などがあれば、急いでお知らせいただくのがもっともに思います。
古文書二十二-------------------------------------------------
○1578(天正6)年8月14日 比定
急度令申候、仍大坂并雑賀表御動座之刻、御用木其外御船已下可被仰付候条、津山川・春日山材木一切可被相留旨御諚候、被得其意、堅可被申付事、肝要ニ候、恐々謹言、
佐久間甚九郎
八月十四日 定栄(花押)
佐久間右衛門尉
定盛(花押)
寺田又右衛門殿
松浦安大夫殿
御宿所
増訂織田信長文書の研究補遺九五「佐久間定盛・定栄父子連署状」(佐藤行信氏所蔵文書四)
取り急ぎ申します。大坂・雑賀方面にご動座される際の、御用木その他御船などをお命じになりましたので、津山川・春日山の材木は一切を留めるようにと、掟を出されました。その意を受けて、堅く指示すること、大切なことです。
古文書二十三-------------------------------------------------
●1568(永禄11)年9月21日
犬居可相通兵粮之事
(朱印「懸河」)
右、毎月五駄充、奥山左近方為湯分差越之間、森口・二俣口雖為何之地、無相違可令勘過者也、仍如件、
永禄十一年辰
九月廿一日
津留奉行中
戦国遺文今川氏編二一九〇「朝比奈泰朝ヵ朱印状」(奥山文書)
犬居に兵粮を届けるようにすること。右は、毎月五駄宛てで、奥山左近方から湯分として搬送するので、森・二俣の口などどこの地であっても、相違なく通過させるように。
古文書二十四-------------------------------------------------
●1563(永禄6)年3月19日
須走口過所之事、半分六拾貫文爾相定之間、従去正月上荷物を勘定仁合、右之員数相調之、公方へ直爾可納之、如此相定上者、脇之荷物之事一切停止之、万一於相通者、六拾貫文之内可立勘定、然間前々令扶助拾二駄之荷物之事、不准自余、自当月無相違可通之、猶以六拾貫文之内、縦少雖為不足為弁、右之員数之透可納之、雖然境目就忩劇路次於無通用者、可及其断之状如件、
永禄六亥
三月十九日
(朱印「万歳Ⅲ型」)
芹沢伊賀守殿
戦国遺文今川氏編一九〇二「葛山氏元朱印状」(御殿場市萩原・芹沢文書)
須走口通行税のこと。半分の六〇貫文で決定したので、前の正月から上げた荷物の勘定に合わせ、右の員数を準備して公方へ直接納付するように。このように決めた上は、脇道を抜ける荷物は一切禁止する。万が一にも通ったら、六〇貫文の中で勘定を立てるように。なので、前々から免税していた十二駄の荷物は、他とは異なり今月より相違なく通すように。さらに、六〇貫文でたとえ不足が生じるとしても、右の員数の通りに納付せよ。そうはいっても境目で紛争があって物流が止まったら、それを申告するように。
古文書二十五-------------------------------------------------
○1562(永禄5)年1月20日 比定
就当国与岡崎鉾楯之儀、関東之通路不合期之条、不可然候、閣是非早速令和睦者、可為至妙候、委細三条大納言并文次軒可演説候、猶信孝可申候、穴賢、
正月廿日 (足利義輝花押)
今川上総介殿
戦国遺文今川氏編1636「足利義輝御内書写」(大館市立中央図書館所蔵真崎文庫)
当国と岡崎の交戦について。関東の通行に支障があるので望ましくない。ことの是非はおいて速やかに和睦するのが神妙の至りだろう。詳しくは三条大納言と文次軒が話すだろう。さらに信孝からも伝える。
古文書二十六-------------------------------------------------
●1567(永禄10)年8月3日
古沢之市へ立諸商人、除茱萸沢、二岡前・萩原お於令通用者、見合馬・荷物相押可取之状如件、
永禄十丁卯
八月三日
(朱印「万歳Ⅲ型」)
芹沢玄蕃殿
戦国遺文今川氏編二一三七「葛山氏元朱印状」(御殿場市萩原・芹沢文書)
古沢の市へ立つ諸商人で、茱萸沢を避けて二岡前や萩原を通行している者は、見つけ次第荷物を押収するように。
古文書二十七-------------------------------------------------
○1564(永禄7)年1月4日 比定
房州衆五六百騎ニて、市川ニ陣取、岩付へ兵粮送候、然ニねたん問答ニて、于今指攄候、此時打而取所由、江戸衆・高城以下数度申越間、明日五日自当地具足ニて、腰兵粮乗馬ニ付、各懸候、然者必ゝ明日昼以前ニ当地へ可打着候、兵粮無調候者、当地ニて可借候、自元三日用意ニ候間、陣夫一人も不召連候、人数馳着次第、馬上ニて鑓を持、必ゝ明日五日昼以前、可打着候、一戦儀定間、中間・小者なり共、達者之者共不残可召連候、土屋・大見衆へ此分堅可申遣候、恐々謹言、
正月四日 氏康(花押)
秩父殿
西原殿
戦国遺文後北条氏編八三六「北条氏康書状」(沼津市西原文書)
安房衆が五〜六〇〇騎にて市川に陣取り、岩付へ兵粮を送っている。しかるに、値段で揉めていて今も留まっている。この時に討ち取ろうと、江戸衆と高城たちが何度か報告してきたので、明日五日当地より、具足と腰兵粮をつけ乗馬し、各自が出撃せよ。必ずや明日昼以前に当地へ到着するように。兵粮がなければ当地で貸与する。もとより三日の用意だから、陣夫は一人も連れずに兵員が集まったら、馬上で鑓を持ち、必ず必ず明日五日の昼以前に到着するように。一戦するのは確実なので、小者であっても元気な者は残らず連れてくるように。土屋・大見衆へこの内容を確実に申し送るように。
古文書二十八-------------------------------------------------
○1563(永禄6)年閏12月6日 比定
以幸便染一筆候、仍遠州之体実儀候哉、無是非次第ニ候、駿州之内彼方之調可然様候て、過半駿之内可相破様ニ候者、早々可致注進、此表者焼動迄之事候条、以夜継日急ニて可納馬候、又遠州者心替候へ共、駿州衆各守氏真前、自元三州之備も氏真可有本意様ニ候者、以次暫之在陳、関東之義可明隙候、何ニ両様其方具致見聞、以早飛脚注進待入候、謹言、
追而、駿州必可相破様ニ聞届候者、此時候間早々納馬、彼国之本意可相急候、此所々能々聞届、注進尤ニ候、又彼方へ越書状候、彦六郎へ渡候間、被指越候者、早々可被届候、以上、
壬十二月六日 信玄(花押影)
佐野主税助殿
戦国遺文今川氏編1951「武田信玄書状写」(彰考館所蔵「佐野家蔵文書」)
たまたまそちらへの便があったので便りを送った。遠江国の状況は本当だろうか。どうしようもない。駿河国の内情偵察は怠らないようにして、駿河で半数以上が破産するならすぐに報告を入れよ。こちら方面は放火している程度の戦況だから、昼夜を問わずに撤退するだろう。また、遠江国が心変わりしても、駿河国衆は各々が氏真を守って、元からの三河国への備えも氏真の意図通り行なうなら、ここ暫くは在陣しよう。それなら関東は落ち着くだろう。どちらにせよ、あなたは詳しく情報を集めなさい。飛脚を使っての素早い報告を待っている。
追伸:駿河国は必ず破産という確証を掴んだら、まさにこの時なのだからすぐに撤退する。あの国への本意を急ぐだろう。こうした状況をよく把握して報告するのがよい。また、あちらへ書状を送る。彦六郎へ渡すので、中継を頼まれたらすぐに届けるように。
古文書二十九-------------------------------------------------
●1566(永禄9)年4月3日
(朱印「如律令」)
冨士大宮毎月六度市之事、押買狼藉非分等有之旨申条、自今已後之儀者、一円停止諸役、為楽市可申付之、并神田橋関之事、為新役之間、是又可令停止其役、若於違背之輩者、急度注進之上可加下知者也、仍如件、
永禄九年丙寅
四月三日
冨士兵部少輔殿
戦国遺文今川氏編2081「今川氏真朱印状」(静岡県立中央図書館所蔵大宮司富士家文書)
富士大宮で毎月六回開いている市場のこと。押し買い・暴力といった不法行為があると言っているので、今後はやめるように。一帯の課税を停止し、これを楽市として設定する。合わせて神田橋の関所については、新しい課税となってしまうので、これもまた課税停止する。もし違犯するものが入れば、急いで報告せよ。命令を加えよう。
古文書三十-------------------------------------------------
○1566(永禄9)年10月26日 比定
小笠原美作守殿へ、其方取越六拾五貫文其返弁之一札ニ、御袖判可被申請之由候、三右衛門有御披露時宜相済候、御修法中ハ罷成間敷候間、来月四日五日比ニ必可調進之候、とくゝゝ可調進之候へ共、昨日まてハさしあいの事候て、如此遅引候、小与左・匂加方へ御催促ニをよふましく候、我々ニ可被任置之候、為其申入候、恐々謹言、
十月廿六日 玄長(花押)
松木与左衛門尉殿参
戦国遺文今川氏編2109「朝比奈玄長書状」(静岡市葵区大岩本町・矢入文書)
小笠原美作守殿へ、あなたが貸した六五貫文の返済証に、氏真の承認印をもらいたいとのこと。三右衛門がご披露して済ませました。ご修法中は禁止されていますので、来月の四日か五日頃に必ず準備して渡します。とにかく急いで準備しようとしていますが、昨日まで取り込んでいてこのように遅延しました。小笠原与左衛門・匂坂加賀守に催促しないで下さい。我々にお任せいただけますように。そのために申し入れます。
古文書三十一-------------------------------------------------
●1567(永禄10)年11月5日
就茜之儀、尾崎妙忍ニ 御判形雖被下之、無前々筋目、自他国之商人御訴訟之旨言上之処、被聞食分、各に御判形被下之畢、然者為其御礼段子拾段・金襴拾巻・虎皮二枚進上、即令披露候、縦重而加様之新役雖有競望之輩、一切不可有御許容旨、所被 仰出也、仍為向後一筆如件、
永禄十年 三左元政花押
十一月五日 金遊芳線
伊左元慶
由内匠頭光綱
友野次郎兵衛とのへ
松木与三左衛門とのへ
他国商人中
戦国遺文今川氏編2155「三浦元政等連署証文写」(駿河志料巻七十八友野文書)
茜について、尾崎妙忍に氏真がご判形を下されました。「以前からの筋目がない」と他国の商人よりご訴訟があったところ、お聞き入れになり、それぞれにご判形を下されました。そしてそのお礼の緞子十段・金襴十巻・虎革二枚を献上したので、すぐに披露させていただきました。あとからこのような新役を望む者が現れても、一切ご許容はない旨を現場に仰せ出されました。今後のための一筆としてこのようにしたためます。
古文書三十二-------------------------------------------------
○1575(天正3)年8月5日 比定
鞠道門弟候間申候、雅綱弟子勢州中納言、於関東弟子ニ付而、沓・葛袴被剥、隣国被払之由ニ候、又雅親西国下向之時、松下弟子一人有之由候而、沓・袴被剥成敗之由候、御代々綸旨・院宣・奉書并室町殿文書等被見之候、今度尾州ニ松下弟子有之付而、法度之由被理候条、其者成敗申付者也、
八月五日 信長花押
飛鳥井大納言殿
増訂織田信長文書の研究527「織田信長判物写」(『蹴鞠』『京都御所東山御文庫記録』丙四十九『土佐国蠧簡集』五『古証文』四)
鞠道の門弟ですから申します。雅綱弟子の勢州中納言が、関東において弟子を取って、沓・葛袴を剥ぎ取られ、隣国に追い払われたとのことです。また、雅親が西国に下向した時に、松下に弟子が一人あるとのことで、沓・袴を剥がれて処分されたそうです。代々の綸旨・院宣・奉書と室町殿(将軍)の文書を拝見しました。今度尾張国において松下が弟子を取ることを禁止されるとのことですから、その者の処分を命じます。
古文書三十三-------------------------------------------------
●1573(元亀4/天正元)年11月20日
定
其方本屋敷并義元隠居屋敷被下置候、自今已後私宅等被相構、可有居住之由、被 仰出候者也、仍如件、
元亀四癸酉 跡部大炊助奉之
十一月廿日(竜朱印)
岡部丹後守殿
戦国遺文今川氏編二五四七「武田家朱印状」(藤技市郷土博物館所蔵岡部文書)
定
あなたの本屋敷・義元隠居屋敷をお下げ渡しになります。これ以後は私宅を構え、居住するのがいいだろうと、仰せ出しになっています。