41 信州問屋
猪飼の表情には焦りが見え始めていた。
「……じゃあ論点を変えよう。どうしても金が必要で塩を値上げしたとしても、それも一種の塩留だよ」
それまでの議論を全て捨てるような主張に皆が鼻白む中、ここで、それまで様子見していた風のある軸屋が反応する。
「話が変わり過ぎだ。武田と仲が悪くなって塩を留めたというより、経済事情が悪くてとにかく金がほしくって、それで塩を値上げした。借金で火の車なのと、そろそろ関係も冷え込んでるし遠慮しなくていいやってことで。だから、軍記が書いてるように、悪意で留めたり、他の家に塩留を呼びかけたりってのはしてないだろ」
「とにかく、塩が正常に送られなかった。だから塩留はあった。軍記と古文書は一致してるんだよ」
そう断定する猪飼に、軸屋が困惑する。
「よく判らないけど?」
「軍記が書いている塩留は史料で確認できた。これ以上の説明は要らないでしょ?」
強弁を続ける猪飼に、江間が苛立ったように反論する。
「でも、かなり状況が違うんじゃない? 一緒とは思えないよ。猪飼くん、ちゃんと話についてきてる?」
「失礼だなあ。江間さんこそ大丈夫? 専門書をちゃんと呼んでいるぼくが信じられない?」
興奮した口調の猪飼は、自分の鞄を探り出す。
「ほら! 見せてあげるよ。これも、これも、これだって、専門家は『塩留があった』って書いてる」
彼は何冊も取り出して、あらかじめ付箋を貼っていたページを次々に開いて皆に渡す。
「大体、おかしいだろ。ミコちゃん以外は全員歴史の知識なんてないじゃないか。それで、何で専門家を否定するんだよ」
目の色が変わった猪飼は、普段のおっとりした口調をかなぐり捨ててまくし立てる。
「そういう興味本位な態度が、インチキな歴史話を生み出すんだぞ。日本人の先祖が騎馬民族だったとかユダヤ人だったとか」
それを聞くと久瀬がふっと立ち上がり、猪飼の肩を叩く。
「ちょっと落ち着け。歴史の知識とか、合理性とか、筋書きの面白さとか、俺はそういうのは正直どうでもいいと思ってる。でも、お前の考え方が一番怖いぞ。お偉い先生が言ってることに、疑問を持っちゃいけないのか?」
「……いや、そこまでは言ってないよ。ただ、学術的手法に則っている専門家の意見は、尊重しなきゃ」
「でもさ、相手の意見を正面から受け止めて、自分なりに納得できる答えを探すのも、相手を尊重することじゃないか?」
「だから、それを専門家以外がしちゃいけないんだって」
「ああ、言っちゃったな。猪飼は史学科志望だから、そりゃまあそうだな」
「あ……そうじゃなくて」
「まあいいさ。お前を責めてるわけじゃない」
久瀬が猪飼から離れると、その場の空気が冷え込んだ。
それきり静まり返った図書室で、猪飼は固まったままになっていた。久瀬は立ち上がると、さっさと扉に向かう。江間が三廻部の手を取るが、三廻部はそれに抗って振り返ると、猪飼に告げる。
「しんちゃん、気を使ってくれてありがとう。でも、あたしは史学科には行かない。ただの趣味として古文書と向き合うことに決めたから」
はっとして顔を上げた猪飼だったが、複雑そうな笑みを浮かべる三廻部を直視できず目を伏せる。それを見届けた三廻部は、江間と連れ立って廊下へ去っていった。
最後に残った軸屋がちらりと猪飼を見て、軽く手を挙げ部屋を出ようとする。すると、猪飼が振り絞るような声でそれを引き止めた。
「軸屋、君は責任をとれるのか?」
「責任?」
「彼女はきちんと正規の教育を受けるべきだ。でないと……」
「じいさんや親父さんの二の舞になるって?」
「……知ってたのか」
「三廻部さんから直接聞いた。彼女は、その上で趣味路線を行くって言ってるんだ」
「それが彼女を追い込むとしても?」
「歴史の専門家になったら、三廻部さんはもっと追い込まれると思うぞ。むしろ、趣味ぐらいにしといたほうがいい」
「大人しくしてればいいけどさ、彼女は憑かれたように突っ走るんだよ」
「突っ走ってもいいじゃないか」
「ぶっ壊れるまで走るんだよ。それで本当にいいの? 軸屋がずっとブレーキ役をできるの? 人に関わろうとしないくせに」
「なるようになるさ」
「かっこつけて、それだけ? 信じられないね」
冬の日が落ちかけた図書室にはしばらく沈黙が続いていたが、すぐに久瀬の声が廊下から聞こえてきた。
「候哉、どうした?」
「今行く」
軸屋が廊下に出ると「駅前で今から遊ぶから、候哉も来いよ」「時間の無駄だ」「たまには付き合え」という二人の声が去っていく。猪飼は華奢な背中を椅子の背に思い切り当てると、三廻部が配ったコピー紙をじっと睨んでいた。
◇
図書室を出た江間は予備校に、久瀬は遊びに行くためすぐに学校を出ていた。三廻部と軸屋は、がらんとした三年生の空き教室で話し込んでいる。冬至近くの日はすでに傾き、教室に淡く差し込んでいた。
軸屋は机の中の物を紙袋に入れながら、三廻部に言葉を投げる。
「まあ猪飼の言うことの中で聞くべき点があるとすると、こんな話が何で長年語られたのかってところだな。そもそも、どうして新潟から塩を運んだって話になったんだ? 愛知県からも送れたし、状況を聞く限りでは、神奈川や東京からも留めてはいなかったっぽいじゃん。しかも、新潟のほうが山が多そうだし、冬運ぶのに雪が邪魔じゃないか? 伝承だとしても妙な気がする。そこが引っかかってるんだよな」
持ち込んだ缶珈琲を置いた三廻部は、ノートPCをさっと広げながら答える。
「江戸時代に、長野県松本に塩を納めていたのが新潟県の糸魚川からだったみたい。それで、その由来として美談を作り上げたような感じかなあと思ってる。『越佐叢書』という史料集の九巻に『信州問屋由来記鑑』というものがあるんだけど、その中に、塩留の記事があって……」
彼女はテキストファイルを表示したPCのディスプレイを見せる。
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○原文
「武田には何にても不足なかりしが、壱つの不足は、四方敵に取囲、海辺知たまはず、塩味のみ御こまり、信州国中之民百姓、可及渇命之由、追々城代より願出、無余儀信玄公より越後謙信公江御頼被成候に付、謙信公は理非正道之大将にて、合戦は格別、たとへ敵国なりとも、国民之難渋見捨がたく、早速御許容被成下、塩御送可被成御契約なりしが、川中島は合戦最中、民之通用悪敷、西浜糸魚川の山入は、其むかし行基菩薩之御作之像の有ける地蔵峠と申細道有、又外に大網峠之道も有ければ、百姓信州より罷下、塩荷物を背負、或は牛馬追下り、附越ければ、信州の民百姓悦事誠に孤之親を見附し心地なり。依之、仁科殿始其所之城代へも百姓より塩を差上申候て、誠に危うき命を助候と也。其格別を以、彼国には、夫より已来御領地江塩を差上申候、今に至迄、塩御年貢を松本御領主御取被成候根本は是なり」
●解釈
「武田には何の不足なかったが、ひとつだけ、四方を敵に取り囲まれて、海がなく塩だけは困っていた。信濃国の民百姓たちは命が危ういということで、それぞれの城代から懇願されてどうしようもなく、武田晴信は越後国の上杉輝虎に救援要請をした。輝虎は善悪をわきまえた大将だったので「合戦とは話が別で、たとえ敵国でも国民が困っているのは見捨てられない」と、すぐに許可を出され、塩をお送りになるご契約をなさった。しかし川中島が紛争地域で民間の交通事情が悪かった。一方で、西浜糸魚川から遡上するルートは、その昔に行基が作った像がある地蔵峠という細い道があった。また外に大網峠の道もあったので、百姓が信濃国から下りてきて、塩荷物を背負ったり牛馬に付けて運んだ。このため、信濃国の民百姓の喜びようは、孤児が親を見つけた時のようだった。これにより、仁科殿を初めとして各所の城代にも百姓から塩を献上して、危うかった命を助けた。ここから格別の扱いとなって、それ以来あの国のご領地には塩を送っている。現在でも、塩年貢を松本のご領主がお取りになる根拠はこれだ」
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「この書物の成立は一七九五(寛政七)年三月以降とされているから、一五六七(永禄十)年から二百年もあとの時代。糸魚川にある『信州問屋』の町沢藤左衛門という人が書いたみたい」
「どうも、最後のところが恩着せがましいな」
「松本あたりって、南北から来る塩の終着点だったみたいで、問屋がしのぎを削ってたんだろうね。一七〇六(宝永三)年に、この問屋を経由せずに松本の人が直接塩を買った事件があったのね。越後から信濃への塩の専売権を持っている信州問屋からはしたら大問題でしょ。それで、『お前達は越後から塩を買う義理があるぞ』という由来を作ろうとしたんじゃないかな」
「よそから買うのを禁止はできなかったのか?」
「その事件の時に抜け駆けで塩を売ったのが、天領の須沢村からだったらしくって……『天領』って江戸幕府の直轄領だから強くは言えないでしょ。だから昔の出来事を持ってきたのかも」
「で、あれこれ探して、上杉のあの解説を見つけたってことか」
「うん。あたしはそう思う。江戸時代の上杉家ってものすごくお金に困っていたから、それなりの謝礼を出せば見せてくれたろうしね」
「最初は上杉家をかっこよく見せるために書いたものが、もっと広がった瞬間か。なるほど、それならこの話が長く信じられたってのが判るな。しかし本当に、後世の記録は当てにならないな」
「うん。意外と古文書も見て勉強しているんだけど、何というか、かじっただけとか誤読したりとか。せめて典拠を書いておいてくれればよかったのに」
三廻部は、数百年前の同好の士を悼むような複雑な表情をしていた。




