40 所存
ああ言えばこう言うの繰り返しで、切りのない猪飼の反論に一同が食傷気味になっていた。
ここで、データを探していた三廻部が、場が静まるのを待って語り始める。
「里村紹巴という連歌師がいて、この人は『富士見道記』という旅日記を残してるの。これは、永禄十年の五月十四日から六月二十二日まで、彼が駿府に滞在した時のもの」
「おお。ちょうどのタイミング!」
久瀬が手を叩いた。さらに『連歌師』と聞いて猪飼が満面の笑みを浮かべる。
「里村紹巴というと、連歌師でもトップクラスだよね。氏真が和歌に狂ったという話もあるから、きっと遊ぶために呼んだんだろうね」
それに答えず、三廻部は淡々と説明を続ける。
「この日記を読む限り、宗祇や宗長という昔の伝説的な連歌師の事績を体験したくて駿府へ行ったみたいだよ。それと富士山見物。で、氏真が同席しての連歌会は五月の二十日、二十三日、二十五日、三十日の四回」
「滞在した三十八日間で四回、ざっくりで九日に一回だな」
と、軸屋が素早く計算して補足。江間が思案顔でそれに反応し、
「うーん、多いと見るかは微妙かな。連日じゃあないよね」
とつなげると、猪飼が反論する。
「会ってみたら紹巴が嫌いだったとか、途中で織田からのスパイだと見て警戒したか、理由は判らないよ」
それには誰も答えず、三廻部の淡々とした声がかぶさる。
「紹巴は六月二一日に『京に帰ります』って伝える。それを聞いた氏真は慌てて部下の瀬名元世を宿所に派遣。九月くらいまでいて下さいと頼んだ。それでも紹巴は翌日帰ってしまう。氏真は、最後に茶道の名物を見せたりして名残りを惜しんだ」
ここで三廻部が画面に本文を表示する。江間と猪飼が覗き込み、ややあって久瀬も近寄った。軸屋というと、はなから見ようともしていない。
<御屋形様にて。宗祇香炉、宗長の松木盆。翌日御会席の半に。御手づから持て出させ給ひ。千鳥と云ふ香炉銘物拝見忘れ難くして。丸子に至りぬ>
江間が若干ひきつった顔をして突っ込む。
「え、見せるだけ? 餞別はないの? さっき見た、なんちゃら卿記だと、あれこれあれこれとお土産のオンパレードだったでしょ?」
猪飼は鼻を鳴らしてその指摘をはね退ける。
「書かなかっただけだろ。紹巴は京都から駿府に行ったんだから並の贈り物じゃ、わざわざ書くまでもないって思ったんだ」
ここで三廻部がようやく猪飼に反応する。
「それは違うよ。紹巴は途中で駿府を離れて、清見寺という有名なお寺に観光に立ち寄るのね。そこで江川酒というお酒を振る舞われて大喜びする。『駿府では名前だけ聞いてたものを味わえた』って。ほら、ここ」
<江川と云ふ近国の名酒。今日までは府中にても聞きしばかりなりの物を味ひて立ちける。旅の衣に裁かゆ可き色々をさへ贈り給へり>
「江川って、どこ?」
と久瀬が訊くと、三廻部は即座に答える。
「場所じゃなくて、伊豆の韮山にいた商人の名字だよ。江川酒は贈答品でも使われている有名な日本酒だけど、作られてるのが伊豆だからすぐ手に入りそうなんだけどね。駿府がかなり不景気だったのかなって思う。そして、十三日に紹巴は『西殿』に呼ばれてる。そこで、北条氏政からたくさんのご馳走を贈られて、これまた大喜び。『大黒様の足元にある宝物みたいだ』って。『宴会でもないのに』とか『寂しい旅の身であることを忘れられた』とか、もう熱烈に喜んでる」
<十三日には。西殿へ召されて。相州の太守より嘉肴。江川魚なりとて。御前にして身のほどを忘るゝばかり下され。翌朝又持たせられ。大黒天子足もとの宝さへなり。頃会席ならぬ日に伺候して。いぶせき旅のやどりを忘れ侍りぬ>
「北条氏政って誰?」
と、今度は江間。
「駿河の隣、伊豆・相模にいた太守だよ。氏政の妹が氏真に嫁いでいるから『西殿』っていうのはこの奥さんのいた場所かもね。そこで、実家から送られてきた山盛りの料理を振る舞われたんでしょう」
「えー、じゃあ氏真が何かくれたら絶対書くよね、この人。本当に何も贈ってないんだ? すごいケチか貧乏かどっちかじゃん」
三廻部はそれに異議を唱える。
「何もあげなかったわけじゃない。最後に引き止める時だけ、滞在延長での衣服は支給するからって申し出てるよ。『それだけじゃ』って思ったのか、部下の元世があれこれプレゼントを渡してて『さすがは雪斎和尚の教えを受けただけある』って紹巴が書き足してる」
<廿一日帰京の事申し上げしに。瀬名尾州の仰せ付ければ。旅宿へ忍び入らせ給ひ。秋かけて在府申せとの事。御屋形より帷などの御賄なひをさへ仰せ出さるとて。私かにも種々持たせられ、此の尾州は大原和尚の床下に臥し馴れ給ひしも道理と見えて>
「でも結局氏真は服の支給だけでしょ。切ないなあ。お金がないって」
江間がしんみり言う横で、久瀬から問いが飛ぶ。
「いまさらだけどさ、連歌って何?」
三廻部は厭わず説明をする。
「この時代に流行った和歌の形式で、大勢で集まって順番に歌をつないでいくもの」
「即興のジャズ・セッションみたいなもの?」
「うん。それに近いかな。夢中になってのめり込んだ人も多いよ」
「なるほどなあ。じゃあ都会でナンバーワンのエンターテイナーが来たようなものか。でも、せっかく来てもお金がない、と」
「紹巴もこれには当てが外れたみたいで、旅館の隣の酒屋で飲んだくれたりしてる」
そこまで聞いた久瀬は、横にいる猪飼に告げる。
「これは駄目だ。遊んで金を浪費したとは思えないぞ」
「いやだから、この前にたくさん使い込んでいて破綻したとも考えられるでしょ」
と、なおも猪飼が反論を試みていると、三廻部が静かにそれを制す。
「猪飼くん、それは駄目っぽいよ。これを見て」
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古文書三十二
○原文
定
其方本屋敷并義元隠居屋敷被下置候、自今已後私宅等被相構、可有居住之由、被 仰出候者也、仍如件、
元亀四癸酉 跡部大炊助奉之
十一月廿日(竜朱印)
岡部丹後守殿
戦国遺文今川氏編二五四七「武田家朱印状」(藤技市郷土博物館所蔵岡部文書)
●解釈
定め。あなたの本屋敷・義元隠居屋敷をお下げ渡しになります。これ以後は私宅を構え、居住するのがいいだろうと、仰せ出しになっています。
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「これは武田の駿河領有が安定してから出されたものだけど、『義元隠居屋敷』ってあるでしょ。永禄三年以前に義元が隠居して家を建てたってこと。そして、この屋敷は十三年間も残っていたんだよ。これだけお金に困っていた氏真だったら、売ろうとしたはず。でも売れなかった」
江間が手のひらをぽんと叩いた。
「あ、何かつながった気がする。買い手がいなかったんだ。名前を聞くばかりで駿府のどこにも置かれてない高級酒って、そういうことか」
それを飲み込めなかったのか、猪飼が眉をひそめて問う。
「どういうこと?」
「駿府自体が金欠になってたんだよ。ちょっと離れた所に行けばお寺にだって置いているお酒がないとか、隣の国からはご馳走が来るのに、地元のお殿様は出していないとか」
江間が人差し指を振って説明すると、三廻部も頷く。
「そう、あたしも文恵と同意見。義元が死んでからずっと放置されたままってことは、かなり長い間不景気だったんだと思う。義元が隠居屋敷を作って尾張に戦争に行ったのがピークで、そのあとは経済が壊滅したって考えると状況が合うから」
「うわ、大変そう……」
久瀬が頭を抱える。何とも言えない雰囲気が漂うなか、猪飼はなおも反撃を試みる。
「貧乏で遊ぶ余裕もなかったとして、だから何だっていうんだ?」




