04 疑心
耳を疑うかのように首を傾げ、三廻部は彼を見詰めた。『現代語訳 信長公記』をひらひらさせながら、軸屋は尋ねる。
「これって、小説だろう? 書いたのは三廻部さん?」
「現代語に置き換えたのはあたしだけど、元は違うよ。何でそう考えたの?」
軸屋は拍子抜けしたように顔を横に振って、言葉を続ける。
「詳しいことはよく判らないけど、とにかく滅茶苦茶なんだよ。説明すると……」
軸屋の話はこうだ。桶狭間の戦いを巡る話のうち、前半は圧倒的に織田信長に不利な事柄ばかりが書かれている。家臣と作戦を練るわけでもなく、早朝いきなり出陣。途中の熱田神宮でちょっと景気がよさそうな感じになるが、その後は圧倒的な大兵力の今川軍に向かって、不利な地形から突撃している。まるで勝てる要素がない。
「命令無視で攻撃した味方もやられちゃって、全然統率がとれていない。で、道の両側が深い田んぼ、丘にいるという相手から見たら丸見えの状態で攻めてるじゃん。読んでいて『これは織田信長が死ぬ場面なんだな』と思っていたら」
「ちょ、ちょっと待って。織田信長は死なないから。これがデビュー戦みたいなものだから!」
三廻部がたまらず口を出す。だが軸屋は意に介さない。
「そういう予備知識がなかったから、かえって矛盾が判り易かったのかもな。まあ話を最後まで聞いてくれ」
彼は再び紙をめくって読み上げ始めた。
『急に雨が降ってきて、石・氷を投げ打つように敵の顔に打ち付けた。味方には後ろの方から降り掛かった。沓掛の峠の松の元にある、二抱えも三抱えもあるようなクスノキが、雨で東に倒れた。あまりのことに、熱田大明神の神戦かと言った』
「ここで、いきなりの暴風雨が来る。それも、田んぼの真ん中を一列でぞろぞろ歩いている織田軍のうしろからね。いきなりの突風って、前から来てもこらえられるけど、後ろから煽られたら転ぶだろう? だから『ああここで味方が泥まみれのぐちゃぐちゃになって、織田信長は死ぬのか』って思ってた。で、続きを読むと……」
『空が晴れたのをご覧になって、織田信長は槍を取って大きな声で「さあ、かかれ、かかれ」とおっしゃり、黒煙を立てて攻撃したのを見て、(今川軍は)水をまくったように後ろへくわっと崩れた。弓・鑓・鉄砲・旗などを乱すだけでなく、今川義元の輿(乗り物)も捨てて、崩れて逃げた』
ここまで読み上げて軸屋は肩をすくめる。
「あり得ない。その前までの状況を読むと、今川義元とその軍隊は、ものすごい大軍で丘の上にいて、作戦会議もちゃんとやっている。正面からの強風も、しゃがめば何とかなったはずだろう。その今川軍が、いきなり謎の弱体化。一方では、暴風雨で泥の中に落とされたはずの織田軍、しかも作戦なしの少人数が驚異のパワーアップだよ。一番おかしいのは、雨が降った直後に『黒煙立てて』って。まあそういう勢いだったという表現なんだろうけどさ、泥を跳ね上げたのかよってね」
ここで三廻部が割り込む。
「でもでも、『信長公記』は一応、一級史料として歴史学界でも認められている史料なんだよ。まあ多少は矛盾があるだろうけど、細かいところは大目に見てもいいのでは?」
「いやいや、それはない。明らかに狙ってやっているよ。幼稚だけど。いい? さっき説明したことを念頭に置いて、雨のあとの主語を入れ替えてみるよ」
軸屋は淡々とした様子で、閉じたノートPCの上に紙を裏返し、ポケットから取り出した鉛筆でポイントを書き出す。
○作戦会議をしていない
○圧倒的な少人数で大軍に立ち向かっていた
○前線の砦が陥落して失われていた
○味方を管理できず勝手に攻撃して負けた別働隊がいた
○田んぼのまん中を敵に見下ろされながら移動していた
○足場の悪いところで暴風雨に背後から襲われていた
「まあ大体こんなところかな。信長は『砦の攻略で相手は疲れてるから勝てる』とか言ったと書かれているけど、それは勘違いだってこの本自体に書かれているんだよね。自覚しているかはともかく、この錯覚もマイナス点かな」
○相手が疲れていると誤認していた
彼はこの一項目を加えると、紙をもう一度裏返し、その前に読み上げた部分の人名を入れ替える。
『空が晴れたのをご覧になって、<今川義元>は槍を取って大きな声で「さあ、かかれ、かかれ」とおっしゃり、黒煙を立てて攻撃したのを見て、(<織田軍は>)水をまくったように後ろへくわっと崩れた。弓・鑓・鉄砲・旗などを乱すだけでなく、<織田信長>の輿(乗り物)も捨てて、崩れて逃げた』
「こっちのほうがすっきりする。今川義元からしたら、統率の取れていない奴らだなあとか、何か勘違いして攻撃してきたぞとか、こっちから丸見えの畦道を蟻の行列みたいに歩いてるなあとか思うよね。しかも自分たちより全然人数少ないし。むしろ『何かの罠?』ぐらい身構えるかも。でも、いきなり豪雨と強風がきた。嵐が収まったあとで義元が見たのは、泥だらけで足掻いている織田軍だったはず」
一気に言い終えた軸屋は、紙束を三廻部に差し出した。口をぽかんと開けている彼女に代わって、いつの間にか前に出てきた江間が紙を受け取って読み始める。さっと目を通した江間は、嘆息しながら話をつなげる。
「そうか。軸屋くんが言いたいことが判った。義元は我に返って、すぐに叫ぶでしょうね。それ、かかれ! って。黒煙はともかく、一斉に自分たちに向かって駆け下りてくる大軍を見たら、織田軍はパニックになる。色々なものを捨てて崩れるように逃げ出すのも無理はない、と。確かにそっちが自然よね」
軸屋はニヤリと笑って、嗄れ声でまとめにかかる。
「というわけで、死んだのは織田信長としか思えない。でも、死んでないんだろ?」
はっと我に返った三廻部が答える。
「それは確か。死んだのが今川義元なのは、後の歴史で判ってる」
「ということは、前半の記述を逆にしなければならない」
三廻部は、眩暈を避けるかのように目を閉じた。江間が再び話を受け取る。
「つまり、織田信長が死ななかった事実を取り込むなら、作戦会議もせず、相手より少数でバラバラに攻撃して、敵を誤認して足場の悪い泥田を突っ切って行軍していたのは、今川軍だった……ってこと?」
大きく頷いた軸屋がさらに続ける。
「そう。でも、何でそんな書き換えをしたのかは俺には判らん」
しきりに頷いていた江間が、それを補足し始める。
「私は判る気がする。ストーリーの演出なんだよ。映画でも小説でも割とよく見る安直な手でさ、前半これでもかってくらい主人公を不利にして、後半裏返して意外な勝利に結びつけちゃうってやつ。定番中の定番だね。
「だからこれも、そのまま書いたら、単なる今川軍の失策になって盛り上がらないでしょ。織田軍が勝つのは当たり前だし。だから作者は、前半と後半のどんでん返しをするために暴風雨を用意した。そして、熱田神宮での吉祥を伏線に置いたんでしょうね。一方で、田んぼで虐殺された今川軍の話を削りたくなかったので、丘陵だけど谷間に田んぼがあったと急に説明しているんじゃないかな。ただ、やり方が大雑把ね」
しかし三廻部はまだ納得していない。丸い目を見開き、抵抗を試みる。
「でも……『信長公記』は、本当の出来事だけを正確に書いたと筆者の太田牛一が書いていて、それはあたしも何冊かの本で読んだ記憶がある。今出されている本でも、専門家がみんな根拠にしてるんだよ」
それに対して、江間が首を傾げながら応じる。
「ミコはそう言うけど、これ小説だよ? 改めて読んでみると、この文章ってかなり映像めいてるじゃない。講談みたいな描写だから、区切りのいいところでは、脳内でファンファーレが鳴っちゃう。それに、『天文廿一年壬子五月十九日』なんて、合いの手みたいに三回も入ってる」
話はいつの間にか三廻部と江間との議論になりつつあった。三廻部は、江間の指摘に対して意外な情報を追加する。
「うーん。実は、この天文二十一年というのは間違っているんだよね。この桶狭間の戦いはその八年後の永禄三年」
「何それ。いくら小説でもさ、三回も入れるならちゃんと調べないと!」
江間に強く言われ、頭を抱えてしまった三廻部は何も答えない。江間は現代語訳をさらに確認し続け「こりゃひどい出来だわ」と呟いている。
軸屋は慰めるような口調で締めくくった。
「今川義元がなぜ死んだのか。ノイズは要らないから、もっと信頼性の高いデータだけを見てみたいな。宿題返しで悪いが、何か判ったら教えてくれ」