36 本意
帰りの電車内では、猪飼に説明するための簡単な年表を二人でチェックして作成した。三廻部のPCにメモリーカードをつなぎ、軸屋が解釈部分を拾い上げている。
「しかしまあ、氏真の金欠は相当重症だな。まだこんなにあったのか……」
返事がないのでちらりと見ると、赤い鞄を抱え込んで三廻部がうたたねしていた。軸屋はコントロールパネルやアプリケーション画面を次々に開いて状態をチェックしていく。
「このデジカメ接続は、遍さんがまた何かいじったのか……とりあえず……削除。あとは知らない」
小さくつぶやきながら作業を続けていく。
「で、肝心のブツを入れてと……うん、想定通り。どうせ、久瀬や江間さんも来るだろうから、年表は四枚か」
三廻部のPCを畳むと、それより小型の愛機を取り出して再び作業を進める。段々と目的の駅が近づくにつれ、隣で熟睡モードに入った小柄な肩を見てため息をつくのだった。
「起こすのか……起こすんだよな。怖いな」
◇
その翌日は午前中が校内模試で、それが終わってから猪飼に説明することになった。軸屋と三廻部は一旦学校から離れて、小さなテーブルで珈琲が飲めるパン屋に入る。平日の遅い朝ということで、客はほかにいなかった。雨はすでに上がり、いくぶんか冷ややかな空気がドアから吹き込んでいた。
コピー紙の内容を三廻部に確認してもらっている軸屋は、紙コップの珈琲をテーブルに置くと、思い切り伸びをしながら言う。
「面白かったな。春先のあの頃を思い出したよ」
確認しながら、三廻部が微笑む。今日は髪を下ろし眼鏡を外している学校モードだ。
「毎回、頭が破裂しそうなほど知識を突っ込んでたっけ。今じゃ懐かしいね」
「そういや、最初に行った時から濃い話をしてたな」
「そうだね。あの時から候哉くんは変わらないよね」
「はは、進歩がないとも言う」
短髪を掻いて軸屋が自嘲するのを、軽く睨んで三廻部がたしなめる。
「そういう意味じゃなくて……ほんと、羨ましいよ。あたしはどんな仕事に就くかなんて全然考えてないもん。簿記でもやっとけばいいかなーってぼんやり考えて、経営学部を選んだだけだし。しかも、この期に及んで揺れちゃうし」
「カネを稼ぐのは手段だろう? あの時も言ったと思うけど、そう割り切ってもいいじゃないか。逆に、俺みたいにコーディングしかできない人間のほうが、危ないなってやっぱり思うよ。はたから見るのとは違うさ」
確認を終えた三廻部は年表をファイルケースに入れつつ、視線を落とす。
「でも、猪飼くんに言われちゃったんだよね。趣味としての歴史研究でいいのかって。自己流は相手にされないし、胡散臭いと思われるぞって。だから、自分と同じ史学科に行ってちゃんと勉強したほうがいいって……あのね、一昨日『この話はあとで』って言ってたでしょ。今聞いてもらってもいい? 駄目?」
「聞くよ。俺でよければ」
三廻部はそこで、新聞記事で知った過去の話をかいつまんで伝えた。軸屋はじっと聞いていたが、話し終えた彼女がそっとため息をつくのを見て、静かに訊く。
「歴史の話はよく判らないが、おじいさんと親父さんは自己流だったってことか?」
「うん。おじいちゃんは教師だったけど、高校で数学の先生をしてたし。お父さんは史学科に行ったけど途中でやめちゃった、みたい」
「じゃあ、猪飼が言うのも一理あるのか。親父さん、何でやめたんだ?」
「あたしやお兄ちゃんが生まれるずっと前のことだし、家族の誰も言わなったから判んない」
口を尖らせる三廻部に、相変わらずの物静かな口調で軸屋は語りかける。
「……たとえば、そういう過去のことがなかったとしたら、三廻部さんはどう考えたんだろう? ちょっと想像してみて」
彼女は唇に指を当てながら目を閉じてしばらく考えている。軸屋は外に目をやり、冬の曇天を眺めていた。ややあって、強い口調で彼女が答える。
「……あたしは、調べるなら趣味でいい、と思う。日本史は受験科目にも入れたくないから」
「ふーん、そこまで嫌なのか? 三廻部さんならいい点数とれるだろ?」
「でもね、一五九〇年に天下を統一したのは誰かって問題で『豊臣秀吉』って書かないと正解にならないんだよ。それが嫌い」
「話がよく見えないけど?」
「『豊臣』っていうのは氏なんだよ。秀吉の名字は木下から羽柴に変わってはいるけど、最後まで羽柴なのは変わらないから、本当の正解は『羽柴秀吉』なんだ」
「ふーん。じゃあ、何で『豊臣秀吉』を正解にしてるんだ?」
「江戸時代の軍記ものの影響だろうと思う。当時の人の名前っていくつもあるんだよ。たとえば今川義元だと、『今川』が名字で『源』が氏、『朝臣』が姓。だから格式張った自己紹介をする時は『源義元』か『源朝臣義元』って名乗る」
「ははあ、何となく判った。表記基準が秀吉だけずれてるってことか」
「そう。『豊臣秀吉』で呼ぶなら、織田信長は『平信長』で徳川家康は『源家康』って書かなきゃいけない。でもそっちは不正解になる」
「軍記の影響って大きいんだな」
「そうだね。上杉輝虎を『上杉謙信』、武田晴信を『武田信玄』って教科書で呼んでいるのも軍記がそう書くから。どっちも出家したあとの名前だから、これも変なんだ」
「何だかシステムとして破綻してるなあ。名前の定義からしてグダグダじゃないか」
「うん。『それでずっと来てるから』ってことみたい。でもやっぱり変だよね。そうして、歴史学の中に入っちゃうと、それを変だって言えなくなる気がするんだよね」
三廻部はそう言うと、再び目を閉じて何か考えていた。軸屋が黙って待っていると、胸の前で拳を握り、強い口調で断言する。
「善し! 話してすっきりした。やっぱりあたしは、史学科には行かない。邪道といわれたって、あたしは史料を解釈する時に妥協したくない」
「調子が戻ってきたな。三廻部さんらしい」
「自分の気持ちをちゃんと受け止めれば、単純な問題だったんだね。ありがとう、一緒に考えてくれて」
例の困ったような笑顔を浮かべる彼女に、彼もまた口の端を少し上げるだけのゆるい笑みを返した。
そして二人は、頃合いということで店を出て学校に向かった。その道すがら、屈託がなくなった三廻部は、古文書話を弾丸のように喋っている。それを黙って聞いている軸屋もまた、珍しくにこやかな表情を見せていた。




