33 実否
帰路の二人は、早速議論を始めていた。電車を待つ間にも、軸屋が訊く。
「まあ氏真が塩留したかどうかはおいといて、それをよそにも呼びかけたかってのは、どうなんだ?」
「あー、後北条と上杉に誘いかけたって話ね。後北条のほうは証拠なし。結構細かいところまで記録に残すところだから、多分塩留はしなかったんじゃないかな。ちなみに、さっきの文書で氏邦が塩留したのは一五八〇(天正八)年だから、この十三年後」
「じゃあ上杉は?」
「ない……というか、後世の人がいじってる」
「またそれか、確か、なんちゃら姫の時もそうだったよな」
軸屋が渋い顔になったところで電車が到着し、二人は隅の席を確保した。三廻部が、軸屋からデータを受け取ったPCを膝の上に広げ、文書を表示する。
「この頃に今川家が受け取った文書には残っていなくて、上杉家が受けったものだけ残ってる。だから情報が一方的で判らないんだけど、ちょっとこれを見て」
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古文書十七
○原文
雖以直書可申入候、両三度不預御返答候、不審之処ニ、書礼慮外之由、於其国御存分之由承及候、更一両年以来相違之儀無之候、但自然御存分有之者、可認置候、[不可有略儀候、]諸事相紛処、[惣別遠路]不可過御計量旨被成取、進退之義、弥御馳走其方任置候、委細当口之模様大石可為口説候、恐々謹言、
永禄十年ノ状也、
九月三日 氏真
山吉孫次郎殿
戦国遺文今川氏編二一四三「今川氏真書状写」(歴代古案一)
●解釈
A そのまま読んだもの
直接の書状でご連絡したのに、三度にわたってご返答をいただけなかった。不審に思っていたところ、書式がよくないとのこと、その国でお考えと承った。一両年以来さらなる相違はない。もしお考えがあれば連絡いただきたい。粗略に思ってのことではなく、諸事に取り紛れてのところだ。総じて遠距離なのでご推量いただき、取り成しをお願いしたい。進退のこと、ますますのご奔走をあなたにお任せする。こちら方面の詳細は大石が口頭でご説明するだろう。
B 追記されたもの([]内)を除外
直接の書状でご連絡したのに、三度にわたってご返答をいただけなかった。不審に思っていたところ、書式がよくないとのこと、その国でお考えと承った。一両年以来さらなる相違はない。もしお考えがあれば連絡いただきたい。諸事お取り込みのところだが、ご推量いただき、取り成しをお願いしたい。進退のこと、ますますのご奔走をあなたにお任せする。こちら方面の詳細は大石が口頭でご説明するだろう。
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少し興味をそそられたように文面を何度も読み返しながら、軸屋が尋ねる。
「これは、氏真は返事してもらえなかった、ってことか?」
「文面を見るとそう。上杉輝虎に三回も書状を送ったのに無視されてて、輝虎の部下に訊いたら『書式が駄目』と言われちゃった、そういう風に見えるだろうね」
「いや、駄目なら駄目で連絡してくれよって感じだな」
「まあそうなんだけど。ただそれって、改変された上っ面なんだよね。ここ、『永禄十年ノ状也』ってあるのは、編集した人間が書き足したものなんだよ。だからこれは『氏真が塩留を何度も誘ってきたけど、書式を理由に返事もしなかった』ってストーリーを組み立てたくて、いじったんじゃないかなあ」
「永禄一〇年じゃないのか?」
「出てくる人の名前で判るよ。間を取り次いだ『大石』というのは、大石芳綱という人。宛先の『山吉孫次郎』は山吉豊守。どっちも、永禄一二年以降に窓口として出てくるんだ」
「永禄一二年だと、例の伏兵の頃か。じゃあもう戦争状態だった?」
「そう。それに、AとBを見比べてほしいんだけど、[]でくくった変更部分を入れると、氏真が忙しくて礼儀を欠いたり、遠距離だからあれこれ遅れたって文章になるでしょう?」
「あ、ほんとだ」
「明らかに意図的に変えてるんだよ。だからこの文書は証拠にはならない。むしろ、直接の証拠がないからこんな改変をしているともいえるかな」
「またか。江戸時代の人間、あれこれいじり過ぎだろ」
「江戸時代って戦争がもうなかったから、武家は戦国時代の遺族年金でずっと生活していたようなものなのね。だから、少しでも先祖の武功を豪華にしておく動機があったんだよ」
「それなりに事情はあったってことか。で、上杉とのやり取りで確実そうな証拠は?」
「この頃と思われるものだと、ほかに氏真が一通、その部下達の書状が三通ある。でも、どれも塩留については一切書いていない。この順番は通説だとちょっと変なので並び替えてみた」
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古文書十八
宗是(氏真の部下)から今林寺(越後の寺)へ
●解釈
ご上洛以後はご連絡せず、思いもかけないことです。さて、屋形より書状を使って申し入れられました。はたまた、尾崎方へのご書状、当地で拝見しました。あのご縁をご調整するようにとの仰せ、もっともに思います。このお返事は、家老の誰か一人が書状で申し入れられるでしょう。とりわけ、貴国と相模国・甲斐国との和睦のご下命があると噂に聞きました。事実なら、当国を証人にするよう、ご奔走いただければ祝着です。詳しい状況は永順に申し含めましたので、省略します。この趣旨をご披露下さい。
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古文書十九
氏真から輝虎へ
●解釈
親である義元以来の筋目により、折り入ってのご使僧、祝着です。特に今後は格別にご協議いただけるとのこと。論ずるまでもありません。さらに朝比奈備中守・三浦次郎左衛門尉が申します。
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古文書二十
朝比奈泰朝・三浦氏満(氏真の部下)から直江大和守・柿崎和泉守(輝虎の部下)へ
●解釈
折り入って申し入れようとしたところ、こちらの使者にご使者を添えていただいたので、ご挨拶します。甲斐国の新造が帰国する件。氏康父子が仲介を申し出たところ、氏真の起請文がないのは覚悟がないからだ、と信玄が言い放ったので、捨て置くこともできずその要望に応じました。要明寺をお送りいただいた時分に、相互に抜け駆けはしないと堅く合意していますから、ありようのまま申します。このようであるとはいえ、信玄が裏切ったならばすぐにお知らせしましょう。詳しくは遊雲斎が申します。
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古文書二十一
永順(氏真の部下)から直江大和守・柿崎和泉守へ
●解釈
昨年末に使者として下向したところ、色々とご親切なご対応をいただき、かたじけなく思います。お知らせいただいた案件をすぐ披露したところ、三浦次郎左衛門尉・朝比奈備中守がありようをお伝えしました。このようであるとはいえ、信玄の裏切りはもうじきでしょうから、そうなったら、先の筋目の通りに状況をご連絡するでしょう。はたまた、貴国に甲斐から陰謀の書状などがあれば、急いでお知らせいただくのがもっともに思います。
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画面をじっと見ていた軸屋は首をひねる。
「全体的に、上杉からアプローチして、今川がそれに乗っかったように見えるが……」
三廻部の顔がぱっと輝き、興奮したような口調で答える。
「そうそう。ほんと、そうなんだよ。使者を何度も送っているのって上杉なんだよね」
「三廻部さんが順番を入れ替えたってのは?」
「うん、この順番って、今川と武田の仲が悪くなるのに合わせてみたんだ。最初の宗是書状では『上杉が武田・後北条と和睦したいなら仲介します』って言ってて、まだ仲は悪くない。で、氏真の正式な挨拶が入ってるんだけど、そのあとの二通では、武田はもう敵国扱いに近いでしょ」
「この、部下が連名で書いてる書状に『相互に抜け駆けはしない』と書いてるけど、これって塩留の話じゃないよな」
「続けて『ありようのまま申します』って書いてるし、情報共有の合意でしょうね」
「とすると、氏真が塩留をよそに呼びかけたって話、証拠なしだな。書状の流れから考えたら、むしろ上杉が呼びかけたってほうが確率が高い気がする」
軸屋が話をまとめると、三廻部は頷くように顎を引いてそのまま考え込む。と、そこで軸屋が停車駅を見て、慌てて席を立つ。
「やばい、降りないと!」
駅前のロータリーでも、三廻部が重い表情で考え込んでいるのは変わらなかった。バス待ちに付き合いながら、軸屋は試しに話を振ってみる。
「その、のちのち今川を攻めた武田は、同盟を捨てて攻めた理由を何て言ってるんだ?」
三廻部はふっと表情を和らげて軸屋を見る。
「氏真が、上杉と組んで自分を挟み撃ちにしようとしたからだって」
「塩留されたからってのは言わずに?」
「うん。挟み撃ちにされるって思って、徳川と連絡して先制攻撃をしかけたみたい。まあ上杉・今川のあの書状のやり取りを、どこかで嗅ぎつけたんだろうなって思うよ」
「氏真は、徳川と組まれるかもって判ってたんだろうか?」
「判ってたと思う。武田が、織田・徳川とつながっているのはずっと疑ってたみたいだし。晴信が『自分は氏真に疑われてるんじゃないか』ってあれこれ気を揉んでいる文書も残っているから」
「ところで、徳川さんちって塩はとれるの?」
「あ、そっちの話があるか。とれるよ。この八年あとの天正三年に、三河の塩商人の規定がある。うん、そうだね。確かに、塩留したら武田が徳川とつながるのはかなり予想できるだろうね。そもそも、北の越後は冬の間雪で通行が難しい上に、当時は戦争してた。武田からしたら、もっと条件のいい徳川に声をかけちゃうよね」
「とすると、氏真の行動が変じゃないか? 塩留をすれば武田と徳川がつながって、両方から攻められるってことだろ。迎え撃つ準備はしてたの?」
「徳川とはずっと戦ってるから、遠江はそれなりに善戦してるんだけど、駿河では武田には全く備えてなかったっぽい。一応途中まで迎え撃ちにいこうとしてるけど、あっという間に掛川まで逃げる羽目になってる」
「嫌がらせの塩留で挑発しておいて、相手が殴りにくると驚くみたいな?」
「そうなるね。でも、そこまで迂闊だったのかなあ」
「それは判らないけど、結果としてそういう間抜けになった可能性はあるだろ。証拠がある以上は、塩留があった前提でも推測しないと」
「うーん。でも、全体の状況を見ると疑問は残るんだよねえ。文恵じゃないけど、この騒動で一番得した人間と、損した人間をまとめてみたんだけど……」
三廻部はそう言うと、鞄からノートを取り出して開く。
今川:大損。武田・徳川に両面で攻められて国を失う。
後北条:損。武田を敵にして長期間戦う。上杉と和睦して関東も一部失う。
武田:得。駿河を得たが後北条・徳川・織田を敵にしてしまう。
徳川:得。遠江を得たが武田を敵にしてしまう。
上杉:大得。内乱を抱えて八方塞がりだったのが、越中・関東への影響力も含めて回復。
「これは……単純に、今川が上杉に騙されたんじゃないのか?」
「そう見えちゃうよねえ。やっぱり変」
三廻部はそう呟くと、眼差しを上げて問いかける。
「ねえ候哉くん、明日も付き合ってもらっていい?」
「俺は別にいいけど、本当に受験は大丈夫なのか?」
「この問題に決着がつかないと出願できないから。だからお願い」
「判った。それより、もう三本もバスを見送ってるから、いい加減乗ってくれ」




