31 邪道ナキ大将
猪飼から調査提案のあった翌日、軸屋と三廻部は電車で都心に向かっていた。平日の少し遅い時刻ということもあり、電車は空いている。二人はきちんと並んで座り、向かいの車窓を流れる景色を見入っていた。
軸屋はいつも通りのカッターシャツにジーンズ、よれよれのロングコートにトートバッグだった。三廻部の方はジャンパーに作業ベストと釣り用ズボンで、髪は髷のように頭上で立たせている臨戦態勢。そしてお馴染みの赤い巨大鞄を膝に抱えていた。座席に座るなり、眼鏡の弦に輪ゴムを巻きつけている。
やがて軸屋が前を向いたまま口を開く。
「で、刀を見に行くのか?」
三廻部も顔を動かさず、輪ゴムを巻きながらのんびりと答える。
「図書館に決まってるじゃない。刀を見たって何も判らないよ」
「まあそれもそうだ。で、例のでかい図書館か?」
「うん。久しぶりだね」
ここで軸屋が目線を隣に移した。相手の顔色を観察しながら、
「昨日、しんちゃん・ミコちゃんって呼び合ってたのって、昔の?」
と尋ねた。輪ゴムの滑り止めを装備した眼鏡を付けながら、三廻部も視線を返す。
「気づいた? そう。この間、猪飼くんと昔の話をしちゃって。それでちょっと前に戻った感じ」
「幼馴染みたいなもんか」
「そうだね。小学校からの付き合いだから」
「猪飼は前に、ついていけないくらい三廻部さんが知識をため込んでいったとか言ってたけど、二人はアプローチが違うのか?」
「あたしの知識なんて、大したことないよ。猪飼くん、史料を読むのが苦手なのよね。で、通史しか見ない」
「つうし?」
と軸屋が訊くと、それまでは慎重に言葉を選んでいた三廻部の口調が変わった。肩口を彼に向け、身を乗り出して語りだす。
「現代の専門家が、文章として流れをまとめたやつ。物語になったものって考えてもらえばいいかな。しかも、猪飼くんの場合、軍記をそのまま使ってるようなのばっかり読んでるんだよ。あたし達がやってたみたいな、史料解釈から積み上げたものとは違うの」
唐突な変化に戸惑いながら、軸屋が尋ねる。
「俺も史料を読めるわけじゃないから、猪飼と似たようなもんか」
「候哉くんは違うよ。だって、元になる史料がしっかりしてないと納得しないでしょ?」
「ん? じゃあたとえば、猪飼は元データは気にしないのか? ソースを見ない感じ?」
「通史や軍記は、出典がないのものがほとんどだよ。あたしからしたら、出典を確認したいから、書いてくれたら嬉しいんだけど……猪飼くんの世界は、史料を完全無視してはいないけど、元の根拠は疑わない。軍記・通史を書いた人がちゃんと調べただろうってぐらいの認識なの」
ようやく話が飲み込めたらしい軸屋は、視線を車外に戻しながら尋ねる。
「だけど、何で猪飼に例の原稿を見せたんだ?」
「駄目だったかな……」
「いや、うーん。駄目とかじゃないけど、見せるんだったらむしろ歴史に詳しくない人達かと思ってたから」
三廻部は小さく「だよね」と呟いて少し考えているようだったが、ずっと軸屋に向けている視線を変えず、今度は口調を抑えて話す。
「事情があるんだけど、そこはまた改めて。とりあえず、猪飼くんとは長い付き合いだし、ちゃんと読んでくれるかなって……でも、昨日はいい加減イラっとしたわ。ちゃんと調べろよって」
「ちょっと怖いぞ、その言い方」
「だって。今川氏真が、親の仇も忘れて遊んでたっていまだに言うんだもん」
「情報が少なすぎて、三廻部さんが怒っている理由が判らない」
「義元が死んだあとも、三河は今川が持っていたんだよ。織田は攻めて来なかったし」
「うん。そんな話をしたような覚えがある」
「で、三河を失ったのは松平元康、のちの徳川家康がいきなり裏切ったからなのね」
「『そんな時代』ってやつだな」
「でもね、それが江戸時代の人は許せなかったんだよ。あの時代だと、裏切りは絶対駄目っていう世の中になってたから。だから将軍様の初代が、そんな裏切りをしたとは認められなかったってわけ」
「大変だなあ。でも、今はもう江戸時代じゃないだろ。変な配慮は要らないはずだ」
「そう。だから当時の史料を、当時の価値観で見ればいい。裏切りなんて、されたほうが間抜けって世の中だったんだから。元康もあっけらかんと裏切ってる」
「ふむ。確かにそっちのほうがリアルな感じがする」
「でも江戸時代の、氏真が遊んでいて頼りないから、仕方がなくて裏切ってしまった。氏真が悪い……ってのをまだ言ってるなんて、猪飼くんちょっとおかしい」
「氏真って、親父が死んだあとに張り切ってフォローしてなかったっけ?」
「そう。だから義元がどう死んだかがうっすらでも判ったでしょ。あのあとも、頑張ってあれこれ文書を発行しまくってるんだよね」
「それでもうまく行かなかったのか?」
「そうだね。それが今回調べようとしている、塩留の件。武田の跡継ぎが微妙だった話は昨日したけど、内容覚えてる?」
「ええと、長男に娘しかいなかったってやつだっけ」
「そうそう。それで、武田の長男が反抗しようとして閉じ込められちゃうの。で、自殺したのか殺されたのか、死んでしまう」
「うわ、相変わらずダイレクトな世界だ」
「それで、氏真が『嫁に出した妹を返してくれ』って言うんだよ。これは同時代史料でも確認できてる」
「まあ、そう言うだろうなあ。でも、それだと同盟がなくなるのでは?」
「うん、結婚がベースの同盟だからね。当時もそれは問題になったようで武田が渋るの。で、三国同盟の残りの家である後北条が仲裁して、起請文、神様に誓う文書を交わして、同盟を維持しつつ、妹を実家に帰すのね」
「それは、史料で確認できるのか?」
「できる。甲斐から駿河に里帰りする元嫁を、一旦後北条が預かったのも判る」
「で、それが何で塩留になるの?」
「武田の態度が悪いってことで、駿河から甲斐への塩を禁輸したってことみたい。ここら辺はあたしもちゃんと調べてないから、今日調べるんだ」
◇
平日だったが、意外と調べ物をしている人は多く、館内はそれなりに混んでいた。午前中の作業が長引き、二人が食堂に入ったのは午後二時を過ぎてのことだった。
「ごめんね。文字入力までさせちゃって……」
そう言いつつうどんをすする三廻部は、眼鏡を思い切り曇らせている。日替わり定食のハンバーグをつついている軸屋は、首を回してほぐしながら答える。
「気にすんな。俺だって暇だったし」
「本当はコピーだけ取って、あとで入力しようと思ったんだけど」
「手が空いてるなら並行してデータ化したほうがいいだろ」
「うん。おかげで塩留の根拠がほぼ把握できたよ。塩留伝説の出処はここだね」
丼から少し距離を開けつつ、三廻部がノートPC画面を見せる。
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『上杉御家年譜』 永禄一〇年
○原文
武田信玄嫡子太郎義信ノ内室ヲ駿府ヘ帰シ送ラル 此内室ハ今川義元ノ息女ニテ氏真ノ姉也 窃ニ其子細ヲ尋ルニ 去ル永禄辛酉ノ季秋 川中島一戦ノ事ニヨリ 信玄義信父子ノ間不和ニシテ 義信終ニ殺害セラル 内室帰国ノ後駿河ヨリ遺趣ニヤアリケン 甲府ヘ塩留ヲナス 其上氏康ハ氏真ノ聟タルニ依テ 小田原ニ内議ヲ通シ 相州 武州ヨリ 西上野ヘノ塩ヲ留 甲州 信州 西上州塩留有ケレハ 三箇国ノ諸民困苦ニ及フ 越後ヘモ氏真ヨリ飛使ヲ以テ塩権ノ義ヲ頼マレケレ共 管領ノ思シ召シニハ 信玄所領ニ塩留ヲセハ 万民ノ辛酸尋常ニアルヘカラス 氏真ノ手段尤浅薄ナリ 今爰ニ於テ仁道ヲ背カハ 末代ノ臭声ノカレ難シ 信玄ト弓矢ハ棄ヘカラス 塩権ノ義何ソ敢テ承引センヤ 蔵田五郎左衛門ヲ召テ 前々ノ如ク信玄領地ヘ塩ヲ可入トナリ 敵国ノ諸民大ニ悦ヒ 仁政ノ遍キ事ヲ仰キ 邪道ナキ大将ト称シ奉ル
●解釈
武田晴信は、跡継ぎである太郎義信の妻を駿府へ帰した。この妻は今川義元の娘で氏真の姉である。密かにその詳細を尋ねると、永禄四年の秋、川中島一戦のことから、信玄と義信父子の関係が悪化、義信はついに殺害されたという。妻が帰国したあと、遺恨によるものか、駿河国から甲府へ塩留をした。その上、氏真は北条氏康の聟だから小田原にこっそり依頼し、相模国・武蔵国から上野国への塩を留めた。甲斐国・信濃国・上野国西部は塩留され、三ヶ国の諸民は困苦した。越後国も氏真から飛脚が来て塩留を頼まれたが、上杉輝虎のお考えは「晴信の所領に塩留をしたら、万民の辛酸は尋常ではないだろう。氏真の作戦はとても浅薄である。今ここで仁道に背けば、末代の悪名は逃れがたい。晴信との戦いは続けるが、塩留はどうにも承認できない」。そして蔵田五郎左衛門を呼び、前々のように晴信の領地ヘ塩を入れよと命じた。敵国の諸民は大いに喜び、仁政が広く及んでいることを仰ぎ見て「邪道なき大将」とお呼びした。
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味噌汁の椀ごしにじっと見ている軸屋に、三廻部が説明する。
「これは江戸時代になって書かれた上杉家の記録」
「具体的には、いつのものなんだ?」
「一六九六(元禄九)年五月に成立したらしいから、塩留があったとされる一五六七(永禄一〇)年からは一二九年後になるね。結構時間が経ってる」
「例によって当てにならないな」
「そうだね。これって、江戸時代の上杉家が、自分の家をかっこよく見せようとしてる感じがする。細かいところだけど、氏真の妹が『姉』になってるから、あんまり厳密に調べてないだろうし」
「ただ、猪飼はもっと史料があるって言ってたけど?」
「リアルタイムのものは、これだと思う。確かにそれっぽいの」
三廻部はそう言うと、画面に一通の古文書を表示した……。




