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30 塩留

 猪飼の話を聞いて、軸屋はつまらなそうに続きを促す。

「それで?」

「それで……って、聞いてなかったの? 今川軍が略奪に出ている間に、義元が討たれたって、記録に書かれてるんだよ」

「それはいつ誰が書いたものなんだ?」

「一五八六(天正一四)年、高坂昌信(こうさかまさのぶ)が書いたものがあって、それを小幡憲景(おばたのりかげ)が最終的にまとめたものだよ」

軸屋は気のない調子でさらに問いかける。

「何だかややこしそうだから結論だけ聞くが、その最終的にまとめたものが仕上がったのはいつなんだ?」

猪飼はノートをめくり返して確認していたが、すぐに見付けられたようで確答する。

「原本はないんだけど、写本が一六二一(元和七)年に確認されているね」

「判った。で、義元が死んだのはいつだっけ?」

三廻部が呆れたように答える。

「そこは忘れないでよ。一五六〇(永禄三)年五月一九日。これは間違いない」

「すまん、暗記は苦手なんだ。まあとりあえず、これは却下だな。六十年あとの本に何の信憑性があるんだ?」

これに猪飼が気色ばんで少し声を大きくする。

「だから、高坂昌信は同時代の人だよ。その人が書いているんだから問題ない」

「そいつは義元の死に立ち会ったのか?」

「それは……多分、違う。昌信は信濃の北のほうの地域を担当してたから。でも、事実を知っている誰かから話は聞いたはず」

「じゃあ、誰から聞いたか書いてるのか?」

「そこは抜けてしまってるけど、嘘を書くはずがないだろう」

「猪飼がそう思うってだけだろ。却下だ」

「判らないじゃないか、それこそ。本当に居合わせた人に話を聞いたかもしれない。僕は納得がいかない」

「いいか、猪飼。俺がプログラムを書いててよく出くわすのが『根拠のない思い込み』のデータだ。これはたちが悪くてな。『多分こうだ』って決めつけてるだけで、根拠がない。でもいつの間にかそれが仕様になっちまうことがある。たとえば『引数が必ず二五六以内になるはず』って勝手に考えて組み立てると、その上に組まれたものは全てその仕様で動作する。だが、実際に業務で使われると、あっという間に例外処理でバグが出るんだよ。引数が二五六以内になるなんて、設計者の幻想だから。だから、二五六以内になる根拠が明確でないなら、そう決めつけてはいけないんだ。根拠のないデータに意味はない」

「プログラムと歴史解釈は別だよ。残された情報が限られているし、どれが残されたか判らない以上は、全てを一旦取り込まないと」

必死に言い募る猪飼に、軸屋は一旦頷いてみせる。

「俺は詳しくないから、そんなもんかもな。それでもなあ……何だっけ、『信長公記』だっけ。その与太話に飲み込まれて、専門家の先生達も未だに結論が出ていなかったんじゃないか。その挙げ句にもっと遠いデータを持ってきて『略奪に夢中で大将を討たれた』って、はたから見ていて変だぞ?」

「じゃあどうしろって言うんだよ?」

「三廻部さんのように、最も信頼できるデータだけを使って組み立てるのが第一歩だと思う」

ここで三廻部の顔がぱっと輝く。それまでの大人しい雰囲気が一変したような明るい笑顔だった。

「そうだよね。うんうん。確認できる史料は大事だよ。でもまあ、そっちに気づかせてくれたのは候哉くんだけどね」

一方の猪飼は渋い顔で、なおも食い下がる。

「軸屋の考え方が違うのは判った。でも、明確に否定できる根拠がない限り、引っ込めないのが僕の主義だ。圧倒的な兵力に油断して、略奪のために散ったのは充分あり得ると思うよ」

そんな猪飼に、今度は三廻部が軽く首をかしげて意見する。

「うーんと。それもおかしいよ。この時点で沓掛・鳴海・大高が今川方なのは確実なんじゃなかったっけ? 義元は自分の領地の中で全員が盛大に略奪するのを、黙って見ているわけがないでしょ」

「そ、それは……義元は敵地で討たれたんだ」

たじろいで答える猪飼に、三廻部はさらに突っ込む。

「敵地って、どこ?」

「う……だから、あの周辺はもう織田が制圧してて。そうだ、だって、鳴海と大高には織田が付け城を築いて包囲してたじゃないか?」

「包囲してたって、出所の怪しい『信長公記首巻』が言ってるだけだけどね。まあいいや、じゃあその危ない敵地で、一人取り残された義元が、のんびりお坊さんと酒盛りするって、変じゃない?」

「それは義元が油断して……」

「しんちゃん、ちゃんとあたしの原稿を読んだでしょ。義元はこの前の年の九月からこの作戦をずっとやってて、自分たちがそんなに有利じゃないのは判ってたんだよ。油断なんてするわけないじゃない」

敢然と言い切る彼女を見て、久瀬が小さく「しんちゃん?」と眉を寄せた。


 うしろから撃たれた形になり、がっくりと肩を落とした猪飼を、軸屋が慰める。

「これは筋が悪かっただけで、たまたまそういう事例なのかもしれない。お前はお前で調べればいいさ」

「軸屋……ありがとう」

 猪飼が感謝して和むその横で、久瀬が再び軸屋を小突く。

「おい、ちゃんと敵に塩を送れよ!」

それに軸屋がむっとして答える。

「お前、今日は変だぞ。あと、『塩』とか意味判らん」

「『敵に塩を送る』って知らないのか?」

「敵に塩を撒いて追い払うのか?」

「いやいや、さすがの俺でも知ってるぞ。弱っている敵に塩をすり込むんだよ」

「何だそれは、送られた塩を敵が自分にすり込むのか?」

二人の迷走に猪飼が口を挟む。

「意味が違うし、そもそも、これは戦国時代に実際にあった話が起源だよ」

「え……そうなの?」

毒気を抜かれた久瀬の横を抜けて、猪飼は書棚から国語辞典を持ってくる。


●大辞林


<敵が苦しんでいる時に、かえってその苦境を救う。〔上杉謙信が、今川・北条の塩止めで苦しんでいる武田信玄に塩を送ったという逸話から〕>


●大辞泉


<《戦国時代、上杉謙信が、敵将武田信玄の領国の甲斐が塩の不足に苦しんでいるのを知り、塩を送らせた故事から》敵の弱みにつけこまず、逆にその苦境から救う。>


 これらを読み上げたあとで、猪飼は自身の説明を始める。

「今川氏真、といっても判らないかも知れないけど、戦国時代に今の静岡県を治めていた、父の仇も取らずに遊び狂っていた大名がいてね」

「氏真って、あれか、義元の息子か」

「ああ、いたなあ。借金背負わされたやつ」

久瀬と軸屋がすぐに応じたのを見て、猪飼は意外そうに眉を上げ、三廻部は嬉しそうに微笑んだ。軸屋がさらに突っ込んで、

「氏真っていうと、武田と微妙な関係だったんだろ。その関係か?」

と促す。猪飼はぽかんとしたままだったので、三廻部が答える。

「うん。武田晴信との同盟を気にした義元が無茶をして、それで亡くなったのが鳴海原の話だけど、これはその後日談。跡継ぎ問題で揉めた武田家は、氏真の妹が嫁いでた長男を廃嫡、跡継ぎ候補から外して閉じ込めちゃうのね。それで揉め出して、氏真は静岡から山梨へ塩を送らないようにしちゃうんだ」

「ああ、山梨は海がないから」

「そう。でもそれで困るのって住民もでしょ? で、新潟の上杉輝虎にも氏真が『一緒に塩を止めよう』って誘うんだけど、輝虎は人道的な観点からそれは応じなかったって話」

「へえ。そんなのあり得るのか? あの時代ってそんなに甘くなかったと思うけど」

「うん……あたしも嘘っぽいと思う」

ここでようやく我に返った猪飼が答える。

「この美談は実話だよ。あとから作られた話じゃない。あ、そうだ」

彼は三廻部に声をかける。

「軍記ものと同時代の史料が適合するいい例じゃないか、これを軸屋に判断してもらおう」

「俺が判断って?」

「僕が調べようとしている軍記の世界って、嘘が多いって言われるんだけど、この話はちゃんと裏がとれるんだ。ミコちゃんが史料を調べてデータを並べて、それを軸屋が判断して真実に近づける、この方法で、軍記の信憑性が高いのを納得してもらうのが一番だと思う」

「……ミコちゃん?」

目を丸くする久瀬に向かって、少しごまかすように猪飼が言い立てる。

「軍記の情報を全て切り捨てるのは正しくない。さっきから言っているように、今よりも昔の江戸時代のほうが、もっと豊富に史料が残されてて、それを軍記作者たちは使っていた可能性がある」

言い切る強い口調に、軸屋が首をかしげる。

「でもなあ、今までの話だと、軍記はデタラメとしか思えなかったけどなあ」

「それは、たまたま今の史料と合わなかっただけだ。この塩の話では違うから、ちゃんと調べてみてよ。東京国立博物館には、この時に武田から上杉に贈られた『塩留めの太刀』が今でもあるから、そっちを見学してもいいんじゃない?」


 軸屋がちらりと三廻部を見やると、彼女は不敵な笑顔で頷き、握りこぶしを胸元に引き寄せている。声には出さなかったが「善し!」と口元が動いたように見えた。

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