29 乱取
いよいよ年の瀬も迫り、周囲が張り詰めた雰囲気で覆われていたある日。出席日数のノルマはクリアしている軸屋は、暇でも持て余したのか、久しぶりに登校していた。電圧を孕んでいるようなピリピリした空気にも無頓着で、欠伸をしながら廊下を歩いている。それでも、江間の脅しが奏功したか、脂ぎって垂れ下がっていた髪は短く刈り上げられていた。ただそれによって目付きの悪さが引き立つことになり、爽やかさとはほど遠く見えた。と、久瀬に呼び止められる。
「候哉、ミコちゃんと何かあったのか?」
ひょろりと長い手を広げ、肩を掴んでくる。それを振り払いながら、
「何だいきなり。そういやお前、推薦だったけど結果はどうだったんだ?」
と軸屋が尋ねると、目鼻立ちのくっきりした顔を急に引き締めた久瀬は、親指を天に突き立ててポーズを決める。
「とりあえず合格した」
「おめでとうさん」
「ありがとな。って、そっちはいいんだ。ミコちゃんだよ、どうしたんだ?」
と、何やら興奮した久瀬の甲高い声で質問されるが、軸屋は困惑するばかりだ。
「どうしたって、何を言ってるのか判らん」
「いや、この頃は猪飼と話してるって、江間さんが不思議がってて。距離をおいてたのに」
「へえ」
「反応薄いな、おい。俺も気になって昨日見てきた。図書室であれこれ話し込んでたぞ。ただ、ミコちゃんは心ここにあらずって感じだな」
「変に思い詰めてるよりいいじゃん」
「うーん。俺から見るとちょっとなあ」
「何の不満があるんだよ」
「候哉と組んで目を輝かせてたのが、忘れられない」
「それはお前の趣味だろ」
「俺は、候哉を推すから! ちょっと来い」
「何のことやら」
呆れ顔の軸屋の腕を取って、久瀬がずんずん進んでいく。
連れて来られた先は図書室で、ちょうど猪飼が入っていくのが見えた。
「猪飼に先越されたか。よーし、行け!」
自分の役目は終わったとばかりに軸屋を押し出す久瀬。
図書室の端の席には三廻部が座っていた。期末試験も終わって三年生はほぼ自習だが、他学年は授業中ということもあり、室内にはほかに誰もいなかった。
「うわっ、何なんだよ」
つんのめって踏み出した軸屋に、少し離れた位置から猪飼が気づく。
「やあ軸屋、お久しぶり」
「おう……」
と言ったきり軸屋は黙ってしまう。久瀬と違って「受験どうだ」といきなり訊けるほど親しくはない。振り向くと、久瀬はドアの影まで下がって覗いている。それを鋭く睨みつけ、つい舌打ちしそうになる軸屋だったが、三廻部の穏やかな声で我に返った。
「候哉くん、お仕事大丈夫?」
視線を戻せば、彼女は落ち着いた様子で笑いかけてきた。眼鏡を外して髪を後ろでまとめた姿で、いつも持ち歩いている赤い巨大鞄を机に載せている。どことなく澄ましたような笑顔で返事を待っている三廻部に、彼は肩をすくめて答える。
「まあ、それなりに忙しかったけど、年明けまでは一段落ってとこだ」
「そうなんだ。お疲れさま」
「ああ」
軸屋がそれきり黙ってしまったので、少し離れて立っていた猪飼が首をかしげる。
「それで……どうしたの?」
「俺にもよく判らな……」
慌てた久瀬が飛び出す。
「よ、三廻部さん元気? 何調べてんの?」
その軽薄な口調に、大きく破顔した三廻部が答える。
「やっぱり久瀬くんも一緒だったんだ。今はね、後北条氏の伝馬朱印をちょっと」
「おー、相変わらず濃いねえ。ゴホージョーのテンマシュインかあ」
にこやかに応じる久瀬に、猪飼が呆れたように突っ込む。
「判ってて言ってんの? そっちこそ相変わらずだねえ」
ぐっと詰まる久瀬を横目に、三廻部が手をぽんと叩く。
「あ、ちょうどよかった。ねえ、候哉くんに訊いてみようよ」
「え? ああ、あの件か。そうだね」
猪飼が頷くと、三廻部は机に置いていた鞄からノートPCを取り出して開き、軸屋を手招きする。
「軸屋先生、漢字がうまく入力できないんですけど……判る?」
猪飼が三廻部の隣にするっと座ってしまったため、軸屋は二人の背後から画面を覗く。
「ここで『薩埵』って入力するんだけど、これを保存してから開くと……ほら、漢字が出ないの」
「ああ、文字コードの問題だな。ちょっといいか?」
軸屋は右手だけ伸ばして、キーボードをひょいひょいと操作しながら説明する。
「デフォルトだとシフトJISで保存しちゃうから、その段階で文字化けするんだよ。保存前に、ここで文字コードをUTF8にしておけば、ほら、大丈夫」
「おー、すごいね! そうかあ、ここか。よかった、これで保存できるよ」
「さすが軸屋だ、ありがとう」
「こんなんでよければいつでも聞いてくれ」
「そうだ、あとね、候哉くんにも聞いてもらいたいことがあって。今、時間大丈夫?」
「ああ。どうした?」
「えっと、猪飼くんに例の原稿を見てもらったんだけど、もっと別の考え方があるんだって。今日はそれを聞かせてもらうんだ。一緒にどう?」
静かな口調で三廻部が説明し、ちらと隣席を見やった。福々しい笑顔で首肯しながら、猪飼は鷹揚に答える。
「いいね、軸屋にも聞いてほしいと僕も思うよ」
三廻部に軸屋、そしてなぜか久瀬も大テーブルに並んで座った。猪飼はその対面に立って、ファイルケースから紙束を取り出す。
「桶狭間合戦に関してのあの調査、僕も驚いたよ。確かに色々な謎は解けたと思う。でもね、同時代史料にこだわらずに、もっと調べる範囲を広げると面白い情報が出てくるんだよ」
そう言って猪飼は紙束を三廻部に返し、次いでファイルケースからノートを取り出して広げた。
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『甲陽軍鑑品第六』
信長廿七の御年、人数七百斗り、義元公人数二萬餘りを卒して出給ふ
于時駿河勢所々乱妨に散たる隙をうかゞひ、味方の真似をして駿河勢に入り交じる
義元は三河の国の僧と路次のかたはらの松原にて酒盛しておはします所へ
信長伐てかゝり終に義元の頸を取り給ふ、
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「これは甲陽軍鑑という武田氏の記録をまとめた軍記ものだけど、今川義元が討たれたことにも触れているんだ。『乱妨』というのは今の言葉でいうと略奪で、この時代の軍勢は多かれ少なかれ大体やっているんだよね。これに味方が夢中になっている間に、あろうことか大将の義元が討たれてしまった。織田信長は今川軍の振りをして紛れ込んで、手薄になった時に義元を討った、というものなんだよね」
その字面を、三廻部が真剣な顔で熟読する。軸屋は最初から見てもいないので、久瀬にこづかれた。
「何だよ、痛いぞ」
「お前もちゃんと見ろよ」
「俺が見たって判るわけないだろ。三廻部さんがいるから大丈夫」
そんな小競り合いを横目に、三廻部はノートから顔を上げる。
「確かに、そう書かれてるね」
猪飼は大きく頷く。
「事実がこのままだったとは僕も思わないから、三廻部さんの調査と突き合わせればいい。朝比奈親徳は略奪の途中で、味方に扮した織田軍にいきなり射撃され、負傷してしまったのだ。義元を最後まで守ったという松井宗信は、恐らく義元が討たれた直後に戻って、集結した織田軍に討たれてしまったんだろうと思うよ」
そうして三廻部を見つめ、にっこり笑う。
「なるべく多くの史料を使っているし、専門家にもこの意見を持った人がいる。ね、こういうのが本当の新説なんだよ」




