03 天真
一日おいての週始め。C組の教室では、三廻部が右腕を強く掴まれていた。長い髪をさらりと垂らした級友の江間文恵が睨んでいる。
「顔と首を一緒に拭くな!」
豆絞りの手拭いを片手に、三廻部は眉を思い切り下げて慈悲を乞う。
「ごめん。でも汗かいちゃったし」
確かに、初夏の兆しがある教室は気温が高いようで、級友たちのほとんどはノートや団扇で顔を煽いでいるし、持参した水筒の水をラッパ飲みしている生徒も何人かいた。それでも同級生は手の力を緩めず、強い口調でたしなめる。
「それ、おじさんの拭き方だから」
「ええー。うちじゃみんなこうだよ」
「あんたのとこは男所帯でしょ」
「うーん。確か、お母さんもこうだったと思うけどなあ」
「それは記憶を改造してるんだよ」
「そうなの?」
「とにかく、おじさん臭いことしないで。いい?」
「はあい」
ようやく手を離された三廻部は、不満げな顔をしつつ手拭いを首にかけた。
「だーかーらー、首にひっかけるなって。そもそも何で手拭い? ハンドタオル、この間プレゼントしたよね?」
「あれはまあ、可愛いので大事にとってある。手拭いのほうが、早く乾くし軽くて便利だよ」
級友は太いため息をつくと、手拭いを取り上げて相手の鞄に押し込み、代わりにフワフワした生地のタオルを渡す。
「ほれ、こっち。全く、ちゃんとしてればミコも可愛いんだから、自覚しろ」
「へえい」
「東京の大きい図書館に行ったんでしょ? 周りに呆れられなかった?」
「おお、そうだった。聞いてよ、候哉くんってもうプログラムの仕事してるんだって。すごいよ!」
「コーヤ?」
「五十嵐先生に内緒で教えてもらった。A組の軸屋候哉くん。パソコン持ってる人」
唇に指を当て、ブツブツ言いながら考えていた江間は、ぽんと手を叩いて得心する。
「ああ! ロボか」
「?」
「学校にこっそりパソコンを持ってきてて、暇さえあればいじってんだよね。だから、パソコンがあいつの本体で、人間のほうは、パソコンが自分を運ばせるために使っている機械」
「何それ。そんな変な人じゃないよ。候哉くん、とっても話し易くてね。一緒に行ってくれてよかったよ」
「ふーん……でもさ、なにゆえに下の名前?」
「字がいいから、許可もらった。変体漢文の候文で、疑問系がそのまんま『候哉』なんだよね。ほんと、すごいじゃん!」
「女子高生が『ヘンタイカンブン』とか言うな! ていうか、ロボって髪はボサボサで目つき悪いし声がガラガラだし。あんまり感じよくないじゃない? ただ、何でか知らないけど佑佐と仲いいみたい」
「佑佐って、ああ久瀬くんか。そうなんだ、何だか真逆なコンビで面白いねえ」
「で、結局来週も行くんだ?」
江間がため息混じりに確認すると、三廻部は満面の笑みで大きく頷くのだった。
◇
そしてその次の土曜、駅の改札で軸屋はぼんやり立っていた。あいにくの雨で、朝から暗い日だった。待ち合わせに遅れたのか、慌てて走ってくる子供や、台車を必死に押す配達業者の姿もあるものの、改札前を通り過ぎる人々はまばらで、その表情のほとんどがどんよりしている。
昨夜は軽めのコーディングだけをして、図書館での集中に支障がないように調整したつもりだったが、あれこれあって床に入ったのが深夜二時過ぎ。開館に合わせて設定された八時集合は、彼には少々過酷だった。何回目かのあくびを盛大にしていると、いきなり正面から声をかけられる。
「ずっと手を振ってたのに! 無視しないで! あ、それから、おはよう」
ぎょっとした表情で彼が目を見開く。近づいてくるまでは『子供』かと思っていたが、それは私服の三廻部だった。分厚いレンズの縁が太い眼鏡をかけ、髪を後ろで丸くまとめている。涼し気な水色のブラウスはいいとして、下は作業着みたいな薄茶色のズボンで、これがまたポケット多数の作業着風という格好だった。先週と同じようなカッターシャツにジーンズという軸屋は、何か言おうとして口を開き、迷っているかのように動作を止めた。
「……」
「あ、眼鏡だったから気づかなかった? こっちのほうが楽なの」
「うん。全く判らなかった。考えてみりゃ、その大きな鞄で気づいてもよさそうなもんだけど」
「先週の体験を活かした、あたしの図書館スタイル」
「……とりあえず電車に乗ろう」
そんなやり取りがありつつ、二人は電車に揺られている。強い雨のせいか車内は空いており、少し間隔を開けて座って、各々の作業に没頭していた。
「ねえ、候哉くんが女子になんて呼ばれているか知ってる?」
一区切りついたらしい三廻部が傍らを見て訊く。彼はキー入力を止めることなく短く答える。
「興味ない。どうせオタクとか根暗とかだろ」
「ロボだって」
その言葉に、キーを打つ指が止まった。ぼさぼさの髪の下に見える目が見開かれる。
「……何だそれは?」
「友達が言ってた。本体はそのパソコンで、そこから指示を受けて人間型の機械が動いてるって」
茫洋とした表情だった軸屋は、それを聞くと肩を震わせ笑いだした。
「なるほどな。面白い観察だ。てことは、今の俺達、ロボットと巫女さんか」
その日も図書館内で疾風怒濤の時間を過ごし、またもやぐったりした二人はすぐには電車に乗らず、先週と同じ店でほてった脳を休めていた。
「もう何も考えたくない。今日仕入れた知識を整理するのもしんどい。でも満足」
三廻部が冷たいカップを額に当てて呻く。軸屋のほうは髪をかき乱しながら難しい顔をしている。
「俺もきつい。処理に問題が見つけられたのはよかったが、時間切れのうえ集中力が切れた」
「え、図書館だったから? もしかして図書館は駄目?」
「いや、それはない。寝てる奴もいるけど、集中した人間が周囲にいると考えが進む。何というか、雰囲気的なアドバンテージなのかな。困っちゃいるけど、ここで問題を見つけられたのは収穫だったって思うよ。早めに対応しなかったら、後でバグって大変だっただろうね」
「善し!」
彼女が拳を作って胸元にぐっと寄せる。その声で、隣の席の中年女性が自分達をちらりと見たのに軸屋が気づいた。三廻部は無邪気に言葉を続ける。
「お試しで嫌になって、逃げられたらどうしようって、焦っちゃったよ」
「いや、それはない。けど、来週はどうする?」
「候哉くんとだとやり甲斐あるから、このまま突っ込もうかあ。うーん……ちょっと待って、今それを訊くのはずるいよ。もうヘトヘトだし」
天使のように純真な彼女は頭を抱えて悩みだす。隣の席の中年女性が眉をひそめ睨んでいることに、軸屋が耐えきれなくなってきた。
「『図書館』のことはゆっくり考えるとして、そろそろ出ようか」
帰途、やはり三廻部は熟睡していた。到着駅が近づくと乗客が徐々に減り始め、軸屋は一駅手前でちょいちょいと彼女の肩をつつく。何回か続けるとようやく彼女が目を覚ました。
「そろそろ着くぞ」
「ふあー、ねむーい、ねむう」
ぼんやり前を見ながら、後ろに結んでいた髪をほどく。
「ふいー、楽ちん」
と言いながらうなだれて、なぜかそのまま眠ろうとする三廻部。
「寝起きが悪いな、おい。何だか自由度がどんどん上がってる気がする……」
そう呟いて顔をしかめた軸屋は、慌ててその肩を叩いて尋ねる。
「ちょっと待て、寝るな。そういや、何で後ろに束ねてたんだ?」
「邪魔なの」
話しかけられて渋々顔を上げた彼女はご機嫌が斜めなようで、さらに攻撃的な口調で続ける。
「今日は雨で髪が広がるし、本を見ると下を向くでしょ。前回気づいたんだけど、髪、要らないわ。みんなに言われてちょっと伸ばしてるけど、ほんと邪魔。髪なんてなくても困らない」
鬱憤を抱えているような口調で言い立てる彼女の向かいの席で、頭頂部が心配になりかけた中年男性が睨んできていた。軸屋は肘で彼女の腕を小突く。
「ん? 候哉くんは髪の毛が多いよね。でも邪魔でしょ。頭の薄いおじさんはいいよねー」
彼らの前にいる男性のほか、数人の似た境遇者から視線が刺さる。軸屋は慌てて遮った。
「あのさ、あの、古文書だっけ? 俺も興味が出てきたから、何か教えて」
◇
翌週の月曜。久瀬は呆れたようにコピー紙の束を返す。
「で、こんな小難しいものを読んでるのか」
クリップで綴じられた表書きには『現代語訳 信長公記』と書かれている。軸屋はそれを受け取りつつ、苦笑いする。
「戦国時代を調べているらしいんだが、俺が余りにうとくて呆れ返ってた」
「ああ、お前は本当に覚える気がないよな」
「記憶容量の無駄だから、テストが終わったらバッファをクリアしている。しかし、三廻部さんいわく『ノブナガくらいは覚えろ』とのことだ」
「ゲームもマンガも無縁だしな、お前の場合」
「で『オケハザマくらい読んでおけ』と、日曜に駅まで呼び出されて押し付けられた」
「いいねー、どんどん仲よくなっちゃって。俺らが受験で苦労している隙に、やってくれるなあ」
「そういう関係じゃないさ。しかし、興味のない俺に知識をつけるより、同じC組の猪飼辺りと話せばいいのに。あいつ、そういうの好きだっただろ」
その時、不機嫌そうな声が軸屋の後ろからかけられた。
「あー、猪飼くんとは犬猿の仲なのよね」
軸屋がぎょっとして振り向く一方、久瀬が明るく対応した。
「相変わらず神出鬼没だねえ、江間さんは」
江間文恵と名乗った人物は、背の半ばまで伸ばした長髪で、三廻部と同じくらいの小柄な背丈。姿勢がよく整った顔立ちだったが、強く結ばれた口元が意志の強さを示している。
「ミコ、大喧嘩したから。あいつの名前は出さないほうがいいよ」
久瀬が不思議そうな顔をする。
「猪飼と三廻部さん? そうなんだ。どっちも激突するような性格じゃないだろうに。何で?」
「うーん何でだろう。マニアック過ぎてうちらには理解できなかった。ただ、涙ぐんでむきになっていたのが猪飼くんで、イライラしたミコがぶった切るような展開」
「何というか、いたたまれない感じだな」
「それ以来、お互い無視し合ってるよ。で、軸屋くん」
「はい?」
「ミコはちょっと変なとこあるけど、宜しくね」
「はあ」
「変なことしないように」
そう言い置いて江間はすぐに去っていった。たまたま軸屋たちのいる教室に用事があり、三廻部の名を聞きつけて話しかけたらしい。
「猪飼とやり合ったのかあ。ミコちゃん、のんびりしている感じがするけど。意外と骨があるんだな」
見送った久瀬が肩をすくめて呟く。軸屋がそれにかぶせる。
「そうか? 俺の知っている三廻部さんとはむしろ合致しているけどな。というか、あの江間さんって何者?」
「江間さんは俺と小学校が一緒。中学は別だったんだけど、その頃にミコちゃんと知り合ったらしいよ。江間さんは文芸部でよく本を読んでるからかね、あの二人は仲がいい。性格きつそうに見えるけど……実際ちょっときついかな……。って、お前さあ、本当に校内事情にうとすぎるって」
その日の放課後。非常階段の最上階でノートPCを前にぼーっとしている軸屋がいた。階段を上ってくる軽い足音がして、しばらくすると三廻部がその丸顔を覗かせる。その後ろに、江間の長い黒髪も見える。二人で連れ立って来たらしい。
三廻部が微笑みかけて、遠慮なく尋ねる。
「やっぱりここだった。お悩み中?」
「例外処理の組み込み方が思いつかん……納期はまだ先だからいいけど、うーん。同期する先のシステムが合理的な動きをしていなくて」
「ふーん。候哉くんのプログラムに問題はないんでしょ? 向こうのを変えてもらえば?」
「それができれば苦労はないさ。先方は不合理なシステムを使っている自覚がないし、あっちの処理が判らないから、変えてしまうとどんな不具合が出てくるか判らないんだよ」
三廻部は階段の手すりにもたれかかって、首を傾げる。
「変なの」
「俺もそう思うけど、これまではそれで動いちゃってるから。チェックしようとも思わないんだろ。まあよくある話さ」
軸屋は再び思案に戻ろうとしたが、眉間を揉んで大きくため息をつくと、ノートPCをぱたんと閉じた。
「今日は終了」
「あ、あたし達が来たから? 邪魔だった?」
「いや、もう集中が切れていたんだけど、惰性で考えてただけ。まあ、ちょうどよかったよ」
「ほんと? ならいいんだけど……」
と言いながら、三廻部は上目遣いに彼を窺う。その視線に気づいた軸屋は、ノートPCのケースから例の紙束を取り出してみせる。
「宿題の件か? ざっと読んだよ」
「どうだった?」
三廻部が期待を込めて身を乗り出す。江間は数段下にいて手すりに手を置き、つまらなそうにグラウンドを眺めていた。軸屋は、紙束をペラペラとめくりつつ、断言する。
「書かれた内容がバグってる。もしこれが『歴史』ってやつなら、俺には理解できない」