28 惑説
猪飼信吾が呼び止められたのは、模擬試験の帰り際だった。一緒に来ていた友人達は受験教科の都合で先に帰っており、彼が一人で模試会場を出た時、
「このあと、ちょっと話せる?」
と、うしろから声をかけられた。振り向くと、三廻部のぎこちない笑顔がある。
「いきなりでごめんね。ちょっとでいいんだ」
合格判定の状況とか、今日の出来はどうだったかという雑談を交わしながら、二人で入ったのはチェーン店の喫茶店。間口が広く開放的な店内で隅の席に陣取ることになった。猪飼は下膨れで福々しい顔に、ためらいを浮かべている。向かい合って座った三廻部は、髪を乱暴に引っ詰めている上に分厚い眼鏡をかけていて表情が見えない。猪飼は柔和な口元を引き締めながら、話題を探る。
「そういえば、三廻部先生と、夏の終わりくらいだったかな、お会いしたんだ。その時に、軸屋と一緒に、その、君が調べていることを教えてもらったよ」
三廻部がわずかに顔を上げる。
「そうなんだ……おじいちゃん、どうだった?」
「先生は、ちょっと疲れたような感じだったけど、元気だったよ。それが見納めになっちゃったんだけど」
「お話してくれてありがとう」
「いやこっちこそ、先生に会えてよかったよ。それで、今日はどうしたの?」
胡桃子は目を伏せて、ためらいながら答える。
「おじいちゃんが亡くなって、持っていた本をあたしがもらったの。そしたら……」
と言って彼女は生徒手帳を取り出し、その中から一枚の紙片を取り出した。ビニールケースに入れられたそれを、猪飼に渡す。
「ある本に挟まれてて……」
猪飼が受け取ったものは、古びた新聞記事の切り抜きだった。彼女は神妙な面持ちで説明を加える。
「これ、両親の事故のことなんだけど、あたしも一緒にクルマに乗ってたんだって。全然覚えてなくて……それで……誰からも何も聞いてなくて……猪飼くんのおじさんだったら、昔のことを何か知ってるかなって、思って」
猪飼は少し困った顔になって、切り抜きを彼女に返しながら、ためらうようにゆっくり話す。
「ああ、この記事は知ってるよ。何度も見た」
三廻部の目がレンズの奥で見開かれる。困惑の色が濃く現れていた。猪飼は目を伏せて話を続ける。
「覚えてないんだね。まあ四歳だったらそうだろうね。実は、この間先生と会った時に父さんも一緒だったんだ。それで、その時に父さんがすごく心配してて……」
「え……おじさんも一緒だったの?」
「うん。それで、三廻部さん達に近づくなよって、そのあとに言われた」
「どういうこと?」
「父さんが言ってたことを、そのまま伝えるよ。『先生は誠さんと同じ目をしてる。話してる内容も、普通に歴史を調べてたら笑っちゃうようなことを、真剣に言ってる。これは危ない』って」
すると胡桃子が、手にした珈琲カップを強く掴んで訊く。
「おじいちゃんが、お父さんと同じ目をしてた? どういうこと?」
取り乱す彼女に対して、猪飼は真正面から見返して話しかける。
「ミコちゃん」
それを聞いた胡桃子は目を見開いて一瞬怯む。その気配を感じつつ、猪飼は言葉をつなげる。
「通説とかけ離れたことを考えるのって、怖くない?」
彼女はカップをテーブルに置いて、考えながら答えをつむいでいく。
「まあ……それは思う。おっかないなあって。でも、せっかくおじいちゃんが一緒に調べてくれたんだし」
「先生とミコちゃんの思いも判るけど、それが行き過ぎると……おじさんやおばさんのようなことが……」
「え?」
「それも、聞いてないのか……僕は父さんから何度も聞いたよ。誠さん、あの頃あっちこっちで叩かれてたって。それで、事故を起こしたんだろうって。先生と二人で調べたことが、この町の歴史をひっくり返しそうになってて、観光に影響があるのに何やってんだって、ほうぼうから攻撃されてたんだって」
「うそ……」
「父さんも複雑だったみたい。覚えてないけど、あの頃って、父さんもよくおじさんの車に乗って、あっちこっちの城跡とか行ってたらしくてさ。不安になって少し距離をおいたんだって。それで、中学に上がる時に説明された。『あの事故は、自分も巻き込まれてたかも知れない。胡桃子ちゃんが奇跡的に助かったのだけが救いだが、歴史を変に調べて恐ろしいことも起きる。だから知っておけ』って」
「あたし、聞いてなかった」
「真実を得ようとしてさ、不幸になることに意味があるのかな? 趣味ならそれはそれで、専門家の見解を追うだけでいいじゃないかな?」
「聞いてなかった、あたし」
「それでも歴史を調べるなら、僕と一緒に、どうかな?」
「……しんちゃんと?」
「僕が軍記史料を追うから、色々と補完できると思うよ。厳密な同時代史料にこだわって、専門家の見解を疑うなんて『趣味として楽しむ』ことの域を超えているでしょ。もっと柔軟に考えて、見解を深めることもできると思う」
「趣味……」
「確かに軸屋は鋭いよ。けど、理屈に走りすぎるでしょ。それで孤立して追い詰められるよ、絶対に」
それでも胡桃子は、反論を試みる。
「でもね、この間だってこんな話があったんだよ。専門家の説だって言っても、疑うのは必要だと思う」
そうして、数日前の夜、軸屋と『瀬名姫』の真偽を検討したことを語る。猪飼は目を閉じて聞いていたが、静かに口を開く。
「いや、それはおかしいよ。築山殿が今川氏の出身なのは確かだ」
「え……それは何か史料があるの?」
「史料は失われたんだろうな。息子の信康が廃嫡されてるしさ。ただ、誰かが『言継卿記』を誤読しただけで、あんなにも手広く情報が行く届くとも思えないよ。だってさ、江戸時代のほうが今より史料は多く残されてはずだから」
「まあそれは、そうだと思う。戦争や地震がたくさんあったし……」
「残念なのは、江戸時代の記録を残した人達が『典拠は何か?』をちゃんと書かなかったことかな。それでも、専門家は僕達より何百倍も知識を持っているはずだ。彼らがそんな適当な穴を見逃すはずがない」
「……」
彼女が黙り込んでしまったのを見届けて、猪飼はゆっくり立ち上がる。
「そろそろ、帰ろうよ」
喫茶店を出てから電車で最寄りの駅に到着するまでの間、猪飼は昔話を楽しそうに語っていた。古文書の返字がなかなか読めず、「被」「可」「令」を自宅のトイレに貼って覚えようとし、胡桃子がを見つけて笑ったこと。城跡で空堀に降りて登れなくなった彼女を、遍と猪飼で引っ張り上げたこと。どの武将が強いかで喧嘩になり、何ヶ月も口を利かなくなったこと。
「松平清康の件ではまいっちゃったけど、今思うとあれも、ミコちゃんと僕が視野を変えて話し合えばいろんなことが判るんじゃないかと思うんだ。僕は協栄大の史学科に行く予定だけど、一緒にどうかな? ちょっと考えてみて」
別れ際に猪飼は笑顔で告げる。過去の逸話で思わず微笑んでいた胡桃子だったが、去り際には少し思わしげな表情になっていた。
その日の夜。胡桃子はふらふらと居間に入り、遍に声をかける。
「お兄ちゃん、ちょっといい?」
炬燵に寝転んでカメラをいじっていた遍はふと顔を上げる。
「何だ、入試の悩みか?」
「猪飼くんから聞いたんだけど……」
「『猪飼』って……誰?」
「おじいちゃんの歴史研究会によく来てたでしょ。覚えてない?」
「判んないよ。ほとんど関わってなかったし。城跡は面白いから行ってたけど」
のほほんと返答する兄に、胡桃子は新聞記事の話、猪飼から聞いた話を早口に語る。迷いつつ言葉を選んで語った彼女だったが、落ち着いた兄の反応に驚いた。遍は表情も変えずに頷く。
「ああ、お前さんが乗り合わせて助かったのは知ってるし、『変なことを調べて』って、そういう話があったのも知ってるよ」
「あたしだけ知らなかったの?」
「おばあちゃんが口止めしてた。覚えてないならそれでいい。知ったら余計つらくなるだろうって」
「歴史を調べてて、それでおかしくなったから? だから内緒にしたの?」
「うーん。事故の原因がそれだけとは思えないけど、あの頃ってあっちこっちで喧嘩みたいになってたな。で、お父さんがまいってたのは知ってた。事故のあとで『それ見たことか』みたいな噂が出たのも、多分ご当地の評判を落とす話をしたせいだろうな。それは間違いない」
「お兄ちゃんはそれ、平気だったの?」
「うーん。俺はまあ、起きちゃったことは悲しいけどしようがないなあって。ただ、おじいちゃんはきつかったと思うよ。あと、お前も何か様子が変だったしなあ。それで、おばあちゃんから『もうこの話はするな』って命令が出た」
「おばあちゃんが……」
「おじいちゃんがお前の歴史好きに微妙な顔をしてたのって、この辺の事情があったんだろう。おばあちゃんもあんまりいい顔してなかったし。ただ、やっぱり諦めきれなかったんじゃないかなあ。お前が夏にあれこれ調べたのって、すごく嬉しかったんだろう。で、その猪飼くんは何て言ってきたんだ?」
胡桃子は、猪飼から一緒に史学科に行って、きちんと歴史を調べようと誘われたことを告げた。遍は少し考えてから言う。
「うん。まあ、それも判る。と言いつつ、この間の軸屋くんとの話も面白かったし。お前次第でいいんじゃないか? どうせ、納得が行く方向にしかいかないだろ、お前さんは」
話は終わったとばかりに、再びカメラをいじりだす遍。胡桃子はその傍らに座ると、真剣な表情で尋ねる。
「でも……あたしまで変になっちゃったら、お兄ちゃんだけになっちゃうよ」
「その時はその時だよ。ただまあ、お前さんはまっすぐ過ぎるからな。もうちょっと色々な進路を考えてみてもいいんじゃないか? まだ出願変更は間に合うんだろ?」
「……うん、そうだね。色んな意見を聞いてみたいし、考えてみるよ」




