26 瀬名
居間の炬燵にはノートPCに代わって鍋が乗り、今は香ばしい湯気が立っている。箸を伸ばしながら軸屋が江間に訊く。
「久瀬から聞いたんだろ。で、俺が来ているって当て込んで突撃したってわけだ?」
予備の具材を横に置きながら、江間はにやりと笑った。彼女は制服の上からエプロンを着けて、髪を三つ編みにしている。相変わらずの整った面貌で、こういう状況でも所帯じみた印象を与えない。
「ご馳走したんだから文句は言わない。ほら、お魚がいい感じだよ」
上機嫌な彼女は、そう言いながらアクを取っていた。遍も鱈の切り身を取りながら笑っている。
「いいじゃない、軸屋くん。いきなり夕飯をって、申し訳ないところだけどね。あったまって帰るといい」
軸屋と話して少し穏やかな顔に戻った胡桃子も卓についていたが、あっと言う間に曇ってしまった眼鏡でオロオロし、やむを得ず眼鏡を襟元に引っ掛ける。すると、江間は「襟が伸びるから!」と叱って胡桃子の眼鏡を卓上の隅に避難させた。そうして次に、白菜や豆腐を取り分けて与える。
「さあミコも食べて! 寒さを乗り切るには栄養だよ」
更に、小鉢に山盛りの具材を軸屋にも渡しながら警告する。
「あと、軸屋くんは絶対髪を切ってね。鬱陶しいから」
「前向きに検討する」
「絶対に! 切って! 見苦しいから!」
「……はい」
鍋がひと段落すると、江間が胡桃子に訊く。
「軸屋くんとミコが並ぶと歴史の話ばっかりだけどさ、ほんっとーに、あんたらが話してることって華がないよね。お姫様の物語とかないの?」
胡桃子はかすかに口を尖らせて考え込み、眼鏡を着けた。そして首をかしげて尋ねる。
「文恵が極端なんだよ。お姫様って……まあなくもないけど……瀬名姫とかどう?」
「いいね。名前が何かかっこいい」
「彼女は今川義元の姪で、徳川家康に嫁いだって言われてる、だけど……」
「出た! ヤスくん! 何かこの間の話と重なるねー。プリンスの元に嫁ぐ瀬名姫!」
話に乗ってきた江間だったが、軸屋から物言いが入る。
「いやいや、ちょっと待て。『だけど』って言ってるぞ」
「え、違うの?」
二人に見つめられた胡桃子が、少し遠慮がちに答える。
「家康に奥さんがいたのは、長男・長女が生まれてるから判るんだけど、その母親はよく判んないんだよ。それと『瀬名姫』って名前がちょっと引っかかってて」
「また謎かあ……」
顔をしかめる江間の隣で、今まで黙っていた遍が口を挟む。
「面白いじゃないか。名前って、何が変なんだい?」
「彼女は関口という家に生まれたんだけど、名前が瀬名姫。胡散臭いでしょ?」
同じところを回っているように感じたのか、遍はさらに訊く。
「だから何で?」
「関口も瀬名も、今川の分家が名乗った名字なの。このほかにも、小鹿・堀越・新野っていう分家がいて、それぞれが住んでいる場所を名字にしてるのね。ただ、元が今川とはいえ別の家だから、関口・瀬名は独立した家同士になる」
「ああ、判った。たとえば、田中さんちの娘さんが、親戚だからって佐藤姫って名乗っちゃうようなものかな」
「うん、近い感じ」
「あとからとってつけた伝承だとしても、何でそんな変なことになったんだい?」
「うーん、色々事情があったのかなあ」
兄妹で進んだ話を、ここで軸屋が拾う。
「三廻部さん、データはないの?」
「うーん。あ、そうだ。ちょっと待ってて。瀬名姫が結婚したのと同じ頃に、駿府に滞在してたお公家さんがいたから」
胡桃子は自室に引き返すと、すぐに一冊の本を持ってきた。
「おじいちゃんの部屋にあったやつ。山科言継っていう人の日記で、やっぱり記録が残ってるんだけど……おかしいな」
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『言継卿記』一五五七(弘治三)年一月
○原文
十五日、庚午、天晴、寒嵐、○粥祝有之、次一宮三郎昨夕之礼に来、対面、次由比四郎右兵衛尉礼に来、樽代三十疋持来、対面盃令飲之、次葛山近所より火事、片時に百余間焼失云々、東漸寺之寮社悉焼云々、予、大方、御黒木等へ罷向了、三条へ隼人佑遣之、無殊事、関口刑部少輔、瀬名殿新造、斎藤佐渡守、同弾正等所へ大沢左衛門大夫遣之、次福島八郎左衛門礼に来、樽一、さわら一折三持来、一盞勧了、次城涌検校礼に来、八郎左衛門又来、盃令飲之、及数盃了、次御黒木之妙祐礼に来、樽一、鯛一、持来、令飲盃了、
●解釈
十五日、庚午、晴れ、寒い嵐。粥祝いがあった。一宮三郎が昨夕の礼に来たので対面。由比四郎右兵衛尉が礼に来て、樽代三十疋持って来た。対面して盃を酌み交わす。葛山の近所から火事。あっと言う間に百余軒が焼失したとか。東漸寺の寮社は全て焼けたという。私は、大方(義元の母)、御黒木(言継の継母)を訪ねた。三条へは(部下の)隼人佑を送った。無事だった。関口刑部少輔・瀬名殿新造・斎藤佐渡守・同弾正の所へは大沢左衛門大夫を送った。福島八郎左衛門が礼に来て、樽一つ、サワラ一折を持って来たので、一杯勧めた。城涌検校が礼に来て、八郎左衛門がまた来た。数盃を交わした。御黒木の妙祐が礼に来て、樽一つ、鯛一つを持って来た。盃を酌み交わした。
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「結婚したと言われている日の記録がこれ。でも結婚の話なんてないでしょう? おかしいな……。これだと、葛山という人の近所から火事になった騒動が書かれてる。で、皆で無事を確認し合うんだけど、言継が安否確認に使者を送った人の中にあるのが、関口刑部少輔と、瀬名殿新造」
首をひねっている胡桃子に、江間が尋ねる。
「別々の人ってこと?」
「うん。これ……もしかして『関口刑部少輔の娘の瀬名殿が新造になった』って解釈するのかな……。でもでも、この日記だと、これ以前の記述で『関口刑部少輔』と『瀬名殿新造』は別に登場していて、親子じゃないのは間違いないんだけど」
「え、他人なのに父と娘にされたの?」
遍が驚いて突っ込む横から、江間が胡桃子に質問を投げる。
「新造って何?」
「奥さんって意味で、『新』がついてはいるけど、結構年齢がいっても使われるの。だから、結婚している長さとか年齢は関係なく、基本的に『奥さん』ぐらいに考えてくれればいいかな」
「……」
妹に似た丸い目をさらに丸くしている遍と、話が飲み込めず口元に手を当てて考え込んでいる江間。それを横目に軸屋が切り込んでくる。
「それより、火事で大変だっていう記事を、結婚式と取り違えたりするかな? 妙だろう」
三廻部もこの意外性に動揺しているようで、視線を上に向けて考えつつ答える。
「結婚の記事を書いた人が、飛ばし読みで誤読したとか? 『新造』を新婚の妻ぐらいに考えていて『じゃあこの日に結婚したんだろう』って考えた、としか思えないよね。あたしもちょっとびっくり」
「もしかして、この時代は新妻を『新造』と呼んだ可能性があるとか?」
「改めて言うけど、それはないよ。『新造』って、戦国時代だと老人になっても『しんさう=新造』と呼ばれている人がいて、単純に『奥さん』と捉えていい」
「その、関口なんちゃらと瀬名さんちの奥さんが親子だった可能性は?」
「それもないなあ。前の年の十一月二十八日に、瀬名新造は説明があるのね。初対面だったみたいで、言継は細かく説明を入れてる。この時代の貴族の日記って備忘録が目的だから、そういう書き方をよくするんだよね。で、それが……」
三廻部が画面を示す。
<瀬名女中、号新造、太守之姉、中御門女中妹也>
<瀬名女中=新造と呼ばれる。太守義元の姉で、中御門女中の妹なり>
「『女中』というのは『女房』や『新造』と同じで『奥さん』という意味ね。今と同じように『妻』と呼ばれることもあるけど。で、ここで説明されているのは『瀬名家に嫁いだ女性は今川義元の姉で、中御門宣綱に嫁いだ女性の妹だってこと。年齢順で並べると、中御門女中>瀬名女中>今川義元という兄弟関係」
「ん? ちょっと待て。ってことは、瀬名さんちの奥さんの父親が関口だとすると、今川義元とか、中御門なんちゃらの奥さんの父親ってことにもなるのか……」
「でもそれはあり得ない。義元の父は今川氏親で、かなり前に亡くなってる。これは確実だよ」
「じゃあ、婚礼があったというのは……?」
「史料の読み違い、かなあ。そもそも、言継卿記に徳川家康、おっと、この時代だと徳川家康=松平元康か、この人自体が登場しないんだよねえ。駿府にいたのかも判らない」
「年が若かったからとか?」
「小田原から来ていた北条氏康の子供達は普通に出てくるよ」
「田舎の人は出てこない?」
「元康と同じ松平で、裁判のため駿府に来ていた松平和泉守親乗は何度か出てきてるんだよ。言継と馬が合ったみたいで、鉄炮で撃ち落とした鳥をプレゼントしてたりする。というか、何ならこの前の日にだって一緒にお粥を食べに行ってる」
<一、早旦自住持白粥ニ被呼之間罷向、松平和泉守、同与力両人、隼人、寺僧両三人等相伴也>
<早朝に住職から白粥にお呼ばれしたので向かう。松平和泉守(親乗)とその部下二人、隼人と寺僧三人が相伴になった>
「あー、じゃああれだ。その時の元康は本拠地に帰ってたとか?」
「残念だけど、三月九日に言継が帰京する時、引間、今の浜松に立ち寄るんだけど、その時に『ここの主の飯尾善四郎は三河岡崎の番で留守らしい=当所之飯尾善四郎、三州岡崎之番也、留守云々』と書かれてる。元康の本拠である岡崎には、今川の代官として飯尾善四郎が入ってたとみていいと思うよ」
胡桃子が締めくくると、軸屋がため息をつく。
「まーた、変な伝承かあ。そもそも『関口瀬名姫』の出処ってどこ?」
「多分だけど、一番早いのだと『家忠日記増補追加』かなあ。ちょっと待ってて」
再び胡桃子が自室に引き上げ、猛烈な勢いで帰ってくる。手には数冊の分厚い本が握られている。
「おじいちゃんの本棚はすごいよ、ほんと」
そしてざっとページをめくってとある箇所を皆に見せる。そこには、言継卿記とは全く違う光景が広がっていた……。