第一章・第二章 補遺
□参照文献
「今川義元のすべて」小和田哲男(新人物往来社・1994年)
「今川義元」小和田哲男(ミネルヴァ書房・2004年)
「なごやの鎌倉街道をさがす」池田誠一(風媒社・2007年)
「桶狭間の真実」太田満明(KKベストセラーズ・2007年)
「桶狭間の戦い―景虎の画策と信長の策略―」濵田昭生(東洋出版・2007年)
「今川義元」有光友學(吉川弘文館・2008年)
「新説 桶狭間の合戦」橋場日月(学習研究社・2008年)
「信長四七〇日の闘い」服部徹(風媒社・2008年)
「桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった」藤本正行(洋泉社・2008年)
「愛知県史資料編10 中世3」愛知県史編さん委員会(愛知県・2009年)
「桶狭間 神軍・信長の戦略と実像」江畑英郷(カナリア書房・2009年)
「織田信長という歴史」金子拓(勉誠出版・2009年)
「歴史研究第592号 特別研究 沓掛城の新発見」太田輝夫(歴研・2011年)
「なごやの古道・街道を歩く」池田誠一(風媒社・2012年)
「桶狭間合戦 奇襲の真実」太田輝夫(新人物往来社・2012年)
「『信長記』と信長・秀吉の時代」金子拓(勉誠出版・2012年)
「武田氏研究第47号 一五五〇年代の東美濃・奥三河情勢」小川雄(武田氏研究会・2013年)
「駿河今川氏十代」小和田哲男(戎光祥出版・2015年)
□引用文書
古文書一-------------------------------------------------
○1560(永禄3)年6月10日 比定
尚以御祓并山桃・尉斗五把送給之候、目出度令拝領、
態斗御初尾三十疋令進覧候、尚筆ニも可申入候、
今度就合戦之儀、早々御尋本望存候、義元御討死之上候間、諸勢討捕候事、際限無之候、可有御推量候、就其立願之儀、委細御使与三郎殿江申候、聊不可有相違候、恐々謹言、
六月十日 信盛御書判
福井勘右衛門尉殿 御返報
まいる
戦国遺文今川氏編一五四五「佐久間信盛書状」(古文書集)
この度の合戦について、早々にお尋ねいただき本望です。義元がお討ち死にしたので、諸勢を討ち取ったのは数え切れませんでした。ご推量下さい。その立願については、詳細を与三郎殿に申しました。少しの相違もありませんように。
追伸:更にお祓いと、桃・熨斗五把をお送りいただきまして、めでたく拝領しました。お初物としてカツオ30匹ばかりをお送りします。また後便でも申し入れましょう。
注記
1)古文書は追伸部分を本文の前に持ってくることがある。
2)「尉斗」は「熨斗」(のし)の誤字。当て字・誤字は結構多い。
3)「立願」は願掛けをすること。文中の立願は戦勝祈願だったともとれなくはないが、他文書の例を見ると、願を掛ける際に使われる。とすれば、戦後になされた願掛けは対今川戦の勝利祈願とは言い切れなくなる。
古文書二-------------------------------------------------
○1560(永禄3)年8月16日 比定
預御札候、厥以来者、遠路故不申通候、仍不慮之仕合、義元討死無是非次第、不可過候御推察候、拙者儀者、最前鉄鉋ニ当、不相其仕場候、雖然、至于只今存命失面目候、就中当屋形、可有御音信之旨候、拙夫于今三州在陣之儀候条、帰国之上令披露、久遠寺江委細申入候、殊私分音信快然之至候、兼又久遠寺次目判形之儀、則可申調候、不可存疎意候、就中従方々報之儀、去比茂有子細、不及其儀候、御心得奉頼候、恐惶謹言、
朝比奈丹波守
八月十六日 親徳
妙本寺
参尊報
戦国遺文今川氏編一五六八「朝比奈親徳書状写」(安房妙本寺文書)
お手紙頂戴しました。あれ以来は遠路でご連絡しませんでした。不慮の出来事により義元が討ち死にしたのはどうしようもないことです。ご推察いただければと思います。拙者は、直前に鉄炮に当たり、その現場にいませんでした。そうは言っても、今も生き長らえて面目を失いました。ともかく、今のお屋形様からご連絡があるでしょう。私は現在三河国に在陣していますから、帰国してから披露し、久遠寺へ事情を申し入れます。とりわけ、私への音信は嬉しい限りです。かねてからの久遠寺への相続保証書は、すぐにご用意しましょう。疎かには扱っていません。あちこちからの知らせがあった頃には、事情があって、対応できなかったのです。お心得いただけますように。
注記
1)「就中」(なかんずく)は、現代語であれば「とりわけ」という意味だが、この当時はもう少し多様な語義があったようだ。この場合は「ともかく」という現代語に近くなる。尾張での義元戦死を聞きつけた妙本寺住持が、懇意の親徳に情報を求めたものと思われる。妙本寺が不安になったのは、身延山久遠寺の相続保証を、義元死後も息子が行なってくれるかという点にある。
古文書三-------------------------------------------------
○1560(永禄3)年5月22日 比定
去十九日ニ於尾州口不慮之御仕合無是非次第候、然者左衛門佐殿無比類御動被思食御感候、就其被成御書候、此上之儀、御城之段、御油断有間敷候。尚以左衛門佐御事、日下者不聞得候、今度之儀者、真是非之無申事候、爰元之儀、涯分無油断被仰付候、可御心安候、境内之儀人質なと事、被仰付候者、御内儀可有之申候、恐々謹言、
三浦内匠助
五月廿二日 正俊(花押影)
松井山城守殿
参 御宿所
戦国遺文今川氏編一五三七「三浦正俊書状写」(土佐国蠧簡集残編六)
去る十九日、尾張口での不慮の出来事はどうしようもないことです。そして左衛門佐殿の比類ないお働きにご感動なさって、感状をお出しになりました。この上は、お城でのご油断がありませんように。更に左衛門佐殿のことは、目下のところ聞いていません。今度のこと、本当にどうしようもないことです。こちらでは最大限の警戒をしていますから、ご安心下さい。ご領地での人質などのことも、ご指示がありましたら内々でお知らせいたします。
注記
1)「日下者不聞得候」とある。これを「日下=ひのもと」と読み「日本では聞いたことがない」と解釈もできる。しかし、「日下」は他例が見つからないし、武功を褒める際は「比類のない」「前代未聞の」という形容詞が殆どであることから、「目下」の誤字であった可能性が高い。「目下」は一例だが存在し、現代語の「もっか」と同じ用例だ。
古文書四-------------------------------------------------
●1560(永禄3)年12月2日
父左衛門佐宗信及度々抽軍忠之事
一、東取合之刻、於当国興国寺口今沢、自身砕手、親類・与力・被官数多討死、無比類動之事
一、参州入国以来、於田原城際、味方雖令敗軍相支、敵城内江押籠、随分之者四人討捕之事
一、松平蔵人・織田備後令同意、大平・作岡・和田彼三城就取立之、医王山堅固爾相拘、其以後於小豆坂、駿・遠・三人数及一戦相退之故、敵慕之処、宗信数度相返条、無比類之事
一、苅屋入城之砌、尾州衆出張、往覆通路取切之処、直馳入、其以後度々及一戦、同心・親類・被官随分之者、数多討死粉骨之事
一、吉良於西条、味方令敗軍之刻、宗信相返敵追籠、依其防戦、同心両人・益田兄弟四人、遂討死之事
一、大給筋動之時、天野安芸・同小四郎其外手負大切処、宗信相支、無相違引取之旨、無比類之事
一、去五月十九日、天沢寺殿尾州於鳴海原一戦、味方失勝利処、父宗信敵及度々追払、数十人手負仕出、雖相与之不叶、同心・親類・被官数人、宗信一所爾討死、誠後代之亀鏡、無比類之事
右、度々忠節感悦也、然間、苅屋在城以後弐万疋、近年万疋、彼三万疋、以蔵入雖出置之、依今度忠節、為彼三万疋之改替、遠州蒲東方同名内膳亮、令扶助参拾貫文、其外相定引物引之、参百拾八貫文余蔵入分、令扶助訖、此外於増分出来者、令所務随其可勤相当之役、殊於彼地先祖古山城討死之由申之間、彼地之事於子孫不可有相違、然者内膳公文等問答之未進事、可為左右方間、於向後此未進分一切不可有其綺、并長田・鶴見弐ヶ村事、依訴訟今度相改、可令代官、但高辻弐百五貫文之外参拾貫者、如先代官時、為定納之余分令扶助、何茂知行分為不入上者、彼地事可為同前、弥守此旨、可専戦功之状如件、
永禄三庚申年
十二月二日 氏真(花押)
松井八郎殿
戦国遺文今川氏編一六一五「今川氏真判物写」(土佐国蠧簡集残編三)
父の左衛門佐宗信が度々軍功に優れていたこと。
一、東の国境で戦っていた際に、駿河国興国寺口の今沢で、自ら戦って、親類・与力・被官が多数討ち死に。比類のない働きだったこと。
一、三河国に入国して以来、田原城際で味方が敗軍したのを支え、敵を城内へ押し込めて、名のある者四人を討ち取ったこと。
一、松平広忠が織田信秀に味方して、大平・作岡・和田の三城を築いた時、医王山を堅固に守り、そのあとで小豆坂で駿河・遠江・三河の軍隊が一戦し退却して敵が追いすがったところ、宗信が数回にわたり撃退したのは、比類がないこと。
一、苅屋入城の際に、尾張軍が出撃してきて往復の通路を妨害してきた。すぐに攻撃してそのあとも度々一戦に及び、同心・親類・被官などで名のある者が多数戦死して苦労したこと。
一、吉良の西条で味方が敗北した際に、宗信は引き返して敵を置い戻し、同心両人と益田兄弟四人が討ち死にを遂げたこと。
一、大給方面の作戦で、天野安芸守・天野小四郎たちが負傷して危ういところを、宗信が支援して収容したことは、比類がないこと。
一、さる五月十九日、天沢殿(義元)が尾張国鳴海原において一戦し、味方が敗北したところ、父の宗信が敵を度々追い払い、数十人負傷させた。戦ったといえ敵わずに、同心・親類・被官数人と、宗信は一ヶ所で戦死した。本当に後世への鑑であり、比類がないこと。
右のように、度々の忠節は感悦である。だから、苅屋在城以後は二万疋、近年は一万疋、合計三万疋(三〇〇貫文)を現金支給しているが、今度の忠節によって、その替えとして遠江国蒲東方の松井内膳亮に、三〇貫文を与える。その他既定の控除を差し引き、三一八貫文余りを現金支給として与える。このほかに増収分ができたら、それに相当する税負担をするように。特にあの地は前の山城守が戦死したこともあるから、子孫に至っても相違があってはならない。そして内膳亮が税を滞納していることは、原告・被告双方が負担となったので、今後は滞納分での間違いは一切ないように。合わせて長田・鶴見の二ヶ村のこと、訴訟によって今度改めて代官を命ずる。ただし、合計二〇五貫文のほか、三〇貫文は、先の代官のように、徴税金額以外のものは付与する。どの知行地も不入とする上は、あの土地も準拠させる。このことを守り、戦功を専らにするように。
注記
1)「疋」は儀礼などで使われる通貨単位で10文の価値。「貫」は1,000文。30,000疋=300,000文=300貫文となる。
古文書五-------------------------------------------------
○1560(永禄3)年6月12日 比定
去年十一月十九日、去五月十九日於尾州大高口、両度合戦之時、太刀打被鑓疵三ヵ所云云、無比類働尤神妙候、弥可抽戦功者也、仍如件、
六月十二日 氏真判
鵜殿十郎三郎殿
戦国遺文今川氏編一五四六「今川氏真感状写」(鵜殿系図伝巻一)
去年の十一月十九日と、さる五月十九日、尾張国大高口において、二度の合戦の時、太刀をふるって槍で三ヶ所負傷したという。比類がなくもっともで神妙である。ますます戦功にぬきんでるように。
古文書六-------------------------------------------------
○1559(永禄2)年10月23日
去十九日、尾州大高城江人数・兵粮相篭之刻、為先勢遣之処、為自身無比類相働、殊同心・被官被疵、神妙之至甚以感悦也、弥可抽忠功之状、仍如件、
十月廿三日 義元判
菅沼久助殿
戦国遺文今川氏編一四七九「今川義元感状写」(浅羽本系図三十三)
さる十九日、尾張国大高城へ兵員・食料を補充する際に、先行部隊となっていたところ、自身が比類のない働きをした。特に同心・被官が負傷した。神妙の至りで強く感悦した。ますます忠功するように。
古文書七-------------------------------------------------
○1559(永禄2)年10月23日 比定
去十九日、尾州大高城江人数・兵粮相籠之割、為先勢遣之処、自身相返敵追籠、無比類動、殊同心・被官被疵、神妙之至甚以感悦也、弥可抽忠切之様、仍如件、
十月廿三日 義元判
奥平監物殿
戦国遺文今川氏編一四七八「今川義元感状写」(松平奥平家古文書写)
さる十九日、尾張国大高城へ兵員・食料を補充する際に、先行部隊となっていたところ、自身が引き返し敵を追い込めた。特に同心・被官が負傷した。神妙の至りで強く感悦した。ますます忠功するように。
古文書八-------------------------------------------------
●1560(永禄3)年6月8日
駿・遠両国内知行勝間田并桐山・内田・北矢部内被官給恩分等事
右、今度於尾州一戦之砌、大高・沓掛両城雖相捨、鳴海城堅固爾持詰段、甚以粉骨至也、雖然依無通用、得下知、城中人数無相違引取之条、忠功無比類、剰苅屋城以籌策、城主水野藤九郎其外随分者、数多討捕、城内悉放火、粉骨所不準于他也、彼本知行有子細、数年雖令没収、為褒美所令還附、永不可相違、然者如前々可令所務、守此旨、弥可抽奉公状如件、
永禄三庚申年
六月八日 氏真(花押)
岡部五郎兵衛尉殿
戦国遺文今川氏編一五四四「今川氏真判物」(藤枝市郷土博物館所蔵岡部文書)
駿河・遠江、両国内の知行である勝間田、並びに桐山・内田・北矢部のうちの被官への給料分のこと。右は、今度尾張国において一戦した際に、大高・沓掛の両城が捨てられた一方で、鳴海城を堅固に守備した。本当に粉骨の至りである。ところが孤立したことにより、指示を受け、城中の兵員を確実に引き上げさせた。比類のない忠功である。加えて、苅屋城に謀をしかけて、城主の水野藤九郎のほか名のある者を多数討ち取り、城内全てに放火した。粉骨は他に比べられないほどだ。あの知行は事情があって数年没収していたが、褒美として還付する。末永く間違いがないように。以前のように管理せよ。この旨を守り、ますます奉公にぬきんでるように。
古文書九-------------------------------------------------
○1560(永禄3)年6月13日 比定
其以来依無的便、絶音問候事、本意之外候、抑今度以不慮之仕合、被失利大略敗北、剰大高、沓掛自落之処、其方暫鳴海之地被踏之、其上従氏真被執一筆被退之由、寔武功之至無比類候、二三ヶ年当方在国之条、今度一段無心元之処、無恙帰府、結局被挙名誉候間、信玄喜悦不過之候、次対氏真別而可入魂之心底ニ候、不被信侫人之讒言様、馳走可為本望候、猶期来音候、恐々謹言、
六月十三日 信玄御書印
岡部五郎右兵衛尉殿
戦国遺文今川氏編一五四七「武田信玄書状写」(静岡県岡部町・岡部家文書)
それ以来便りがなく、ご連絡が絶えてしまいました。思いがけないことです。さて、今度の不慮の巡り合わせで、利を失い全体的には敗北となりました。加えて大高・沓掛は自落。そうしたところ、あなたは暫く鳴海の地に踏みとどまり、その上、氏真よりの一筆を受け取ってから退却したのとのこと。本当に武功の至りで比類がありません。二〜三ヶ年こちらに在国していたので、今度は一段と心もとなく思っていましたところ、つつがなく駿府に帰り、最終的には名誉を挙げられましたので、信玄の喜びは過ぎるところを知りません。次に、氏真に対しては格別に昵懇となりたい心底です。悪い人の讒言を信じたりしないように、馳走してくれるなら本望です。更なるご連絡をお待ちしています。
古文書十-------------------------------------------------
●1560(永禄3)年9月1日
当知行之内、北矢部并三吉名之事
右、父玄忠隠居分、先年分渡云々、然者、玄忠一世之後者、元信可為計、若弟共、彼隠居分付嘱之由、雖企訴訟、既為還附之地之条、競望一切不可許容、并弟両人割分事、元信有子細、近年中絶之刻、雖出判形、年来於東西忠節、剰今度一戦之上、大高・沓掛雖令自落、鳴海一城相踏于堅固、其上以下知相退之条、神妙至也、因茲本領還附之上者、任通法、如前之陣番可同心、殊契約為明鏡之間、向後於及異蒙者、如一札之文言、元信可任進退之意之状如件、
永禄三庚申年九月朔 氏真判
岡部五郎兵衛尉殿
戦国遺文今川氏編一五七三「今川氏真判物写」(土佐国蠧簡集残編三)
当知行のうち、北矢部、並びに三吉名のこと。右は、父玄忠の隠居分として、先年分を渡したという。であれば、玄忠の死後は元信だけの相続とするように。もし弟たちがあの隠居分を相続しようと訴訟しても、すでに還付した土地であるから、係争事案としては一切認められない。合わせて弟両人の分割分のこと。元信に事情があって近年家中にいなかった間に証文が出されている。とはいえ年来東西で活躍し、加えて今度の一戦では、大高・沓掛が自落したのに、鳴海一城で堅固に踏みとどまり、その上、指示を受けて退却した。神妙の至りである。これにより、本領を還付した上は、法に任せ、以前のように陣番に加わるように。契約は明確であるから、今後異議に及ぶ者はこの文言のように、元信に進退の意を任せるように。
古文書十一-------------------------------------------------
●1561(永禄4)年閏3月10日
三河国渥美郡七根内小嶋村一ヶ所、并綱次・高信両人仁宛行知行、遠州小池村之内五拾貫文之事、付、於彼両郷陣夫弐人之事
右、彼小嶋村之事者、為切符弐拾貫文之改替、所被宛行也、然者去辛亥年増分令出来、都合五拾貫文令所務之云々、縦収務以下雖為過上、年来抽軍忠之条、一円為知行被宛行之旨、先判形為明鏡之間永不可有相違、次棟別諸役之事、如前々免許之、兼又彼浦船之事、櫓手役等雖為惣国次、注進之時者、不論夜中令奉公之、不准自余条之条、彼地一円為不入免許之旨先印判雖有之、去年五月十九日合戦之砌、於沓掛令失却之旨申候条、任其儀如先規所令免除也、守此旨弥可抽軍功之状如件、
永禄四辛酉年
閏三月十日 氏真
大村弥右兵衛殿
戦国遺文今川氏編一六六八「今川氏真判物写」(御家中諸士先祖書)
三河国渥美郡七根のうち小島村一ヶ所、並びに綱次・高信両人に与えた知行、遠江国小池村のうち五十貫文のこと。付けたりとして、あの両郷の陣夫二人のこと。右は、あの小島村を切符二十貫文の代わりとして与える。去る辛亥年の増収益を合わせて合計五十貫文を経営せよという。たとえ増収があったとしても、年来の軍忠に免じて一円の知行として与えると、先の証文で明確にされていたので、間違いない。次に、棟別などの諸税は以前のように免除する。また、浦船は、櫓手供出義務が一斉課税されたとしても、連絡事項がある際は、昼夜を問わず遂行するようになっていて、他と比べられるものではない。なので、あの地一円は不入として免除する。このように先の証文にあったのだが、去年の五月十九日の合戦で、沓掛において紛失したということで、先の規約のように免除する。この旨を守り、ますます軍功にぬきんでるように。
古文書十二-------------------------------------------------
●1563(永禄6)年2月24日
給恩分之事
於三州吉田之内田畠屋敷分共拾壱貫文地、古郷之内四貫七百貫文、此内弐貫参拾文者、荒地開発忠節分也、都合拾五貫七百文、如年来可令知行、但此内弐貫四百文者扶持銭従蔵前毎年可請取之。右、雖帯天沢寺殿判形、去庚申年於沓掛令失却之由之条、重所成判形也、然者被官家七間之分棟別・押立・四分一等之諸役、是又如年来免許了、於度々令忠節之間、不可有相違、守此旨、弥可励奉公之状如件、
永禄六癸亥年二月廿四日 上総介(花押)
田嶋新左衛門殿へ
戦国遺文今川氏編一八九一「今川氏真判物」(田嶋文書)
給恩のこと。三河国吉田のうち田畠・屋敷分十一貫文の地と、古郷のうち四貫七百文、このうち二貫三十文は、荒れ地の開発をした忠節によるものとする。合計十五貫七百文、年来のように治めるように。ただし、このうち二貫四百文は、扶持銭として毎年現金支給するので蔵前から受け取るように。右は、天沢寺殿の証文を持っていたものの、去る庚申年に沓掛にて紛失したとのことなので、重ねて証文を発行する。被官の家七間の分は棟別・押立・四分一の諸税の免除を、年来通り行なう。度々の忠節があったので、相違があってはならない。この旨を守り、ますます奉公に励むように。